ディオニスにもたれかかり、メロスは眠っていた。
起きているのも限界のようだ。
ディオニスがそんなメロスを起こそうとしていると、老人が近づいてきた。
この村の長だ。
ディオニスはメロスの肩を抱き、威嚇するように村長を見た。
村長は愛らしく眠るメロスを見つめ、笑みを浮かべる。
メロスを起こすのはやめ、自分よりもはるかに年上な村長を大人げなく睨む。
村長はいつもと変わらなかった。
微笑を浮かべ、ディオニスの『どこかに行け』オーラをひょいと受け流す。
それを見ていたアレクサンドロスは、代替わりを予感せずにはいられなかった。
猛者のディオニスと昔は猛者と呼ばれていた村長に挟まれ、メロスはすやすやと眠っている。
あまり空気を読まないアレクサンドロスでさえそう思った。
ただ、メロスもディオニスの策略によって疲れ果てていた。
ゾッとするような暴君の低い声。
少し距離があり、妻の後ろから見ていたアレクサンドロスでさえ恐怖した。
村長は飄々と言い、カラカラと笑う。
村長を心配していたアレクサンドロスは、いつの間にかフレイアの前に来ていた。
そんな夫を見てフレイアはこっそりと微笑み、寄り添う。
心配されている村長は、しばらく黙って座っていた。
慌てている様子も見られず、楽しそうに、そこから村人たちが浮かれて騒いでいるのを眺めている。
言いたいことがあるのなら申してみよ。
回りくどいのは好かん。
沈黙に耐えられなくなったのはディオニスの方だった。
しばしの沈黙。
気にしている者も多少はいたが、喧騒は変わらずに続いていた。
祝宴は夜を迎えても、夜になったからなのかさらに盛り上がっていた。
おまえもこいつの美貌に
抗えなかった者か?
ディオニスの問いかけ。村長にまで威嚇をしている。
けれど、村長はそれらを流した。
おやおや。
自分がそうだからと言って、他の人間もそうだと考えておるのか?
ディオニスはさらに不機嫌な顔をした。
余裕がないディオニスに対して、村長は穏やかに見えた。
たしかに、メロスは愛らしい子だ。姿かたちだけでなく、愛嬌もある。お前さんのような人間が、傍に置きたくなる気持ちはわからなくもない。
村長の言葉に、ディオニスのメロスを抱きしめている手に力が入る。
何かを背負っている人間のことだ。
おまえさんは、大きなものを背負っているね。
ディオニスは王だった。
この辺りを統べている。
メロスがいるのでおかしなことにはなっていたが、元々は責任感が強い真面目な王である。
気ままな旅人が祝宴で眉間にシワなんぞを寄せているものか。まあ、いい。今は、そういうことにしておいてやろう。
元々おおらかな子だが、こんなに無防備に寝てしまうとはな。よほど気を許しているのであろう。
しわしわの手がメロスに近づくのを見て、ディオニスはものすごい顔で睨み付ける。
それでも構わず村長はメロスの頭に手を置いてポンポンと軽く触れる。
寝ているメロスが笑みを浮かべる。
それを見て村長も笑顔になった。
外見の愛らしさに目が行きがちだが、この者はそれだけではない。
まっすぐで、自分にどんな災難が降りかかろうと、決して諦めない。自分が辛くても、ニコニコ笑って皆を守ろうとする子だ。
辛い時にこの者がいると、その笑顔に癒されてしまう。
そんな姿を見ていると、
ついつい、助けてしまいたくなる。
本当に……、この者は、ちょっと目を離すと、とんでもないことに巻き込まれるゆえ。『危ない所に行くな』と言っても聞かぬ。
村長は小さくため息をつく。
村長は兄妹で暮らしていたメロスの父親代わりだった。
もっとも、村長は村全体の父親のような存在だ。
メロスのことの後は特にそういう傾向が強くなった。
ディオニスは言葉を詰まらせた。
村長の言うように、メロスは来なくてもいい王城に来て、ディオニスを殺そうとした罪をかぶせられ、磔刑が言い渡されている。
とディオニスは考えていた。
そのまま表情を硬くしてワインを飲む。
村長はやれやれという顔をした。
急いては事をし損ずる
ということを知っておられるか?
