十二月二十四日/一人きりで
文字数 2,447文字
今日が終われば、明日から冬休みだった。
クリスマスイブ、終業式前の休み時間。図書室は相変わらずで、僕の他には図書委員以外誰もいなかった。隣に、クラスメイトの姿はない。
「......」
もう、あの子が僕に話しかける事はない。
先週の一週間が、夢みたいな奇跡だっただけだ。
一昨日、十二月二十一日の月曜日。登校した僕は、下駄箱の靴の上にメモが置かれてあることに気づいた。キャラクターが描かれたりしていない、無地のメモだった。
表面をめくると、そこには見慣れた筆跡で文字が書かれていた。
『ごめん、君と仲良くしてた事がお母さんに伝わって怒られた。もう、近寄らない事にする』
どう見ても、クラスメイトである彼女からのものだった。タイミングを考えても他に人は考えられない。恐らく、この前の体育の一件が伝えられたのだろう。
教室に入ると、いつものようにまた野生のヤギのような目でみんなが僕を見た。あのクラスメイトだけは、頑なに視線を僕に向けようとはしなかった。
僕は無言で暫しの間、その場に立ち尽くしていた。すると背後で扉が開いて、担任の先生が教室に入ってくる。
「ほら、朝の会やるぞー。全員席につけー」
僕以外の教室のみんなに声をかける。僕も自分の席に向かいながら、ちらりと視線を先生に向ける。
先生は普段通り、僕を見ることなく出席簿を開いて--いなかった。視線をまっすぐに僕に向けていた。はっとして僕は一瞬動きを止める。先生は、目尻を下げて、唇を歪めていて......まるで、笑いを堪えるような表情だった。
「......、っ」
僕は自分の席に座り、俯く。朝の会が始まる。出席確認で、僕の名前が呼ばれることはない。
確証はない。けれど、僕とクラスメイトが先週仲良くしていた事を、先生が彼女の両親に告げたのだろうと確信した。
父親がグレーな仕事をしている子供と仲良くしているから、近づかないように家でも指導して欲しいと。
それは先生の立場としては何も間違っていない行動だと思った。危険から子供達を守るのは、先生として当たり前の事だった。だから僕は、先生に対して恨めしいとか思うべきではなかった。
朝の会を終えて、僕は一時間目の教科書を取り出す。噛み締めた奥歯が、ギリリと嫌な音を立てた。
僕はお姉さんともクラスメイトとも、話せなくなった。ただ、先々週と同じ境遇に戻っただけだと考えれば、辛くはないように思えた。
幸せの木のお世話には行っていなかった。僕があんな事をしてしまったのだから、お姉さんがもう来るはずはないから。お世話だって、する必要はないのだ。
すぐにでも謝りたかった。けれど行動に移す勇気は出なかった。お姉さんの学校は知っているけれど、他には何も知らない。家に謝りに行くこともできない。
謝るには幸せの木の場所に行くしかない。けれど、行ってもうお姉さんが来ない事を確認するのも怖かった。
「......」
休み時間終了のチャイムが鳴る。僕は本を閉じて棚に戻して、図書室を出た。
結局、休み時間の間には一行も物語は進まなかった。
家に着く。冬休みが始まったけれど、僕のやる事は変わらない。洗濯物を取り入れて、お父さんの分は畳み、僕の分は押入れに押し込む。
今日はクリスマスイブだから、お父さんはたぶん帰ってこない。外で女の人と会っているはずだ。それでも急に帰ってくると困るから、僕はコンビニでお弁当とお酒を買って冷蔵庫に閉まっておく。ケーキは食べられないから、お砂糖を少し齧って水道水を飲んだ。今日の夕食はこれで終わり。
電気代がもったいないからテレビはつけない。だから、クリスマスソングを聴いたりする事はない。けれど、買い物に行ったコンビニはクリスマスの雰囲気だった。
食べることのないケーキをしばらく眺めながら、サンタさんが居たら欲しい物を考えたりした。
......でも、お姉さんとまた話す機会が欲しい。それ以外に、僕が願いたいものはなかった。
