十二月十四日/幸せの木の前で

文字数 1,809文字

「こんばんは。今日は星が綺麗に見えるね」
 そう言いながら、お姉さんは左手を上げて僕に言った。膝から垂れる赤い雫。高くて、優しい声だった。全力疾走した直後のせいで、ぼんやりとした頭のまま僕はお姉さんに近づく。
 剃刀が怖いとは思わなかった。
 お父さんに比べれば、怖いものなんてなかった。近くで見ても、やはり腕は酷く白かった。寒いのかもしれない。
 はじめまして、こんばんは、色々な言葉が浮かんでは消える。数秒悩んだ後、僕は言った。
「血が出てるけど、痛くないの?」
 当たり前な質問をしてしまった。やっぱり挨拶で良かったかもしれない。でも、気になって聞かずにはいられなかった。叩かれて血が出た時、僕は痛くていつも泣きそうになるから。
 うーん、と唸って、お姉さんは困ったように下を向く。説明が難しいけど...言ってもいいかなあ...ぶつぶつと続く独り言。と、ぱっとまたお姉さんは顔をあげて僕を見ると、
「ねえ、これ」
 地面にある何かを指さしながら、僕の手を掴んでその場にしゃがみ込んだ。引っ張られて自然と僕も地面にお尻をつける。
「これ、これ」
 指先を見つめる。お姉さんが指さしていたのは、枯れ草に隠れた小さな植物の芽だった。その周りは、お姉さんの垂らした血で濡れている。こんな真冬なのに、その双葉はつやつやと元気そうに光って見えた。
「これ、知ってる?」
 僕は頭を横に振る。もしかしたら知っている植物なのかもしれなかったけど、出始めの芽だけで僕に判断するのは無理だった。
 でしょー? と言いながら、お姉さんはにっこりと笑う。自慢げに、嬉しそうに。
「これはね、幸せの木」
「幸せの、木......?」
 僕は首を傾げる。そんな言葉、おとぎ話の中でしか聞いたことがない。しかし、お姉さんは自信たっぷりに続けた。
「そう、幸せの木。他の植物と違ってお水だと育たない......人の血を、人の幸せをもらって育つ木。そして大きくなったら、育つ時にもらった何倍もの幸せを、周りにいる人達に返してくれるんだって」
「周りの人が、みんな幸せになる木.....」
「君も、一緒に育ててみる? 今からお願いしながら育てれば、木が大きくなった時にそれを叶えてくれるかもしれないよ?」
 そう言って、ふふっとお姉さんはまた笑った。
 願いが叶う。幸せになれる。
 何でもいいのだろうか。
 ありえない願いでも、叶うんだろうか。
 寒さで体が少し震えた。両腕が冷えて痛む。痺れるような感覚だった。
「......この木が大きくなったら、もうお父さんは僕を怒ったりしないかな? 怒鳴ったり叩いたりしないようにってお願い、聞いてくれるかな」
 濡れた双葉に目を落としながら、僕はお姉さんに問いかけた。お姉さんの顔を見ながら言うことはできなかった。
 お父さんが僕を叩いたりすることは、誰にも言っちゃいけない決まりだった。誰かに話したら、もう家から出さないしご飯も食べさせないとお父さんと約束していた。お願いはしたかったけれど、お姉さんが聞き逃してくれたらいいなとも思った。他の誰かに伝わったら、僕はとても困ってしまう。
 お姉さんは何も答えない。びっくりしているのかもしれない。ぼそぼそと僕が話したから、本当に聞こえなかったのかもしれない。
 ひりつく両腕で、ぎゅっと膝を抱える。
 長いような短いような沈黙の後、お姉さんが答えた。変わらない口調だった。
「きっと叶うよ」
 僕は顔を上げる。お姉さんは腕にした時計を見ていた。笑顔のままで、数歩後ろに下がる。
「私、もう帰らなくちゃ。君もそろそろお家に帰りな。遅くなるとまたお父さんに怒られるでしょ?」
 そう言って、ひらひらと血の跡のついた左腕を振った。乾いてしまったからか、もう血の雫が落ちることはなかった。
 僕も手を振り返す。このまま別れたらもう会えない気がした。けれど、引き留める言葉がでてこない。
 さよならって言うべきなのかな。
 悩む僕に背を向けて、お姉さんは去っていく。石段に向かうために神社の横手を回りながら、
「また明日、これくらいの時間に待ってるね」
 そう言い残して、背中は僕の視界から消えた。

 神社の狐に騙されたみたいな気分だ。
 そんなお話しを、いつか誰かから聞いた気がした。もしかしたら、本で読んだのかもしれなかった。
 昼間と同じく、幻覚でもみたような気分だった。視線を下に落とす。血に濡れた双葉は、先程と変わらず確かにそこにあった。
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