4 かつての豪商の館
文字数 3,582文字
館の奥に移動し、長椅子の上でディオニスが言うところの訓練をして、暴漢役のディオニスに自由を奪われてされた。メロスは喜びを感じつつも「罰でもいい」などと言うのではなかったと少しだけ思った。
メロスは嬉しそうに窓から見える月を見ている。
背後からはディオニスの寝息が聞こえていた。
メロスはゆっくりとそっとそちらを向く。
月明かりで愛しい者の寝顔が見える。
暴君と呼ばれている男が、長椅子の上で無防備に眠っていた。
『王』として人前に出る時はゴテゴテ着飾って顔もろくに見えないが、それを取るとキリッとした眉のかなりの美男子になる。「貫禄がたりなくなる」と本人は不満のようだが、メロスはその顔が好きだった。もちろんそれだけでなく、全てが愛おしい。
メロスはその寝顔がよく見えるように長椅子から降り、膝をついて座るとディオニスをじっと見つめる。
硬い黒髪に触れ、起きないことを確認すると、その寝顔を見つめ、嬉しそうに微笑んでいる。
とても幸せそうに。
まるで、神聖な儀式のように。
おだやかな笑みを浮かべ、メロスは静かに離れた。
起きるのかと思い、メロスはディオニスを見つめていたが、彼は目を覚まさなかった。
しばらくそのままながめていたが、それに飽きたのか、
夏の夜は暑かったが、だから裸でいいとメロスは思わなかった。
ちらっと裸体で寝ている恋人を見る。
その明かりでそれまで豪華だと思っていた館のうらびれた様子を目にした。金目の物は持ち出されたようで、部屋は殺風景になっていた。
この館の住人をメロスは見たことがあった。無駄に贅沢な暮らしをしていた典型的な金持ちで、貧乏人を見下す傾向もあったようだ。
贅沢をとがめられても、人質を差し出せば磔刑にはならない。ここの主人も娘を差しだせば助かったのかもしれない。ただ、いけ好かない感じはしていたが、家族の絆は固かったようで、娘が王に差し出されるのを拒んで一家で磔刑になった。
贅沢をしていたというだけで、そこまでしなければならないのかとメロスも思った。それに、ディオニスは歴代の王たちと違い、そういう意味で娘を差し出せと言っていなかったはずだった。せいぜい嫌がらせのために王城で下働きさせる程度だろう。
しかし、この一家はそう考えなかった。娘が得体の知れない暴君の慰み者になると判断した。
けれど、そう考えることを見越してそういう命令を下したのかもしれない。
娘を差し出しても出さなくても、結果は同じだったのではないか。ふつうの賃金であのような贅沢ができるはずはない。不正を行う無能な者が、不似合いな地位にいることを、ディオニスは赦さない。
もしも娘がディオニスのこの姿を見ていたら、親が止めても王城にやってきたのではないかと思った。
メロスはそれを見て、幸せそうに微笑んだ。
会うたびに愛しさが増していく。
行動がアレでも、この姿を見れば押し寄せる人間は後を絶たないだろう。
それに、ディオニスは暴君ではない。なぜ、彼が暴君と言われるのかメロスにはわからなかった。
彼はまともな判断を下す人間で、メロスが嫌な思いをしたことはない。本当に暴君ならば、もっと恐ろしい目に遭ってもメロスは文句など言えない。言われたことに従うだけで、恐怖に怯えていただろう。
けれど、メロスは幸せを感じていた。
訓練は確かに面倒くさい。
でも、それを感じさせないくらいに上手にメロスを鍛え上げ、そしてご褒美もくれる。
指導者としても優秀な男だった。
ぶっきらぼうで恐ろしく見えることもあるが、彼はとても繊細で優しい人間だった。
しかし、王としての判断は、やりすぎではないかとメロスも思うことがあった。
メロスは村の牧人だった。笛を吹き、羊と遊んで暮らして野山を駆け回っていた。政治のことはわからない。
ディオニスが間違ったことをするはずがない。自分よりも年上で、早くから頭角を現していたシラクスの王。彼はメロスの理解が及ばないところで正しい判断をしているのだとメロスは思っていた。
恐らく、王城では大変な思いをしているだろう。有能な王は休む暇もないはず。それなのにメロスの訓練につきあってくれていた。そう思うだけでメロスは嬉しかった。それに、『訓練』という名目でいかがわしいこともしてくれる。
メロスはディオニスに対して、いつも受け身だった。彼が暴君だからではなく、自分を厳しく律してしまうから、自分といるときくらいは自由でいてほしいと願っていた。
そんな気持ちで、メロスがディオニスに近寄ると、炎がゆらめき影が動く。
メロスはビクっとした。
まるで、この館のかつての家主の恨み言のように思えた。
彼らが使っていたランプだったのかもしれない。
メロスは手に持ったランプをじっと見つめ、向きを変えるとそっとテーブルに戻す。
そんなメロスをあざ笑うかのように炎が躍った。
メロスはすぐに振り返る。
叫び声と共に、ディオニスが起き上がっていた。
すぐに駆け寄ると
ディオニスは体が硬直し、顔は恐怖に歪んでいる。
恐怖が少しでも和らぐようにと、優しく彼の肌に口づけた。
そして、不安が取り除かれるようにと、ディオニスを抱きしめる。
メロスに彼の苦しみはわからなかった。
暴君と呼ばれることが嫌なのではないかとも思ったが、ディオニスはそのようなことを気にしていなかった。たまに『暴君ディオニス』と言われる腹いせに市民への引き締めを厳しくしているように感じることもあったが、それくらいでうなされるはずはない。
多少は気にしているようだが、それくらいで自分の考えを曲げない。
こうだと決めると頑として実行に移し、誰もそれに逆らえない。
皆、命が惜しい。
市民は王の意向に背かずに、質素な生活を送っているが、それだけになってしまっていた。
規律正しい生活は犯罪もなくしたが、活気も失われてしまった。
『もう少し柔軟な対応をすればいい』とメロスは思ったが、言わなかった。
ディオニスがうなされるのは、それだけが理由ではないようにも思っていた。
魔物のようなものが彼を手に入れようとしている。
なぜかそんな気がした。
それだけは決して変わらない。
彼の周りには、人がいなくなってしまっていた。
いたとしても、自分の身を守るのがうまい、口だけの連中だ。
そんな場所で、厳しい命令を下さなければならない。
メロスは自分が考える以上に辛いだろうと思っていた。
体を与えることで、少しでも癒されるのなら、いくらでも与えたい。
メロスはディオニスに軽く口づけをして、目が合うと微笑んだ。