ディオニスはイラついた顔をしてセリヌンティウスの方は見ず、壁の上の方を見ながら言った。本当はメロスと関係があるのではないかと気が気ではなかったが、それは隠したつもりのようだ。
警吏をくっつけたまま、セリヌンティウスは牢の外でひざまずいて頭を垂れる。
その拍子に警吏が外れた。
言葉遣いが丁寧になり、凛とした雰囲気を醸し出した友を見て、
頭を地面につけ、セリヌンティウスは言った。
警吏たちは暴君に『お願い』などと言う身の程知らずに、他人事ながらも背筋が凍る思いがした。
ディオニスは上にあった視線を、目が痛くなるんじゃないかという目力でセリヌンティウスに向けた。
とてつもなく重低音の効いた声だった。
ピリっとした空気にメロス以外の人間が恐怖した。
俺……、わたくしはそこにいるメロスの友でございます。その者は謀反などという大それたことを考えるはずがございません。
懸命な願いだった。
力の限り、セリヌンティウスはディオニスに頼んでいた。
セリヌンティウスに受けて立つかのようなディオニスの言葉だった。
ひとり、その空気を破ってメロスが言った。
鉄格子を持ったままディオニスを見上げ、面倒くさそうな顔をしていた。
これでもかという勢いで、セリヌンティウスは頭を地面に付けた。
それを聞いて、ディオニスは口角を微かに上げた。周りの人間に気づかれないくらい微かだった。
しかし、それまでどうでもよさそうにしていたメロスが急に顔色を変える。
鉄格子を持つ手に力が入った。
セリヌンティウスは顔を上げてメロスを見る。
さすがのメロスもそれを言われると反論しづらい。
メロスは働いているセリヌンティウスに食事を作らせそれを食べ、用心棒と言いつつも最近は胡散臭い連中が来るとセリヌンティウスが応対していた。
メロスでも力で退散させることはできたが、そうなると逆に騒ぎが大きくなり、警吏に目をつけられたらそっちの方が危険である。セリヌンティウスが言葉で説得した方が被害は出なかった。
(どうしてこんな状況でも、そんな顔ができるのだ……)
セリヌンティウスは、その顔を見ていると、なんとかしてやりたいと思ってしまう。
殺伐とした状況になった時、メロスがいると和やかになった。
和やかな空気は殺伐とさせ、殺伐とした空気は和やかにする。
悪意は滅多にたぶんない。
メロスは何もしていないと思っているかもしれない。
けれど、セリヌンティウスはその無邪気さに何度救われたかわからなかった。
メロスは放っておくと、どこで何をしてくるのかわからない。でも、自分の家に帰ってくるということが解っていて、そしていつも帰ってくるので、セリヌンティウスは安心することができた。
そのため、「用心棒だから」とメロスを納得させて家に置いていたのかもしれない。
セリヌンティウスにとって、メロスが自分の家に帰ってくるということが、何にも代えがたいことだった。
捕まったら磔刑になるとあれほど言ったのに、どうしてその状況になっても、おまえは解っていないんだ!
解ってるよ。このままだとボクは死ぬ。でも、せっちゃんがそれをかぶったら、今度はせっちゃんが死ぬんだよ?
いつもだらだらしているメロスが珍しく真面目な雰囲気になった。
ボクの代わりにせっちゃんが死んで、それで助かったとしても、ボクが喜ぶとでも思ったわけ?
メロスは微笑みながらため息をついた。
明日に処刑されるのに、そういう雰囲気がまったくない。
恋人が王だからという安心感ではなく、どこか他人事のようだった。
ボクが喜ばないのにそんなことをするなんて、せっちゃんはただボクに嫌がらせがしたいだけなんだろ?
命を賭して友を助けようとして、その友にそんなことを言われるとは思ってもみなかった。
この者の言う通りだ。お前はこの者の罪をかぶる必要はない。家族でもなんでもないのだから。それとも……
空気が凍った。
セリヌンティウスは蛇ににらまれた蛙のように、何も言えなくなった。
小さい頃からずっと一緒に育った友達。それだけだから。
おまえに聞いていない。私はコイツに聞いているのだ。
ディオニスは恐ろしい顔でセリヌンティウスを見下ろす。
ものっすごいただの友達だから。ホントにホント。もう絶対に友達なだけだから、ね、ね、せっちゃん、そうだよね!