シャワーをさっと浴びて、身支度を済ませてから僕は布団に潜り込む。
窓の外はどんよりと曇っていて、今にも雪が降りそうだった。冷気で体を冷やさないように、僕は布団の中で自分の体をぎゅっと抱きしめる。
眠れるわけじゃない。けれど、目を瞑って思考の海に潜る。頭の中で本を読むわけじゃなくて、幸せの木のことを考えるために。
お姉さんの言葉を思い返す。
石段を登った時の、心臓の鼓動を思い返す。
あの後ろ姿を窓越しに見た時の、肺から空気を吐き出したい辛さを思い返す。
クラスメイトが体育の時間、僕と一緒に体操してくれた喜びを思い返す。
幸せの木のお世話をしている時の、楽しさを思い返す。
たった一週間だった。
それなのに、今までお父さんと過ごしてきた長い時間とは何もかも違っていた。
僕はこの先、どうなるのかはわからない。
お父さんみたいな大人になって、お酒の匂いをさせながら子供を殴る人になるかもしれない。
お父さんと同じような仕事をして、警察に捕まって一生を過ごすのかもしれない。
お父さんとの生活が耐えられなくて、心が壊れてしまうかもしれない。そして、自分を殺して終わりかもしれない。
未来の自分の事なんて、何一つ確かじゃない。
けれど今の心残りをこの先も抱えたまま、生きていくのは絶対に嫌だった。
幸せの木の話が嘘でも。例えお姉さんの話が何もかも嘘だったとしても。
お姉さんは僕の友達だった。
友達に謝らないまま、お別れするのは嫌だった。
明日から冬休みだ。
だから、起きたらすぐに幸せの木のお世話をしに行こうと決めた。
お姉さんは来ないかもしれない。でも、それなら一日中待てば良いだけの話だ。
謝れるまでお姉さんを待とう。ずっと、ずっと、幸せの木の隣で。
決心したら、少し気持ちがほっとした。
同時に眠気が襲ってくる。
早く寝て、明日に備えないと。
一度だけ窓の外に目を向けた後、僕は顔まで布団に潜って眠った。
雪が、降り始めているのが見えた。
クリスマスイブ、終業式前の休み時間。図書室は相変わらずで、僕の他には図書委員以外誰もいなかった。隣に、クラスメイトの姿はない。
「......」
もう、あの子が僕に話しかける事はない。
先週の一週間が、夢みたいな奇跡だっただけだ。
一昨日、十二月二十一日の月曜日。登校した僕は、下駄箱の靴の上にメモが置かれてあることに気づいた。キャラクターが描かれたりしていない、無地のメモだった。
表面をめくると、そこには見慣れた筆跡で文字が書かれていた。
『ごめん、君と仲良くしてた事がお母さんに伝わって怒られた。もう、近寄らない事にする』
どう見ても、クラスメイトである彼女からのものだった。タイミングを考えても他に人は考えられない。恐らく、この前の体育の一件が伝えられたのだろう。
教室に入ると、いつものようにまた野生のヤギのような目でみんなが僕を見た。あのクラスメイトだけは、頑なに視線を僕に向けようとはしなかった。
僕は無言で暫しの間、その場に立ち尽くしていた。すると背後で扉が開いて、担任の先生が教室に入ってくる。
「ほら、朝の会やるぞー。全員席につけー」
僕以外の教室のみんなに声をかける。僕も自分の席に向かいながら、ちらりと視線を先生に向ける。
先生は普段通り、僕を見ることなく出席簿を開いて--いなかった。視線をまっすぐに僕に向けていた。はっとして僕は一瞬動きを止める。先生は、目尻を下げて、唇を歪めていて......まるで、笑いを堪えるような表情だった。
「......、っ」
僕は自分の席に座り、俯く。朝の会が始まる。出席確認で、僕の名前が呼ばれることはない。
確証はない。けれど、僕とクラスメイトが先週仲良くしていた事を、先生が彼女の両親に告げたのだろうと確信した。
父親がグレーな仕事をしている子供と仲良くしているから、近づかないように家でも指導して欲しいと。
