9 間に合ったメロス
文字数 5,209文字
死力を尽くしてメロスは走った。
メロスの頭はからっぽだ。元々そんなに入っていない。
わけのわからない大きな力に引きずられるように走る。セリヌンティウスを助けたい。その一心で。
そして、刑場が見えてきてメロスはそこに駆け込み、メロスはあまりにも見物人が多いことに驚いた。見渡す限りの人だった。
人が死ぬ様子を見たがる人間がいることに
ただ今回は、暴君を殺そうとした罪人が、親友を身代わりにして自分の村に帰り、約束通り3日後に戻ってくるか否かという見世物のようにもなっていた。
見物人の大半は、逃げてしまうと思った。
一度自由になった者が、殺されるために戻ってくるはずがないと。
けれど、ほんの少しだけ期待していたのかもしれない。
自分が死ぬとわかっていて、戻ってくるかもしれないことを。
そんな馬鹿正直な人間を、見てみたいと思っていたのかもしれない。
メロスは叫び、友の姿を探す。
円形の闘技場。刑の執行はそこで行われる。すり鉢のようになっていて、中央にはすでにはりつけの柱が高々と立てられていた。
その下に縄を打たれたセリヌンティウスがいる。傍らに横木があったが、まだ刑の執行はされていなかった。
メロスは叫んだ。
しかし、群衆はメロスに気づかない。
暴君に
メロスは群衆をかき分ける。
いままでで一番大変な思いをしたかもしれない。
群衆をかき分け、懸命に進む。
メロスの近くに居た者は、美少年が必死の形相で人をかき分けているのに驚き、思わず道を開けた。
けれど、ほとんどがメロスが来たことに気づかない。
メロスは叫び、やっとのことではりつけの柱の前にいるセリヌンティウスのところに到着した。
群衆がどよめく。
はりつけ台に
美しいドレープを描く真っ白いシルクのキトンを着ており、その短い丈の裾から、すらりと伸びた形の良い足。青年としては華奢な体つきだが、均整がとれたシルエット。
そのメロスは膝をつき、自分の身代わりで縛られている友に、白く美しい腕をすっと伸ばす。
遠くからでもその仕草は、見ている者の目を奪う。
それでも悩ましげに顔をゆがめ、縄をほどこうとしていた。
メロスは必死になって縄を外そうとする。
凛としたセリヌンティウスの声が響いた。
セリヌンティウスはやややつれたが、そのやつれ加減がより哀愁を漂わせている。
彼を縛っていた縄がするりと外れた。
そんなことを皆が口々に言う。
けれど、メロスはそんなこと気にならなかった。
それどころではないと言った方が正しかったかもしれない。
セリヌンティウスを自由にすると、メロスは崩れるように倒れた。
セリヌンティウスはメロスを抱き起こす。
助かったというような感じはなかった。
セリヌンティウスは死を覚悟していた。けれど、それが怖くないわけではない。
メロスは暴君を殺害しようと思っていない。
むしろ、そうしたいと思っていたのはセリヌンティウスだ。
牢獄でのことは、思い出しても腹が立った。
メロスは自分のものだと宣言しにきて、自分の優位を自慢するように主張する姿は腸が煮えくり返った。
だが、メロスはディオニスを愛している。
なぜあのような暴君を愛するのか、セリヌンティウスにはわからなかった。
わかっているのかもしれないが、認めたくなかった。
メロスはバカで、本当にバカで、迷子にはしょっちゅうなるし、後先考えないで突っ込んで尻拭いをセリヌンティウスにさせるし、放っておけば、食っちゃ寝を繰り返すだけのごく潰しだ。
直感で物事の本質を見抜き、悪いことは悪いと言ってしまう。
言わなければ、波風が立ったりもしないのに、人が気にしていることをサクっと言って怒らせる名人だ。ただ、人はそこから目を背けたらいけないのかもしれない。
セリヌンティウスは、メロスのそういうところに助けられたことが何度かあった。ケンカをして、頭が冷えて考え直すとメロスの言う通りで、それを認められない自分の弱さに嫌気がさした。
けれどそれを認めると、メロスは綺麗に微笑んで、いつもと変わらず接してくれた。
それなのに、自分が本当に苦しい時、メロスは何も言わなかった。
綺麗な顔で、淋しそうな笑みを浮かべただけだった。
セリヌンティウスはそれが悔しかった。
知らない男どもに、やられ続ければいいとさえ思った。
セリヌンティウスはそう思い、死を覚悟していた。
自分はメロスの代わりに死のうとしていた。
けれど、メロスは戻ってきてしまった。
時間は間に合い、このままだとメロスが処刑されてしまう。
今、そのメロスが腕の中にいる。
しなやかな身体。艶やかな唇。しっとりとした吸い付くような肌。
夢に描いていた通り、いや、それ以上だった。
セリヌンティウスは、いままで触れることのなかった愛しい者を胸に抱いていた。
セリヌンティウスは、そう思った。
そして、
刑場にいた人々が声を上げた。
だが、刑吏もそれを聞くわけにはいかない。
群衆の言うことを聞けば、次に処刑されるのは刑吏になる。
刑吏はセリヌンティウスからメロスを引きはがそうとした。
セリヌンティウスはそれでいいと思った。
メロスを死なせるくらいなら、自分も一緒に死にたかった。
「嫌だ」と言ってほしかった。
もしそうなら、セリヌンティウスはどんなに嬉しいかわからない。
あっさりとメロスは言った。
セリヌンティウスは地味に落ち込んだ。
地味にだったが、とてつもなく深く深く落ち込んだ。
セリヌンティウスは言葉を失った……。
セリヌンティウスを傷つけるだけ傷つけて、メロスは刑吏の前に行く。
そして、刑吏はメロスを横木のところまで連れて行く。
磔刑は横木に両腕を
そして、目の前に横木があった。
刑吏たちは、メロスが何を言っているのかわからず、呆けた顔でメロスを見た。
だから、本当に時間稼ぎだった。
メロスを強い態度で
しかし、他の刑吏に行くてを阻まれ、メロスの
鋭い口調でメロスは言った。
普段、ぽやぽやしている分、セリヌンティウスまでもが驚いていた。
刑吏の手が止まる。
メロスには刑吏に命令をする権限はないが、整った顔で真面目に言われると凄みが増してそうしなければいけないような空気になった。
その表情を見て、セリヌンティウスはメロスが誰を待っているのかを知った。
セリヌンティウスは目をそらし、唇を噛みしめる。
メロスは笑みを浮かべて言う。
そして、茜色の空を見つめる。
大地に赤い太陽の下端が触れていた。
メロスは言い放った。
刑吏はその勢いに押された。
まだ陽は沈んでいなかった。
みるみる沈んでいく太陽を見て、メロスは少し後悔していた……。
自分がいつも思いつきで発言をすることを。