10 疲労困憊なおっさん

文字数 3,538文字

ディオニスはシラクスのまちに着いた。

そして走っていた。

(ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。あなたをエロジジイ呼ばわりしていることは陳謝(ちんしゃ)する。だがそれは水に流し、私の願いを聞いてくれ)
神々の王ゼウスに祈りながら、失礼なことを思っていた暴君だった。
(私は生まれた時から正直な男であった。業務に尽力し、戦に勝ち、毅然とした王として振る舞おうともしている)
それはウソではなく、彼は真面目な王だった。

ただ、ちょっと評判が悪すぎた。


クソ真面目過ぎて融通が利かないので、仲の悪い人から悪評が流されたためだ。

(だからどうか、私の愛する者を、冥府へ送らないでいただきたい)

赤い夕陽を受けながら、ディオニスは必死に祈り、刑場に向かって走っていた。

ディオニスは走ることと、神に祈ることしかできなかった。

(いや、待て。メロスはこの上なく愛らしいのだ。エロジジイに願って、目に留まりでもしたら、連れていかれるやもしれぬ)

血反吐(ちへど)を吐くほど走りすぎて、ディオニスの思考がおかしなことになっている。


ただ、大神ゼウスは神々の王でありながら、美しい娘や少年を見かけると、さらって妻のヘラに怒られるということを繰り返す。人間でなくてもちょっかいをかけ、けれどヘラはゼウスではなく、被害を受けた者の方に天罰を与える。


それはいかがなものかとディオニスは常々(つねづね)思っていた。

(王とは、そうであってはならぬのだ)

王とは毅然(きぜん)とした態度で、正しいことをしなければならない。


非常に愛らしいのだが、メロスは成人した男子。

それを愛人……というか恋人にするなど、(もっ)ての(ほか)だ。


(つと)めを果たさない不届(ふとど)きな王ならば愛人を囲い、男色(だんしょく)に走るかもしれない。


税金を無駄遣いして、色事(いろごと)(おぼ)れる王。そういう(やから)が多すぎた。

ディオニスはそういう王を憎んで自分が王になったのである。


それなのに、そんな(おろ)かな王たちと同じことをしてしまう。

ディオニスにはそれが耐えられなかった。


今まで築いてきた厳格(げんかく)な王のイメージが(くず)れ去り、大したことがない王と言われ、秩序(ちつじょ)(たも)てなくなるかもしれない。

(それよりも何より、私が色魔(しきま)男色(だんしょく)でエロい王だと市民から後ろ指さされてしまうかもしれない)

想像しただけで恐ろしかった。

そんな王だと言われてしまうのだ。

(だが、私が行かねば、メロスは死んでしまうのだ)
ディオニスは肩から斜めがけにした、メロスの水筒(すいとう)をぐっと握る。
愛してるよ……
そう言って、哀しそうな瞳で(はかな)く微笑んで、疾風(はやて)のように走って行ったメロスが脳裏(のうり)に浮かぶ。
(あいつが処刑されるなど……、しかも私の命令で……)
そんなことがあってはならんのだ!!

夕陽は半分ほど沈んでしまっていた。

急げ、ディオニス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らしめるがよい。


走る……、ディオニスは走っていた。

そして、シラクスの塔楼(とうろう)を過ぎ、街中に入り、刑場に向かって走っていると、フィロストラトスが目に入る。
?!

一瞬、メロスかと思った。

けれど、すぐに違うことに気づく。

(背格好は似ているが、あいつはもっと愛くるしい)
どこまでメロスが好きなんだ……。

外見は美少年だがフィロストラトスの性格はわりとチャラい。

……
フィロストラトスはディオニスを見て、ぎょっとし、そして走ってついて来た。
おっさん……
(……おっさん?)

そういう言われ方をしたことがない。

ムッとしたディオニスは、フィロストラトスを無視するように走る。


だが、メロスを助けて濁流(だくりゅう)の川を渡り、山賊に身をやつした十数人の兵士を屈服(くっぷく)させ、5里を走り、キリッとした美形なために若くは見えるが疲労困憊(ひろうこんぱい)な中年男と、ずっとシラクスにいて特に何もしていなかった若者では勝負にならない。


フィロストラトスはディオニスの横を走る。

なんで走ってんの?

そんな恰好で……

スポーツをするときは

こうであろう。

ディオニスは言いきった。


風態なんかはどうでもいい。

とでも言うのか、ディオニスはほとんど全裸体であった。


辛うじて隠してはある。しかし布は少なめ。

そこに泉の水が入ったメロスの水筒。それを肩から斜めがけしていた。

(なんで水筒?)
ディオニスが足を踏み出すたびに揺れる水筒を、フィロストラトスは不思議そうに見た。
ここ、街道っすよ。

ちゃんとしたところでのスポーツは裸体の場合もある。

オリンピックも裸で行われていた。

(でも水筒はないな)
何か文句があるのか?
フィロストラトスはすごい顔でにらまれた。
(まあ、いいか。怒られるのメンドウだし)

フィロストラトスはちょっとの間だけ黙ってついて走る。

けれど、それもすぐに飽きた。

おっさんもメロス様が死ぬところを見に行くわけ?