それは先生の立場としては何も間違っていない行動だと思った。危険から子供達を守るのは、先生として当たり前の事だった。だから僕は、先生に対して恨めしいとか思うべきではなかった。
朝の会を終えて、僕は一時間目の教科書を取り出す。噛み締めた奥歯が、ギリリと嫌な音を立てた。
僕はお姉さんともクラスメイトとも、話せなくなった。ただ、先々週と同じ境遇に戻っただけだと考えれば、辛くはないように思えた。
幸せの木のお世話には行っていなかった。僕があんな事をしてしまったのだから、お姉さんがもう来るはずはないから。お世話だって、する必要はないのだ。
すぐにでも謝りたかった。けれど行動に移す勇気は出なかった。お姉さんの学校は知っているけれど、他には何も知らない。家に謝りに行くこともできない。
謝るには幸せの木の場所に行くしかない。けれど、行ってもうお姉さんが来ない事を確認するのも怖かった。
「......」
休み時間終了のチャイムが鳴る。僕は本を閉じて棚に戻して、図書室を出た。
結局、休み時間の間には一行も物語は進まなかった。
家に着く。冬休みが始まったけれど、僕のやる事は変わらない。洗濯物を取り入れて、お父さんの分は畳み、僕の分は押入れに押し込む。
今日はクリスマスイブだから、お父さんはたぶん帰ってこない。外で女の人と会っているはずだ。それでも急に帰ってくると困るから、僕はコンビニでお弁当とお酒を買って冷蔵庫に閉まっておく。ケーキは食べられないから、お砂糖を少し齧って水道水を飲んだ。今日の夕食はこれで終わり。
電気代がもったいないからテレビはつけない。だから、クリスマスソングを聴いたりする事はない。けれど、買い物に行ったコンビニはクリスマスの雰囲気だった。
食べることのないケーキをしばらく眺めながら、サンタさんが居たら欲しい物を考えたりした。
......でも、お姉さんとまた話す機会が欲しい。それ以外に、僕が願いたいものはなかった。
シャワーをさっと浴びて、身支度を済ませてから僕は布団に潜り込む。
窓の外はどんよりと曇っていて、今にも雪が降りそうだった。冷気で体を冷やさないように、僕は布団の中で自分の体をぎゅっと抱きしめる。
眠れるわけじゃない。けれど、目を瞑って思考の海に潜る。頭の中で本を読むわけじゃなくて、幸せの木のことを考えるために。
お姉さんの言葉を思い返す。
石段を登った時の、心臓の鼓動を思い返す。
あの後ろ姿を窓越しに見た時の、肺から空気を吐き出したい辛さを思い返す。
クラスメイトが体育の時間、僕と一緒に体操してくれた喜びを思い返す。
幸せの木のお世話をしている時の、楽しさを思い返す。
たった一週間だった。
それなのに、今までお父さんと過ごしてきた長い時間とは何もかも違っていた。
僕はこの先、どうなるのかはわからない。
お父さんみたいな大人になって、お酒の匂いをさせながら子供を殴る人になるかもしれない。
お父さんと同じような仕事をして、警察に捕まって一生を過ごすのかもしれない。
お父さんとの生活が耐えられなくて、心が壊れてしまうかもしれない。そして、自分を殺して終わりかもしれない。
未来の自分の事なんて、何一つ確かじゃない。
けれど今の心残りをこの先も抱えたまま、生きていくのは絶対に嫌だった。
幸せの木の話が嘘でも。例えお姉さんの話が何もかも嘘だったとしても。
お姉さんは僕の友達だった。
友達に謝らないまま、お別れするのは嫌だった。
明日から冬休みだ。
だから、起きたらすぐに幸せの木のお世話をしに行こうと決めた。
お姉さんは来ないかもしれない。でも、それなら一日中待てば良いだけの話だ。
謝れるまでお姉さんを待とう。ずっと、ずっと、幸せの木の隣で。
決心したら、少し気持ちがほっとした。
同時に眠気が襲ってくる。
早く寝て、明日に備えないと。
一度だけ窓の外に目を向けた後、僕は顔まで布団に潜って眠った。
雪が、降り始めているのが見えた。