メロスは近所の公共浴場に来ていた。
広い敷地内に、シャワーを浴びられる箱のような場所やサウナや水風呂がある。
仕事に疲れた後やスポーツの後などに使う施設だ。
(とっとと入って、ちょっと仮眠して、家に帰って祭壇を飾らないと……)
しかし、半端なく疲れていて、眠くて眠くてたまらなかった。
そう思いつつ、ざっとシャワーのようなものを浴びてサウナでボーっとする。
いままで見たこともないような笑顔だった。
可愛い可愛い妹にそんなことを言われるとは……。
メロスは信じたくなかった。
(っていうか、アレク! あいつまさか、フレイアよりもボクの方がいいとかって言うんじゃないだろうな!)
(フレイアがボクよりもあいつの方がいいって言ってるのに、それなのにボクがとか言いだしたら……)
地味に殺意がもれていた。
妹のことになると、まわりが見えなくなる。
顔を上げるとアレクの親戚がメロスの方を見ていた。
小さな村だったが狭くはないので、何度か顔を合わせたことがある程度だった。
アレクとフレイアちゃんの結婚式のために帰ってきたのか?
外面はハンパなくいい。
アレクサンドロスに殺意を抱いているとは思えない笑顔だった。
メロスの彼氏はディオニスである。
他にそう言われる人物は思い当たらない。
(まさかと思うけど、日時の変更をディオが伝えに行ったのか?)
もともと季節外れの結婚式で迷惑っちゃ迷惑だったんだが、あの家は我が道を行くからな。しかたがないくらいに思っていたんだ。
なんで葡萄の収穫前に結婚式をするのかという話だった。だが、フレイアが身重になったので目立たないうちにということだろう。
1日くらい、遅かろうが早かろうが、まあ、関係ないんだが……。
恥ずかしそうに答えた。
メロスはディオニスが恋人であると言うことに慣れていなかった。
言えて嬉しかったが、ホントにいいのかという気持ちもあった。
言っていたわけじゃないな。『メロスに手を出しているヤツはいないか』という心の声が聞こえたという感じだな。
アレクサンドロスの親戚はその時の恐怖を思い出したかのようで、げんなりとした顔で言った。
それはその男でもわかった。
ディオニスはかなり変だった。
(ディオがシラクスの王様だって知られちゃまずいよね……)
彼があの暴君だとわかったら、善良な村人は恐怖でどうにかなってしまうだろう。
アレクの両親も村長も、その他の招待客も、皆、驚いとったぞ。
「さすがメロスだ。またとんでもない彼氏を捕まえてきた」と噂しとるぞ。
アレクサンドロスの親戚は、特に変わった様子もなく、サウナに入って行く。
メロスはその場から遠ざかり、人目につかないところにあるシャワーを使うと、ため息をついた。
(気づかれたかな? だから、昨日はおかしかったのかも……。なんかヤケクソになってる感じもしたし……)
メロスには思い当たることがあった。
他の男だのなんだのと言っていたのは、以前、メロスがこの村でされたことを知ってしまったからかもしれない。
(ディオに嫌われたら、どうしたらいいのかわからない……。でも、そうなったら、シラクスに戻って、磔刑になればいいか……。それならディオも止めないだろうし)
(フレイアの結婚式が終わったら、すぐに村を出よう)
形式上とは言え、メロスは犯罪者だった。
しかも、今、ディオニスに必要がないと言われたら、助かる見込みは無い。
それならば、明日の日没までにシラクスに戻り、セリヌンティウスを助けなければならない。
帰ってこなくてもいいぞ。俺の命がお前の命に代わるのなら、俺は喜んでこの命を捨てよう。
大切な友の言葉を思い出す。
今まで、見たことがないような、穏やかな顔をしていた。
(せっちゃんが生きてた方が、ボクが生きるよりも何倍もいい。アレクの気持ちを確かめて、結婚式が済んだら、シラクスに戻ろう。それで……)
(あんな幸せ、ありえないもん。やっぱり、長くは続かないんだ……)
いきなり耳元でディオニスの声がして、壁に押し付けられた。
ディオニスはメロスをシャワーの前から退け、自分がシャワーを浴びる。
自分のすぐ横で、水が滴っているディオニスを、メロスはぼんやりと見つめた。
ディオニスは身体を洗い流した。
ディオニスはメロスに近寄ると、唇にそっと触れる。
彼は静かに怒っていた。
一応、ディオニスを少しでも休ませたいというメロスの配慮はあった。
起きているとすぐに襲ってくるし。
ディオニスはメロスにキスをする。
メロスはか細い声で言うが、ディオニスは力を緩めず、むしろきつく身体を抱きしめる。
メロスは泣きそうな声で恋人を呼んだ。
ようやくディオニスは力を緩め、メロスを離すとゆっくりと息を吐いた。
ディオニスはメロスの耳元で言った。
メロスは目を見開き、手をぎゅっと握る。
静かな声。
感情が込められていない分、恐怖を感じた。
メロスは消え入りそうな声で言った。
早く忘れたかった。
…………はじめは、旅人。困っていたみたいだったから、声をかけたら、宿に連れ込まれて……
ディオニスの暗い瞳に、見えない何者かに対する怒りが見えた。
役人に……。
しないと、家と羊を取り上げられると言われて……
ディオニスはそんなもののために体を差し出す理由がわからなかった。
軽蔑されたと思った。
彼に捨てられたら、生きていても意味がない。
ディオニスは苦々しくそう言い、力任せにメロスを抱きしめる。
その温もりに、メロスはほんの少しだけほっとした。
弱きを助け強きをくじく。
ディオニスは本来そういう王だった。
メロスはディオニスに触れる。
違うよ。アレクがそれに気づいて、村長に言ってくれたんだ。それで、その役人たちは村にいられなくなったんだ。
慌てたようにメロスは言った。
嫌なことはあったが、メロスが生まれ育った村だ。それ以上に楽しい思い出もあった。
吐き捨てるようにディオニスが言い、メロスは虚ろな瞳でうなずいた。
村長はちゃんとした人だよ、バカの親族だけど。それからはそんなことなくなったし。
と言っていた妹を思い出す。
あの衝撃は、辛いなどというものではなかった。
しかし、彼が恩人であることには変わりがない。
メロスはアレクサンドロスに助けられた。
ずっと好きだったって言われて……
お礼のつもりもあったんだ。
ディオニスは目を細くして、メロスの後頭部の髪を掴む。返答によっては、どうなるかわからない。
メロスは目を大きく開いた。
そして、ムッとした顔でディオニスを見ると、勢いよく首を振った。
それまでと変わらないような気がしたんだ。相手が変わって、自分も合意しているけど「なんだ、やってること、変わらないや」って。そしたら、何もかも嫌になったんだ……
そう言われたメロスは、驚いたように目をしばたかせ、慌てて首を振る。
ディオニスはそう言って、メロスをさらに人目につかない個室に連れて行った。
(早く家に帰って、祭壇を作んないといけないんだけど……)
メロスは恋人の様子を見て、何かわからない不安を感じた。