十二月十五日/夕食後、幸せの木と

文字数 4,342文字

「またこの弁当かよ、食い飽きたなぁ」
 ぶつぶつと文句を言いながら、お父さんはコンビニ弁当をかき込むようにして食べる。そのまま流れでタバコに火をつけると、お酒の缶を開けた。
 お父さんは電子タバコも持っているけど、家で吸う事はない。「女の前で良い格好をしたい奴が吸うもんだ、まずい」と言っていた。だからお父さんが電子タバコを持って出かける時には、今日は夜のお店に行くんだなとわかった。
 お父さんと僕の分のコップを持って、僕はシンクに向かう。洗剤をスポンジにつけて丁寧に擦った。水が冷たい。僕はエアコンを使えない決まりになっているから夏は嫌いだったけれど、洗い物に関しては夏の方が好きだった。
 冷えた指先が震える。僕は頑張って力を込めてスポンジを握りしめた。間違えてコップを落としたら、またお父さんに叱られてしまう。チラリとお父さんの方を見ると、お父さんはお酒を飲みながらDVDのパッケージを眺めていた。僕はこっそりとお父さんの、お弁当の食べ残しを口に入れる。咀嚼せず、一気に飲み込んだ。良かった、今日は晩ご飯が食べれた。何事もなかったような顔で、僕は空になったプラスチック容器をゴミ箱に捨てる。
「おい」
 お父さんが僕を呼んだ。びっくりして僕は振り返る。食べ残しを貰っていたのを見ていたんだろうか。怒られる......
 しかし、お父さんはニヤニヤと笑ったまま、手に持ったパッケージをカツカツと指先で示した。僕は慌てて頷き、隣の僕の部屋に引っ込んだ。
 暗い部屋で、僕は頭から布団を被る。微かな電子音の後、助けを呼ぶ女の人の声が聞こえ始めた。微かな水音。

 お父さんがDVDを見ている時も、僕は音を立ててはいけない決まりだった。
 幸せの木のことを考える。
 早めにお父さんがDVDを見終えてくれるといいなと、僕は願った。早く行かないと、お姉さんが帰ってしまうかもしれない。
 それはとても寂しいことだった。
 僕は自分に驚く。お姉さんが帰ってしまうのは、寂しいことだったのか。

 DVDが終わった後、お父さんは酒でも買ってくると言いながらスウェットのまま出て行った。今夜は帰ってこないかもしれない。
 お父さんの靴音が遠くに消えて行くのを確認したあと、僕は大慌てで靴を履いた。家の鍵をかけ、昨日と同じく大急ぎで階段を駆け降りる。
 かなり遅くなってしまった。もしかしたら、お姉さんはもう居ないかもしれない。
 角を曲がり、石段を駆け上がる。霧のように僕にまとわりつく、白い息。
 煌々と冬の月明かりに照らされる石段は、まるで人の骨でできているみたいに白かった。息が跳ねる。心臓がどきどきと鳴る。朽ちかけた鳥居をくぐり、夜風に晒されて冷え切った境内に入る。
 静かだった。
 深夜でもないのに、人の気配がしなかった。
 僕は諦めてため息をつく。きっともう居ないであろうお姉さんを探して、一応裏手に回る。
 そこはとても、本当にとても静かで。
 生き物の匂いがしなかった。
 あるのは血に濡れた地面と双葉。
 そして、赤黒い線を流す白い腕。
「こんばんは、遅かったわね」
 左腕から血を流しながら、お姉さんは静かな笑みを浮かべて言った。
 まるで冬の幽霊みたいだ。僕はそれが羨ましいと思った。僕も、こんなふうに静かに笑っていたかった。苦しさとか、悲しさと、無関係そうに。
 お姉さんの隣に座る。お姉さんは冷えた地面の上にハンドタオルを敷き、そこに座り込んでいた。伸ばされた左腕からは、まだ血が滴っている。
「遅れてごめんなさい。お父さんが家でDVD見てたから」
 僕は謝罪する。お姉さんは事もなげに「いいよ」とだけ答えた。僕はお姉さんの視線の先を見た。そこにあるのは、昨日と同じ双葉。
 ただ、少しだけ――でも確実に、昨日より成長している幸せの木があった。すでに新たな葉が伸びつつある。冬だというのに、青くみずみずしい色をして、美味しそうに垂らされる血を吸っているように見えた。
「お姉さん、この幸せの木って『ドラセナ』って名前?」
 僕は今日調べた名前をお姉さんに問う。しかし、お姉さんは不思議そうな顔をして顔を横に振った。
「違うけど......なに? それって有名な木?」
「うん、『幸福の木』って呼ばれてる、観葉植物なんだって。寒いのに弱くてすぐ枯れちゃうって、今日図書館で調べたから心配だった」
 僕もお尻を地面につける。かさかさと音が鳴った。お姉さんは本当に知らないようで、眉を寄せたままだ。
「うーん、私はその観葉植物に詳しいわけじゃないけど。でもこの幸せの木がその『ドラセナ』じゃないことは確かよ。もらってきたのもお花屋さんとかからじゃないし。だから、寒さに弱いせいですぐ枯れてしまう、なんて事はないわ。大丈夫。安心して一緒に育てましょう」
「......お花屋さんで買ったんじゃないの?」
「ええ、そうよ。でもどこで手に入れたか、大きくなったらどうなるかは秘密! 育ててからのお楽しみ!」
「ええー......」
 誤魔化された気がする。憮然として、思わず僕は口を硬くつぐんだ。それを見て、またくすくすとお姉さんは笑い――右手の人差し指で、僕の頬をつんつんと突いた。
 驚いて僕は思わず口を開ける。
 それは、周りの子供と大人の間でたまに見る光景ではあったけれど。まさか僕が、されることになるなんて考えたことがなかったから。
 お姉さんに会ってから、驚く事ばかりだ。
 まるで僕が普通の子供になったみたいで、不思議な――嫌ではない――気分だった。
「何で調べたの? 学校のパソコン?」
 そう聞かれて、僕は首を振った。学校のパソコンを借りるには、先生に理由を告げて届けを出さないといけない。透明人間である僕に、できるはずのない事だった。
「図書室で調べた。僕......本が好きだから」
 お姉さんはうんうんと頷く。
「へー、良い事じゃない! 私も本は好きよ。読んでる間は今じゃない場所に行けるみたいで......。それに、好きな媒体を使った方が調べ物も捗るものね」
 器用さと 稽古と好きの そのうちで 好きこそものの 上手なりけれ。お姉さんがそんな言葉を紡ぐ。意味はよくわからなかったけど、素敵な響きだった。
「そういえば、昨日自己紹介してなかったわね。私は......」
 お姉さんは僕に名前を伝えた。それは短いけれど、愛情を示す言葉で。とても素敵な、お姉さんらしい名前だと思った。
 お礼を言って、僕も自己紹介を返す。お姉さんは僕の名前を聞くと、
「へー、お洒落な名前! 静かで、穏やかで......君に似合ってる名前。あと、私と文字数同じだね」
 お揃いだね、お揃い。そう言いながら笑った。
 花の綻ぶような笑顔に、思わず僕も合わせて笑ってしまった。
 ――今、僕、笑ってた。
 ......笑うなんて。
 友達がいなくなってから、
 お父さんに叩かれ始めてから、
 一度もなかったのに。

