セリヌンティウスの家を出て、メロスは石畳の道を歩いていた。
雲のない夜空、満月の少し前の月の光は、星が見えなくなるほど辺りを明るくしていた。
シラクスのまちは静かだった。
月の光が降る音が聞こえそうな静寂は、村の牧人だったメロスには心地がよかった。
(誰もいなくなっちゃったけど、ボクは嫌いじゃないな。こういうの)
蒼く優しい月の光に自分の影が作られるのを見ながら、メロスは楽しそうに歩いている。
2年前にメロスがこのまちに来た時は、夜でもたくさんの人々が往来にいた。活気にあふれ、皆は店で飲食をして、そこで陽気に歌ったり踊ったりと、それこそ大騒ぎをしていた。
けれど、今は下手に出歩いて犯罪者にされないように、家々の扉は固く閉ざされていた。明かりの見える家もあるが、中から声は聞こえてこない。
王のいる都、王都とは思えないほどシラクスはひっそりとしていた。
シラクスの王、暴君と言われているディオニスは、悪心を抱いていると決めつけ、多くの者を殺した。王の妹婿を殺し、妹も殺し、賢臣アレキスも殺した。誰の心も信じず、何も信じていないと人々から噂されていた。
王の一存で決まる処刑は、どのような理由で行われるのか市民にはわからなかった。皆は次は自分かと毎日怯えて暮らしていた。
メロスが歩いていたのは、高級住宅街だったはずの一角だった。
この辺りは特にひと気がなく、街灯もやけに暗く感じた。
金を持っているだけで犯罪者にされてしまうと思えるほど金持ちは取り締まられた。質素倹約を強要し、派手な暮らしをしている者は人質を差し出すように命令され、それを拒むと磔刑になり、十字架にかけられた。
財産と呼べるのは羊と妹だけ。
セリヌンティウスの世話にならなければ、シラクスで生活もできない。
だから、メロスは磔刑など畏れる必要はなかった。
メロスはすぐ横にある、明かりもなく、不気味なほど真っ暗な館を見上げた。
その館の一家は、全員で磔刑になった。
磔刑は生きたまま十字架に打ち付けられ、死ぬまで広場にさらされる、もっとも重い刑罰だった。
かつては美しかった館も主をなくし、その館の影が道路を覆っていた。
メロスの前に闇が広がる。
そこを通らねば先には行けない。
メロスは一瞬だけ躊躇したが、館の影に入る。
いつも通っている道だったので、とにかくひたすらまっすぐに。
すると、暗闇の中で待ち構えていた何者かに捕らえられ、ずるずると館の中に引き込まれた。
前を通ってはいたが、一度も足を入れたことがなかった館。
メロスは頭の中が真っ白になる。
真っ先にそう思った。
羽交い絞めにされ、入口から遠い場所に連れていかれる。
そのことに気づき、教わっていた護身術を繰り出そうとした。
後ろにいる相手に、肘鉄を食らわそうとしたが、簡単に避けられる。
教わっていた護身術がすっぽ抜け、無我夢中で抵抗するが、それくらいでは背後にいる屈強な男から逃れることはできなかった。
目に涙を浮かべ、扉の方に手を伸ばしても空を掴むだけ。恐怖のために声を出すことも忘れ、闇雲に逃れようとしたが、男はビクともしない。
体をまさぐられ、それでも抵抗を試みていたが、メロスはあることに気が付いた。
メロスは動きを止めた。
この男のことを、よく知っているような気がした。
顔を上げ、そっと相手の様子を見た。
月明かりに現れたシルエットを見て、メロスは安堵のため息をついた。
どうしたのだ?
もっと抵抗せぬか。つまらぬではないか。
それは悪かったな。
早く王城を出られたのでな、一刻でも早くおまえに会いたかったのだ。
シラクスの王、暴君と言われているディオニスは、穏やかな瞳でメロスを見つめた。
愉しそうに言い、メロスの身体に直に触れようと手を入れる。
おだやかに拒まれ、ディオニスは目を細めて恋人を見下ろす。
訓練のために会ってるんだよ。「いかがわしいことをするためじゃない」って、いつも言ってるくせに。
メロスはディオニスから護身術を習っていた。
ふだんはメロスが『したい』と言ってもそう言って、乗り気ではない護身術を無理やりやらせる。
その仕返しだった。
余裕の笑みを浮かべ、そう言うとメロスの頬にかかった髪を払い、そのまま頬をなでる。
こういうことするのは、成果を出した時のご褒美なんじゃないの?
嬉しそうに言うメロスをディオニスはいとおしそうに見つめる。
そして、その手を握り、ニヤっとした。
怒ったように言うが、顔はにやけていた。
そしてメロスを押さえこむ。
メロスは難なく逃れられると思っていた。
ディオニスの熱い息が首筋にかかり、メロスはビクっとした。
時間かせぎとは小賢しいと思いつつもディオニスは聞いていた。
訓練、うまくいかなかったらされて、うまくいってもするよね。
うまくいかなかったら罰だし、うまくいったら褒美だ。
そう言って、メロスをさらに押さえ込む。
身体が密着して、熱い息がかかる。
たいした抵抗もせず、むしろ自分から身体を密着させ、唇をディオニスに近づけて聞く。
愛らしく笑い、首を傾げる。
歴戦の猛者のディオニスと格闘しているのが面倒くさくなっていたメロスだった。
むり……。
ディオにこんなことされたら、力が入らないよ。
甘い吐息をもらしながらメロスは言い、恋人を抱きしめる。
百戦錬磨の王を相手に、自分が思ったように動くのはムリだった。
だから、ここぞとばかりに抱きついた。
そう言いながらも首筋にキスをする。
メロスはそっと微笑む。
苦々しい表情で暴君は言うと立ち上がり、メロスを抱き上げた。
いきなりのことに驚き、メロスはディオニスに抱きつく。
長椅子は座ることもあるが眠ることもあり、そこでする場合もある。
呆れたようにため息をつき、ディオニスはメロスに優しく微笑んだ。