すぐに出発はせずに、メロスは羊小屋の掃除をした。
このまま妹に掃除をさせて出かけるわけにはいかない。
そんなに時間をかけるつもりもなかった。
元々メロスの仕事で手際も良く、みるみる綺麗になっていく。
フレイアは椅子に腰かけ、兄の仕事を見ていた。
小さい頃はよくこうしていたので、なんだか懐かしい気持ちになっていた。
せっかく帰って来たんだから、あと2,3日くらい泊まって行けばいいのに。
久しぶりに会った兄に、甘えたい気持ちになっていた。
羊の世話以外、あんまりやろうとはしなかった兄である。
確かにシラクスでメロスがやることはほとんどない。
(ディオさんとやる以外に用事なんてあるのかしら?)
(それ以外にやることないから、ディオさんを追いかけるっていうのが妥当なところかな?)
(お兄ちゃん、なんだかんだ言って恋愛体質っぽいとこあるし)
フレイアは賢い妹だった。
はっきりとはわからなかったが、何かが引っかかっていた。
そもそも、メロスがフレイアのお願いよりも優先する用事があるとは思えなかった。
思い返してみても、今回、彼が村に来たのもおかしかった。
いつもは王の仕事を優先して、余った時間にメロスと会っていた。
恋人同士だと周囲に気づかれないようにしていたので、会っても素っ気ないことが多く、人目に付かないところに来て、ようやく恋人らしいことをしてくる。
彼は厳格な王を目指していて、色事にはまったらいけないと思っていることは、メロスも感じていた。
ディオさんがいないところで、間違いを犯してしまう二人。後悔をするお兄ちゃんに、後悔させてしまったことを後悔するせっちゃんが見てみたい。
(さすがお兄ちゃん。通常通りと見せかけ、合間に魅せる物憂げな表情が耽美だわ)
(こういうのは男女の恋愛では出ないのよね。禁じられた恋をしているがゆえに押さえ込んでしまう感情。でも、隠しきれずに漏れ出てしまう恋心……)
妹の心の声が微妙に聞こえたような気がした。
メロスはそれを追いやるように、テキパキと掃除を終わらせた。
メロスは軽く食事をして出かけるつもりでいた。
この後、日没まで食事を摂れる気がしなかった。
台所に向かいながら、
と聞いた。
祝宴に来た客は帰ったようだが、アレクは家にいるはずだった。
昨日の雨、すごかったでしょ? 葡萄畑がけっこう大変なことになってるらしくて、お家のお手伝いに行ってるよ。
結婚式が終ったとほぼ同時に振り出した大雨。それから明け方近くまで降り続いていた。
日没までにシラクスに戻らなければ、メロスの代わりにセリヌンティウスが、王であるディオニスに殺される。ということを聞き、フレイアは烈火のごとく怒りだした。
フレイアも兄と同じかそれ以上に、自分に惚れた相手を利用するのが上手かった。
でも、いままで何もしてなかったから、これくらいしないと……。
2年前のことを言ってるんなら、お兄ちゃんは気にしなくていいよ。
私がアレクを落とすのにお兄ちゃんが邪魔だったから追い出しただけだから。
ただ、妹も兄と一緒の時間を過ごしたい気持ちもあった。
今は、そう思ってしまったことを後悔していた。
フレイアもセリヌンティウスのことを、(兄を想っている登場人物として)とても大事に思っていた。
急いでシラクスに戻らないと、
せっちゃん、殺されるよ。
真面目な顔で妹に言われ、メロスは改めてゾクッとした。
言いたくないけどさ。お兄ちゃん、ディオさんに何度かお願いしてたけど、あれ、聞いてもらってないよね。
(そこでやめられちゃったら見てる方はつまんないんだけどね。むしろそこがいいっていうか、お兄ちゃんも誘ってるっていうか?)
そんな好機、どうしてディオさんに与えちゃったの? ディオさんはせっちゃんが目の上のたんこぶなんだよ!
そんなの関係ないんだよ。お兄ちゃんとせっちゃんは、気持ちの上では固い絆があるもの。
せっちゃんは、お兄ちゃんが大事で大事で、本当に大事だから手を出せなかったの。
そこがアレクとは違うのよ。アレクは自分の気持ちに正直だからいいんだけど、せっちゃんは内に秘めちゃうのよ。
フレイアは言葉を詰まらせた。
兄を苦しめた奴らと同じになりたくなかったのだと、言うことができなかった。
先に行ったディオさんを見つけて、一緒にシラクスに行くんだよ。じゃないと、間に合った時、お兄ちゃんが殺されちゃうからね。
唇をかみしめ、妹は言った。
止めても兄が聞かないことはわかっていた。
それから、フレイアに急かされながら昨日の残り物を軽く食べ、水が入った水筒と、フレイアが手際よく包んだ弁当を持ってメロスは出発した。
お兄ちゃん、行ってらっしゃい。
ディオさんはこの先の川に行ってるはずだって。
村にも被害が出たけど、川のあたりはもっと大変だったらしくて、ディオさんはその状況を見に行って、まだ戻ってきてないらしいよ。
賢い妹は、兄が食事をしている間にわかるだけのことを聞いてきた。
お兄ちゃん、絶対に絶対に
ディオさんと一緒にシラクスに戻るんだよ。
妹は他人事な顔をしている兄に、何度も何度も念を押す。
妹はそう思ったが、言っても暖簾に腕押しになることがわかっていた。
(そう言ってもお兄ちゃん、絶対に何かやらかすから……)
私とこの子と、
ついでにアレクのために。絶対に生きて帰ってきてね。
そして、メロスは走り出した。
日没までにシラクスに着かねばならない。
ディオニスのあの言葉が、メロスの頭の中で何度も繰り返された。
思い返してみると、ディオニスは普段と違うことをたくさんしていた。それはメロスがシラクスに戻るのを遅らせるためだと考えれば辻褄が合う。
(ディオの欲望を満たすのも兼ねた作戦だったのか……)
連日の攻めはそうとしか思えなかった。
王という枷が外れて気ままに行動していただけだと思っていた。
メロスはそういう行動をよくする。
やらなければいけないことから解放されると、自由気ままに動き出す。
解放されてなくても動き出す。
しかし、あのディオニスである。
枷が外れたとしても、そんなことにはならないのかもしれない。
(ディオは、どんな時でも王としての責務を忘れたりしない)
メロスはそれを知っていたはずだった。
ディオニスはクソ真面目なのだ。
でも、あんまりにも嬉しいことだらけで、すっかり忘れていた。
メロスは走った。
足には自信がある。
特に自信があるのは短距離だが、長距離も少しならいける。
しかし10里を走ったことはない。