 お姉さんは、僕のために小さなジョウロを持ってきてくれていた。近くに水道はないから、同じくお姉さんが持っていたペットボトルから水を入れて、血に濡れた双葉に水をかける。
 本当は僕も血をあげようと思ったけど、お姉さんに剃刀を借りようとしたら断られてしまった。
「血は――幸せは私があげるから、大丈夫。その代わり、君はお水をあげたり周りの雑草を抜いたりしてあげて。幸せで育つって言っても、環境が悪いのは幸せの木も嫌な気分になっちゃうだろうから。それに、家だけじゃなくてここでも君が痛い思いをするなんて、私が自分を許せないもの」
 幸せの木に触れないように気を付けながら、慎重に周囲の雑草を抜く。と言っても今は冬。背の高い草は生えていなかった。指でつまむようにして小さな雑草を抜きながら、お姉さんと僕は互いのことを話した。
 僕が小学三年生なこと。お父さんはグレーな仕事をしていて、怒ったり酔っぱらったりすると僕をよく叩くこと。お母さんはずっと前にいなくなったこと。ご飯とお酒は毎日僕が準備していること。学校では先生ともクラスメイトとも話せないこと。本が好きで、休み時間にはたいてい図書室にいること。暇なときは頭の中で教科書を開いて、覚えているお話を読み返していること。
 お父さんがグレーな仕事をしていることを話したら、お姉さんももしかしたら遠くに行ってしまうのかと思い、一瞬ためらった。けれど話しても、別に顔をしかめることもなく、かといって僕をかわいそうな人を見る目で見ることもなく。お姉さんはただ、血に濡れた幸せの木を見つめながら頷いてくれていた。
 お姉さんは高校二年生なのだそうだ。お母さんと二人で暮らしていること。数学が苦手なこと。勉強はそこまで得意じゃないけれど、それなりに学校は楽しいこと。夢を追いかけて都会に行くか、安定して生活していくために進学するかで悩んでいること。よくお話を空想すること。そのせいでボーっとしてると友達によくからかわれること。
 自分の話をしながら、お姉さんは笑うでもなく、ただただ穏やかな顔をしていた。
 お姉さんは自分の現状を思い返しても、胸の奥がチリチリしたりしないのだ、そうわかった。
 それは僕にとって嬉しいことだった。
 幸せの木と一緒にいるお姉さんには、幸せでいてほしかった。
 そうでないとなんだか、僕が救われないような気がした。

 一時間くらい経った後、お姉さんは「そろそろ行こうか」と言いながら立ち上がった。拭き終えて包帯を巻いた左腕には、もう血の痕跡もない。僕もお姉さんが持っていたビニール袋に雑草を入れると、立ち上がってお姉さんの横に並んだ。
「袋も持ってきてたんだね」
 と僕が言うと、お姉さんは「来る前に君にやってもらおうって思って、お水と一緒に準備してたから」と笑っていた。
 昨日と違い、二人で並んで階段を下りる。僕とお姉さん、二人分の白い息がお風呂の湯気みたいだ。
「寒いねー。君は? 寒くない?」
 言いながら、お姉さんは僕の手を一瞬握った。びっくりした。比喩じゃなく少し跳び上がってしまった。危うく石段を踏み外しかける。僕を支えながら、慌ててごめんごめんとお姉さんは誤った。
「急だったから驚いたよね。――でも、君の手の方があったかいね。寒くないなら良かった」
 眉をハの字にするようにして、お姉さんは少し困ったような顔でほほ笑んだ。
 全力疾走した時の何倍も早く動く心臓を必死で沈めながら、僕はじっとお姉さんの顔を見つめた。お姉さんは僕といる間、ずっと笑顔を絶やさないでいてくれる。
 お姉さんは幽霊みたいで羨ましいって思ったけれど、そうじゃなかった。
 手首を切って血が少し出たせいか、冷たい手をしていたけれど。
 お姉さんは、確かに生きてここに居る人だった。
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