5 神秘の泉

文字数 3,618文字

なんて

綺麗なんだろう……


メロスはいつの間にか樹々に囲まれていた。

どこか、ふつうの木と違う感じがした。


悠々(ゆうゆう)と時を過ごしてきたような貫禄(かんろく)

しっとりとした空気。


シラクスに向け、本当にまっすぐ道なき道を走るというか崖を登ったり降りたり木から木を渡りもした。そうこうしているうちに、人の手が入っていない、けれどまったく入っていないわけでもなさそうな、とにかく見たこともないくらいに美しい場所を走っていた。

()きていることに、誇りを持って()えている感じがする)

草木が凛として存在していた。

大自然の中で育ったメロスだが、こんなに美しい場所に来たことはない。


深い深い森の中。

苔むす樹々を緑色の光が包み、その光が辺りを照らすかのようだ。


緑のじゅうたんをできるだけ踏まないように、体重がかからないように軽やかに小走りする。

じっくりと眺めたかったが、時間が限られていたので気を遣って走り抜ける。

あれ?

サラサラという水の流れる音が聞こえた気がして足を止めた。

どこかで水が流れている。


濁流のゴーゴーも水音だが、こちらはもっと(たえ)なる調(しら)べだ。

あっちから音がしてる……

周囲を見回し、そちらに向かうと、近くの岩の裂け目から、こんこんと、何かをささやくように清水(しみず)()き出ていた。

これ、飲めるのかな?
誰に聞くわけでもなく、言ってみた。
……
なんとなくだが、飲めるような気がした。

メロスは水が流れているところにそっと手を浸す。

わ~、ひゃっこいっ
心地よい冷たさが、いままでの疲れを洗い流すかのようだった。
いただきます。

水から手を出して合わせると、軽く頭を下げて言った。

そして、メロスはその透明な清水を両手ですくって飲む。

おいし……
ずっと走って、山道を上り下りしていたからなのか、その水は五臓六腑にしみわたる気がした。

おかげで元気になれました。

これでシラクスまで走れます。

湧き出る清水に向かって言っていた。

(そういえば、水筒を持ってたっけ)

ディオニスは荷物をすべて流してしまったが、メロスはそんなもったいないことは絶対にしない。しようと思わない。


メロスは妹が持たせてくれた弁当も水筒も流さずに持っていた。

弁当は少し水浸しになっていたが、乾けばまだ食べられると思った。


大事な妹が持たせてくれた弁当を捨てようなどとは決して思わない。

……
その場に座り、少し弁当を食べる。
(食べられるし、ちょっとしっとりしてておいしい)
そして水筒の水を飲み切った。
()んでいってもいい?
何かが見えたわけではないが、メロスは言う。
………………
返事がきたわけではなかったが、「いいよ」と言われたような気がしてメロスは水筒に清水を入れた。
ありがとう。

水筒がいっぱいになると、見えない何かに礼を言っていた……。


「いえいえ、どういたしまして」

と、笑顔で言われたような気がした。


メロスは大事そうに水筒を紐で腰にくくりつける。


小さい頃から大事に使っていた水筒で、本当は斜めがけしたいところだったが、そうすると走りにくいし子供っぽくなるのでわかりにくく持っていた。

よし、行くぞ。

シラクスでせっちゃんが待ってる!

清水に元気をもらえたかのように、メロスはグングン走っていく。

どこを走っているのかわからなかったが、もうすぐシラクスに着くような気がした。

メロスはご機嫌で走った。




      ◇◇◇




それからしばらく経ち、シラクスへ向かう正しい街道。
はぁ……、はぁ……、はぁ……

彼は地道に走っていた。

メロスのように「近道っぽいから行ってみよう」などという、未知の要素を加えたりしない。


このペースなら、日没前にシラクスに着くことができるだろう。

彼の頭の中ではしっかりと計算ができていた。


しかし、メロスはいなかった。

(あいつはどんな速さで走っているのだ? まさか、あれからまったく休まずにシラクスへ向かっているのか?)
そう考えて、情けない気持ちになった。


ディオニスは疲労困憊(ひろうこんぱい)になっても走っていた。

それなのに、メロスは別の男のために、自分の命を賭してまで走っているのだ。

(それほど、セリヌンティウスが死ぬのが嫌なのか?)

そう考えて、イラっとした。

(私は何のために走っているのだ……。あいつは私よりも、セリヌンティウスがいいのかもしれない……)
今朝も、
お願い……、やめて……
と言うメロスに興奮してしまい、やってしまった。
(愛らしいあいつが悪いのだ!)
ぜーぜー言いながら走っているのに、そういうことを考えているディオニス。仕事以外での彼の脳内はそういうことしかないのか?