早口で脅すように言われ、セリヌンティウスはとりあえずうなずいた。
それに、本当にそういう関係ではない。
ディオニスの独占欲に感づいていたメロスが、セリヌンティウスをかばうために友を強調したのだが、地味にメロスを想っていたセリヌンティウスは、地味にダメージを受けていた。
ボクがやったいたずらを自分のせいにされてもボクの代わりに怒られてくれたし、ボクが困ってると助けてくれて、今だって住むところもごはんも洋服もせっちゃんが用意してくれてるんだよ。
セリヌンティウスは小さい頃の記憶に何かが引っかかった。
申し訳なさそうにメロスは言った。
どさくさに紛れての告白だった。
セリヌンティウスは無実の罪で物置に閉じ込められ、恐怖の一夜を明かした。
今さらというか、そういうことを問題にしている場合ではない。
ぱぁ~っと笑顔になってメロスは言った。
それに反比例してディオニスの表情は険悪になる。
それだけじゃないし。他にもいっぱいあるよ。聞きたい?
思い返すと、メロスはセリヌンティウスから世話になってばかりだった。
うん。お金、あんまり持ってないから、これもせっちゃんのおさがりだよ。せっちゃんの方が大きいから、サイズを作り直して、余った布でディオからもらった短剣の袋を作ったんだ。
ニコニコと着ているキトンの裾を見せるように引っ張ってメロスは言った。
(見たことがある短剣のような気がしていたが……。)
賢い年老いた警吏は、何も言わないのが得策だと思った。
ディオニスはプチっと切れたようで、メロスのベルトを外し、キトンを脱がせて地面に捨てたが、キトンはつながれた鎖の途中に引っかかった。
ディオニスは自分が羽織っていたクラミス(キトンの上に羽織る服)を無造作に外した。
薄く白いシルクの布がふわりと風にたなびく。
ぼんやりとそれに見惚れていたメロスの肌にかけた。
そのまなざしをものともせず、それまでのことはなかったことのように首を傾げて聞いた。ディオニスはうなずかなかったが返事など聞く必要もなく、メロスは喜々として器用に体に布を巻き付けた。
そして、片方の肩にピンで留め、ベルトで膝丈にして、キトンのように着てしまった。
そう言って無造作に顔を上げたメロスに、そこにいた者たちは釘付けになった。
それまで着ていたのはずいぶんと着古した感じがしていたが、それでも十分愛らしく見えた。けれど、贅沢を嫌っていたディオニスだったがそれなりに良い物を着ていて、質の良い薄手のシルクは美しく、そこからすっと伸びる形のよい色白な足は、少年のような爽やかさを見せた。
はつらつとした美しい少年。
メロスは二十代半ばだったが、そう見えた。
大神ゼウスもほれ込むこと間違いなしの見目麗しいモノがそこにあった。
ディオニスは、メロスに背を向け、そこにいる人間からメロスを隠すように立つ。
(逆らったらきっと祟られる。どこにいても逃げることはできないだろう……)
王の従順な警吏たちは、何度も首を縦に振り、メロスを視界に入れないように心掛けた。
王が落とされた短剣を、届けに来たということにすればよいのではありませんか?
重苦しい空気を変えようとしたのか、一番若い警吏が笑顔で言った。
あ……、いえ。王がその者に死んでもらいたくないような気がしたので……。
その警吏は恐怖に耐えかね、数歩後ずさる。
後ろにいた少し先輩の警吏にぶつかりそうになり、両手で支えるように止められる。
王にも他の警吏たちにも無表情に見つめられ、この警吏の方が磔刑にされるかのように恐怖に怯えた。
王がそんなことを思うはずがなかろう。第一、どうして王がこの短剣を外に持ち出したのだということになる。
えっと……、そもそも、なぜこの短剣をこの者に……。
メロスを見ないように先輩の警吏を見て言うが、今度は年老いた警吏に頭を叩かれた。
先輩の警吏と年老いた警吏は、メロスがディオニスの恋人だということにさすがに気づいた。いくら恐怖に慄く警吏たちでも、ディオニスのこの様子を見たらほとんどの者がわかるだろう。
王を殺害しようとした者が実は無実でしたなど誰が言える?
