三月二十日/また、ここで

文字数 2,325文字

 走り回っている友達を見ながら、僕とお姉さんは桜の木の下で座っていた。
 あれから、一年と少しが過ぎた。僕は身寄りのない子供たちが住む施設で暮らしている。
 直接は知らされなかったけれど、お父さんが警察に捕まったことは知っていた。悲しくはなかった。一緒に暮らしていた時には気づけなかったけれど、僕はお父さんのことが好きではなかったみたいだ。離れて、毎日きちんとご飯が食べられる生活を始めて。世話人の先生や友達と話して、その事に気づけた。
 学校でも僕が無視されることはなくなったし、全校集会で『虐待について』なんて話がされたりもした。僕のおかげだと、何人かの先生がお礼を言ってくれたりした。
 図書室で一緒に本を読んだ彼女――あのクラスメイト以外も、みんな今は僕に話しかけてくれる。施設だけじゃなくて、学校でも友達は増えた。
 担任の先生も僕の名前を読んでくれるようになった。先生は皆に、僕とは話さないようにと裏で話したり保護者に注意していたみたいだけれど、それについて別に謝ったりはしなかった。
 少しもやもやしたけれど、仕方ない。先生だって、別に僕が憎くてやったわけじゃないのだから。
 みんなのお父さんやお母さんだってそうだ。ただ、自分と子供を守りたかっただけなのだ。自分の仕事をしただけ。
 僕のお父さんの被害を受けないように。
 それでよかった。僕以外に、傷ついた人が居なくてよかった。

「『とにかくに 道ある君の 御世ならば 事しげくとも 誰かまどはむ』 ……。あなたの事だからお父さんと離れれば大丈夫だろうとは思ってたけど、幸せそうでよかった」
 いつもと変わらず短歌を言葉に挟みつつ、お姉さんはのんびりと僕に言った。その白い左手には治った傷の跡があったけれど、真新しい傷はもうない。自分を傷つけるのは、やめたのだろう。
 僕は頷き、再び前を向く。友達の喧噪が、心地よかった。
「お姉さんのおかげだよ。一人じゃ、施設の事を考えることもできなかった。お姉さんが僕を、お父さんから救い出してくれたから。……ありがとう。お姉さんは命の恩人だよ」
 心からのお礼を伝える。お姉さんはただ静かに笑いながら頷いた。
「こちらこそありがとう。――でも、今あなたがこうして幸せに暮らしているのは、あなた自身が頑張ったからだけどね。お父さんのことを正直に役所の人や施設の職員さんに話して、施設でも馴染めるように努力して、学校でも無視されていたことを怒ったりせず……。穏やかに、感謝を忘れずに過ごしてきたから。要はあなたの人徳の賜物って事ね!」
 そう冗談のように締めくくって、お姉さんは立ち上がる。
 空に向かって手を伸ばす。僕も、真似をして手を伸ばした。
 吸い込まれそうな青空に、桜の花が舞っている。
 とても綺麗で、良い匂いがした。
 もう銀色ではなく、黒い髪の毛越しの陽光が、少し眩しかった。
 腕の絵は消えないけれど、僕の体からはもう、お酒の匂いもタバコの匂いもしない。
「見つけたかもしれない、僕の幸せの木」
 遠い空を仰ぎながら、僕はお姉さんに伝える。
「お姉さんが教えてくれたあの木じゃなかったけど、この桜の木の下に来て。同じ施設に住む友達と、一緒に幸せになってきたんだ、この一年。お姉さんのおかげであの時の、『お父さんに叩かれないようになったらいいな』ってお願いは叶ったけど。もっと桜の木に幸せをそそいで、今度は違うお願いを叶えてもらうんだ」
 僕自身で見つけた、幸せの木に。
「今度は、何をお願いするの?」  
 互いに視線を交わらせず、どこまでも青い空に手を伸ばしながら。お姉さんが僕に聞いた。
 迷わず僕は、きっぱりと答える。
「お姉さんの書いた小説を、皆が読めるようになりますようにって!」
 春一番にはまだ早いけど、爽やかな風が強く吹き抜けて。
 一瞬、視界が桜色に染まった。

「また顔を見に来るね。これまでみたいに、毎月面会に来るのは難しくなると思うけれど」
 去り際にお姉さんは言った。いつものように、ハの字に眉を寄せて笑いながら。
「上京することになったの。もう家に帰ることはないだろうし、向こうで仕事が落ち着いたら君に報告にこようとは思うんだけれど……。お盆の頃とか、もしかしたらまたクリスマスくらいになっちゃうかもしれない。早く会えるように頑張るね」
 僕は首を振る。確かにすぐまた会えたら嬉しいけれど、無理はして欲しくなかった。
 お姉さんに、たくさん物語を紡いできてほしかった。
 そしてその間に、僕も夢を探しておきたかった。
『お父さんに叩かれないようになりたい』だけじゃなくて。
 お姉さんに自慢できるような、夢を。
 この先生きていく上で、指針になる星の明かりのような。
 今まで考えてもこれなかった、『僕のやりたいこと』を見つけておきたかった。
「今度会うまでに、きっと僕も夢を探しておくから。だからお姉さんも焦らないで、夢を叶えたら会いに来てね。――大丈夫。絶対また会えるから」
 お姉さんは首を縦に振り、僕の手を握る。
 温かで、幽霊なんかじゃない、今ここに生きている人間の手だった。
 死に憑りつかれていない、光のあるお姉さんの瞳をじっと見つめる。
 黒目に映る僕も、同じ目をしていた。
 毎朝鏡で見る、『今日も頑張ろう』という意思をもった瞳を。
 握手を終えて、手を離す。申し合わせていたように、離した手のひらをそのまま上げて打ち合わせた。パチン、と小気味良い音が鳴る。
「……じゃあまた、ここで!」
「うん、また!」
 
 僕とお姉さんは――
 僕と友達は、そうして。まるで明日の予定を決めた後のように、互いに背を向けて歩み始めた。それぞれ自分の目的地に向けて――それぞれ、自分の人生を夢に向かって。
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