しかし、そこでディオニスはハッとする。

(本当はセリヌンティウスが好きだが、私が暴君だから、やむを得ずしているのか? あれが本音か? 本当は、私としたくないのか? まさか、セリヌンティウスを求めているから、休むことなく走れるのか?)

愛しい者が、別の男を欲して走っている。

そう考えるだけで、怒りがこみ上げてくる。


慣れないことをして、判断力がなくなっていた。

(こんな思いをするのなら、いっその事……)
ディオニスは走るのをやめ、よろよろと歩き、そして立ち止る。
(そもそもあいつが……、メロスいなくなれば、こんな思いをしなくてもいいのだ……)
ディオニスはめまいを感じ、ガクンと膝をつく。
(私が行かなければ、生き残るのはひとりだ。あの二人が仲睦まじく暮らすということもない)

ぜーぜーと、乱れた呼吸をしながらディオニスは考えていた。

しかし、それも限界だ。


全身萎えて、もはや進むこともできなかった。

道端の草原にごろりと寝ころび、ディオニスは目を閉じた。

(メロスは間に合い、私はここで進むのをやめる。そうすれば……)

ディオニスは、疲れていた。

メロスを疲れさせるために、自身もそうとう無理をした。


うね(くる)う川を渡り、山賊を改心させ、いつもとはまったくやったことがない長距離を走ることをしているのだ。彼の疲れはピークに達していた。


そうなると、心も疲れて悪いことばかり考えてしまう。

しかも、助けたいと思っている恋人は、別の男のために走っていてその後ろ姿すら見えない。


前を走っていなかったからだが。

(メロスがいなければ、私は王としての尊厳を失うこともなくなる。メロスと会う前のように、ただ、シラクス市民のためだけに生きて行けばいい)

それが最善なことなのようにも思えた。


けれど、心を引き裂かれる。

何かが悲鳴を上げている。

(私は王だ。市民のことを、第一に考えねばならない……。歴代の王のように、私利私欲(しりしよく)で動いてはならんのだ)

その悲鳴を、打ち消すように考える。
(欲しいものを欲しいと言ってそれを求め、快楽に身を落とせば、それまでの王たちと変わらなくなってしまうのだ)
(私はそうでない王にならねばならぬ)
それが正しいことだった。

けれど、ディオニスは、そう考えれば考える程、辛くて辛くて、心が壊れていくような気がした。


(メロスがいると、それができぬ……)
(こうすることが、最善なのだ……)
(私が理想とする王になるためには……)
ディオニスは四肢を投げ出し、うとうとと、微睡(まどろ)んでしまった。




      ◇◇◇




ディオニスは夢うつつにいた。
(なんだ?)
何かが触れてくる。

いつもなら振り払うはずが、疲れていたためか、それもできない。


優しい何かに包まれるような感じがした。

(なにか、とてもよく知っている気がする……)

大地から少し起こされ、唇に柔らかい物が触れ、口の中に液体が流れ込んできて、それをゴクンと飲み込んでしまった。

(なんだ? 今のは……)
びっくりして目を開けると、
あ、起きた?
ニコニコと言うメロスがいた。


まっすぐにシラクスへ向かっていたメロスだったが、険しい道だったために街道を走っていたディオニスに追い抜かれ、ようやく追いついたところだった。

(夢……、なのか?)
それを知らないディオニスは自分の目を信じられなかった。

どんなに探してもいなかった、先に行ってしまったはずのメロスが、どうしてここにいるのか。

(夢以外に考えられん。それとも狐狸妖怪(こりようかい)か?)

メロスは水筒を持ち、手の甲で自分の口を拭っている。

ディオニスは体を起こし、その愛らしい姿を見つめた。

自分で飲める?

すっごく美味しい水だよね?

そう言って、メロスはディオニスに水筒を差し出す。
いま、おまえが私に飲ませたのか?
うん

あっさりとうなずいた。


その水のおかげなのかメロスに会えたからなのか、ディオニスはとても元気になっていた。さきほどまで地獄の針山にいるようだったが、明るい陽射しの天国にいるような気持ちになっていた。

(夢でもかまわん……。この愛らしさは私のものだ)
ん?

ディオニスは差し出された水筒ではなく、メロスの手を握る。

夢にしては、リアルな感触だった。

おまえが飲ませろ。
え?
メロスを引き寄せ、抱きしめるとキスをする。
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登場人物紹介

メロス

村から王都シラクスまで走ります。

ディオニス

暴君。

メロスの今カレ。

セリヌンティウス
メロスの幼なじみ&同居人

フレイア

メロスの妹。

アレクサンドロス

妹の婚約者。

メロスの元カレ。

村長

村でいちばん偉い人

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