そう言って、ちらっとディオニスを見るが、さすがに若い警吏も気が付いた。
王が訂正などできるはずがない。
冤罪など、暴君ディオニスが、そんな失態をやらかすはずがないからだ。
ディオニスはしかめ面をして何も言わなかった。
この者の死罪が決まり、王も認めたのに、それが無実でしたと王が言うのか?
じゃあ、さ……。ボクが磔刑でいいからさ、せめて、妹の花嫁姿を見てからっていうのでもいい?
皆の視線がメロスに集まる。
しかし、警吏たちはすぐに目をそらす。
最後なのだから、多少寄り道をしようと思った。
そして、少し早く戻ってきて、ディオニスと過ごせたらという思いもあった。
私がメロスの代わりにここに残ります。ですから、メロスを村に行かせてやってください!
この者の代わりに残るということは、この者が帰らなければお前が殺されるということだぞ。
すぐに年老いた警吏が言う。
まるで、ディオニスの気持ちがわかっているかのようだった。
ダメだよ、せっちゃん。
ボクの代わりに死ぬなんて、ダメに決まってるじゃん。
お前は一週間後に戻ってくる。
だから、そんな心配はいらないはずだろ。
メロスは興味があることを見つけると、そこに行って戻ってこないことがある。
ウソをつくつもりは全くない。
せっちゃんを犠牲になんてできないよ。それくらいなら、明日……
驚いてメロスはディオニスを見た。怒っている感じはせず、むしろ微笑んでいるかのようにも見えた。
メロスはコクっとうなずいた。
妹の花嫁姿というよりも、妹に会えることがメロスには大事だった。
(ディオ、花婿がボクの元カレだって聞いて、超機嫌悪くなってたよね?)
それで2週間会えなかったとすら思い悩んでいた。それなのに、今のディオニスはなんだか妙に機嫌がいい。
ただし、3日で戻ってこい。3日目の日没までだ。1週間はさすがに長すぎる。
年老いた警吏はしぶしぶという感じで口を出すのをやめた。
暴君の言葉を訂正するなどあってはならない。
でも、3日じゃ結婚式の前に帰ってこなきゃいけなくなるよ。式に出てたら間に合わないよ。
というか、その後にある宴会もきっちり出る方向でメロスは考えていた。
その言葉に、メロスも考え直す。
たしかにそれは、メロスにとって大事なことだった。
メロスは顔を輝かせた。
ディオニスは暴君と言われているが、本当は賢王である。
きっと、メロスが考えもつかないような案を出してくれるに違いない。
せっちゃん、ごめん。
フレイアに会ったら、すぐに帰ってくるから、その間、ボクの身代わりしてくれる?
メロスは申し訳なさそうに座り込み、鉄格子越しにセリヌンティウスに言葉をかけた。
帰ってこなくてもいいぞ。
俺の命がお前の命に代わるのなら、俺は喜んでこの命を捨てよう。
セリヌンティウスはキラキラした瞳でメロスを見て言う。
冗談でもそういうこと言うなよ。
ボクが友を犠牲にして生き残って喜ぶようなヤツに見えんの?
そうじゃないことを知っているから、お前の身代わりになれるんだよ。
メロスは鉄格子越しにセリヌンティウスの手をぎゅっと握る。
すると、ジャラ……と鎖が引きずられる音がして、メロスは無理やり立たされた。
ディオニスがメロスについている鎖を引っ張っていた。
ディオニスが警吏に命じると、年老いた警吏がメロスの鎖を外した。
そして、メロスと入れ替わりにセリヌンティウスが牢屋に入れられる。
今度は牢の外にメロスがいて、牢の中にいるセリヌンティウスに声をかける。
戻ってこなくても、おまえのことを恨んだりしないぞ。
冗談でもそんなこと言うなよ。
絶対に戻ってくるって言ったら戻ってくるんだからね。
夜にいつも交わしている言葉。
メロスは本当に早く帰るつもりだった。
でも、ディオニスと過ごす時間が大切すぎて、そんなに早くは帰ってはこなかった。
遅れて着けば、セリヌンティウスは磔刑になってしまう。
いつまでも友の前から動こうとしないメロスを、ディオニスは肩を抱いて歩かせる。
メロスは名残惜しそうに友の方を見ていた。
しかし、恋人が先を行くので、メロスも前を向いて歩き出した。
黙ってうなずく警吏を横目に、ディオニスはメロスを連れて地下を去った。