この先は刑場しかない。

フィロストラトスには、全裸で死にそうな顔をしてまで走って見に行かなければならない理由がわからない。

刑の執行はまだなのか?
フィロストラトスは知らなかった。

でも、素直に教えるはずもない。

さっきメロス様が通ってったから、そろそろじゃね?
まっすぐ刑場に向かったのか?

これまでの前科もある。

寄り道していてくれとディオニスは思った。

行ったんじゃね?
まっすぐに行ったのか行ってないのかどっちなんだ!
だから

まっすぐに行ったって言ってんだろ。

そうならそうと

言わんか!

イラついていたこともあり、切れた。
言ってるし……
機嫌が悪くなった。
(くそう、さすがに寄り道はしていないか……)

間もなく陽が落ちる。

ディオニスは急ぐ、急がなければならないのだ。

メロス様が処刑されるとこ、そこまでして見たいわけ?
フィロストラトスはディオニスを追いかけて訊ねる。
そんなわけがあるか!!!

えらい剣幕でフィロストラトスを怒鳴りつける。

さすがにムっとした。

もうダメじゃないかな?

ムダだよムダ。走んのやめたら? もう処刑は終わってるよ。

腹いせにフィロストラトスは言った。
いや、まだだ。

まだ陽は沈まぬ……

青い顔で言う。


ディオニスは力の限り走る。

そうしなければ、愛しい者が死んでしまうのだ。

ちょうど今、処刑された頃じゃね? あ~あ、残念だったね~。手遅れ手遅れ、遅かったね~。あとほんの少し早かったらね~。
嬉しそうに言った。
まだ陽は沈まぬ!

ディオニスの胸は張り裂けんばかりで、赤く大きい夕陽を見つめていた。

もう走るより他はない。

ゲホッ!
無理に走って口から血が出た。

もう呼吸もままならない。

何? おっさん、病気?

死ぬの? え? まじで?

さっきからうるさいぞ、

小童(こわっぱ)が!

私は死なん!

今、ここで死ねば、メロスを助けることができぬのだ!

口の血をぬぐいもせずに叫ぶ。
おっさん

メロス様を助けるわけ?

そうだ!
あんな無駄飯(むだめし)ぐらいの厄介者(やっかいもの)助けて、何の役に立つんすか?
………………
走りながらディオニスは考えた。
役に立つ、立たないの問題ではない。私が嫌なのだ。あの愛らしい生き物が、この世から消えてなくなってしまうことが……
(具体的なの、浮かばなかったんじゃね?)
フィロストラトスはそのことに気づいた。
こんなおっさんまで、

メロス様の毒牙にかかっちゃってるんすね……

疲れたように、フィロストラトスはつぶやいた。
あいつに毒牙などない。

あれは、ただ、真実を人にぶつけるだけだ……

……

私はあいつを愛しているのだ。生きていてほしいのだ……

ただ、それだけだ……

誰を想っていようと、構わん……

苦しそうにディオニスは言った。

走りすぎて苦しかったのか、心が苦しかったのか。

はぁ?
フィロストラトスには意味が解らない。

無理に縛り付けることなど、できはしないのだ……

あいつは自由な魂の持ち主なのだ……

まあ……

自由すぎる人っすよね……

笑いたければ笑うがよい。

私はあいつを助けるために走るのだ!

ディオニスは叫んだ。

メロスを助けたい、その一心で。

好きにすれば?

あんたがあの迷惑な間借り人をなんとかしてくれるんなら、オレはそれでいいし。

気圧(けお)されたフィロストラトスは言う。

ついて来たくばついてこい!

愛の力を見せてやる!

調子に乗ったディオニスは叫んだ。

半ばやけになっていたようだ。

(え……、なんかヤダ……)

フィロストラトスは刑場に向かって走るディオニスを見て思った。

(たしか、刑の執行は日没だったはず……)
陽はゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も消えようとしていた。
(頼む、間に合ってくれ!!)

ディオニスは走った。

愛する者のために、最後の力を振り絞って。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

メロス

村から王都シラクスまで走ります。

ディオニス

暴君。

メロスの今カレ。

セリヌンティウス
メロスの幼なじみ&同居人

フレイア

メロスの妹。

アレクサンドロス

妹の婚約者。

メロスの元カレ。

村長

村でいちばん偉い人

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色