おまえさんは、ちと気が短いようだ。
早さが必要な時はおまえさんのやり方でもかまわん。だが、のんびりと焦らずに、時間をかけねばならないことも、世の中には山ほどあるのだ。
村長は気持ちいいくらい、あっさりすっぱりと言った。
あんまりにものんびりと言うので、ディオニスも虚を衝かれる。
こやつに会うたのも久しぶりじゃ。シラクスに行く前は、悩んどったみたいじゃが、こんなに幸せそうに眠っておるのは、お前さんのことを好いているからであろう。
ディオニスは鼻で笑い、忌々しそうな顔をした。
そう言いながらも、子供のように眠るメロスを愛おしそうに見つめた。
ワシも若いころは、焦っていろいろやった。
しかし、それで学んだのだ。待つことも、大切なことだと。
意見などというモンでもあるまいて。
年寄りのたわ言だ。聞き流してもいいぞ。
こんな近くでしゃべられて
聞き流すことなどできるか。
何を言ってもムダに思えた。
しかたがなく、ディオニスは黙ってメロスと共にそこにいた。
待ちすぎるのも、よくはない。
動く時は、動かねばならん。
待つことも必要。
だが、待っているだけでは、ダメだ。
こやつが笑えるようになったのは、
おまえさんのおかげもあるだろう。
祝宴に訪れた村人に、メロスは屈託のない笑顔を向けていた。
ディオニスが見ていたメロスは、そういう人間だった。
あの頃、望まぬ相手から幾度となく強要され
凍ったような目で周囲を見ておった。
実はのぉ
この者が役人のご機嫌を取っていた間、村も潤っておったのだ。商人を呼び、村でとれる物を売買してくれたりとな。
ワシらも、薄々気づいとった。
だが、誰もそれを表立っては言わんかった。村が潤うのは嫌ではないからな。
ディオニスは宴に来て、大騒ぎをしている村人を鋭い目で睨み付けた。
それでもなぜかアレクサンドロスは親族から愛されている。
それで、皆、目が覚めたのだ。誰かを犠牲にしたらいかんと。あんなことで潤った村など、恥ずかしくてお天道様の下を歩けぬようになる。
だから皆で役人を追っ払ったのだ。
それでもワシらはちぃっとも困らんかった
元々役人だったこともあり、そういう輩がいることはディオニスも知っていた。
だから、うっかりそう言ってしまった。
なに、おまえさんが即位する前のことじゃ。
おまえさんが気にすることではない。
自分で白状してしまったような形になって悔しかった。
ほんにこの子は
ワシでもびっくりすることをやりよる。
そう言って、カッカッカと笑う村長に、ディオニスは微妙な殺意を持った。
(暴君と言われているのは薄々感じておったが、面と向かって言われたことはない……)
ここではきままな旅人として
扱ってやるからそんな顔をするでない。
身をもって守った妹を、ウチのバカ男に取られて、さぞかし悔しいだろうに……。あんなに気立ての良い娘が、なんでウチのバカ男なんぞに引っかかったんだ? と、一族でも言うておる。
この兄妹は、この村の宝だ。
妹の方はワシらで面倒を見る。ウチのバカ男の大切な嫁だ。
村の長はそれまでの明るさを潜め、心配そうな瞳で言う。
メロスはうっすらと目を開けた。
しかし、起きていることができずにまた眠る。
この者を大切にするということは、その周囲も大切にせにゃならん。自分を犠牲にしても、周囲のものを守ろうとする子だからの。
この村に何かあったら、この者は嘆きますぞ。
ついでにワシに何かあっても嘆くぞ。
こんな辺鄙な村、何も起こるまい。
ジジイのことなど知らん。
だが何か起こったら
誰か助けてくれると皆は喜びますぞ。
喜ばれようと喜ばれまいと、
王ならば助けるのが務めだ。
きっぱりとディオニスは言った。
いつも思っていたことだったので、ウソ偽りもなかった。
気ままな旅人さんに
そう言ってもらえて、安心しましたぞ。
憎まれっ子は
世に
憚るのであろう?
なれば長生きもしよう。
そう言うと、ディオニスはメロスを抱え、その場を後にしようとした。
ディオニスはにこりともせず、村長を置いて立ち去ろうとしていた。
村長はそれをじっと見つめている。
シラクスには、この村出身のセリヌンティウスという若者もおるのだが、旅人さんは知っているかのぉ。
少しだけ穏やかになっていた表情が、それまで以上に険しくなった。
村長はまたカッカと笑った。
ディオニスには村長がそれを楽しんでいるようにしか見えなかった。
それならばそれでいいであろう。
旅人さんは気にする必要はないだろうて。
めちゃめちゃ気にしていた。
命に代えてもメロスを守ろうとしているなどと、絶対にメロスに知られてはならない。それが伝わる前にセリヌンティウスを亡き者にしようとしていた。
メロスはおまえさんから離れるようなことはないじゃろう。おまえさんの欲し方の方が、セリヌンティウスよりも激しそうだ。
村長は意地悪く言う。
ディオニスはバカにされているようで面白くない。
そう言えば、おまえの家のツボを割ったのは、あいつではなくこいつらしいぞ。
村長が驚く顔を見たかったのか、ディオニスはメロスを示して言った。
メロスはディオニスに抱きかかえられ、気持ちよさそうに寝ていた。
この家とはメロスの家のことだった。
村長は遠くを見つめ、ぽつりと言った。
こいつの代わりに
セリヌンティウスが怒られたらしいぞ。
いやいや。メロスは自分が痛めつけられるより、他人が痛みつけられることを嫌がるのでな。案の定、次の日こっそりと泣いて謝ってきおった
愛らしかったぞと言う村長に、ディオニスはイラっとした。
セリヌンティウスは怒られ損ではないか。
この村では、罪のない者を罰するのか?
いやいや、あやつはメロスの代わりに怒られる自分に酔うていたぞ。メロスのためならなんでもする男だ。
知っていても、知らんかったと言ったやもしれん。あやつは面白いくらいにこじらせておるからのぉ。
あやつもこの者をがっかりさせるくらいならば、自分がどんな目に会おうとも気にせんだろう。
ありそうなことだとディオニスは思った。
そうでなければ身代わりで死ぬなどと言うはずがない。
ディオニスは、年寄りを睨み付け、その手を払いのける。
ワシだって、この可愛い顔で泣かれたら、怒る気も失せてしまう。
小さくため息をつき、メロスを温かい目で見つめて言う。
ディオニスは不愉快そうにメロスを抱きかかえ、部屋を出て行こうとした。
目の奥に鋭い光をたたえて村長は問うた。
ディオニスは振り返る。
私が正しいと思うか思わないかではない。
私がそうだと思うことが正しくなるのだ。
それで、本当に皆にとって
良い世の中になると思うか?
ディオニスは何か言おうとしたが、言えなかった。
何も言わず、ムッとした顔でメロスを抱きかかえると、まだ皆が祝宴を続けている部屋を後にした。
家の外では、雨音が激しく聞こえていた。
この村の者は皆、ワシの大事な宝じゃて。
村の外にいようとも、それは変わらん。