12月二十五日/幸せの木と、私と、僕と、

文字数 3,581文字

 目覚ましはセットしていなかった。ただ、目が覚めた。顔を洗い、身支度を整えて私は家を出る。
 雪はもう止んでいた。まだ薄暗い冬の朝。凍った路面で転ばないように気をつけながら、私は神社裏手に向かう。
 持ったのは鞄、中身はビニール袋とスコップ。まるで愛犬との散歩をする人のような持ち物だった。やる事はただのゴミの回収だけれど。
 小説だったら、私が気を掘り返している間にあの子が来てドラマチックな再会をする場面だった。けれど現実はそんなに都合良くはない。
 だから、着いたらすぐに幸せの木を回収して帰ろう。わざと時間をかけて彼を待ったりせずに。
 体が冷えるだけだ。早く終わらせてしまおう。
 自然と足が早まる。空気に晒されている耳と指先が、ひどく痛んだ。

 目を覚ます。朝だけれどまだ暗いので、まず僕は照明をつけた。
 お父さんは帰ってきていなかった。数日は帰ってこないのかもしれない。それなら助かる、ずっとお姉さんを待てるから。
 顔を洗って、歯磨きをする。かなり早いけど洗濯機を回した。冷凍庫から、もうほとんど残っていない冷凍ご飯を取り出して、レンジで温めてから食べる。
 まだ早朝だから、今から干すのは良くないな、とは思いつつも洗い終わった洗濯物を干した。今日はもう帰ってこないつもりだったから、今干しておかないと洗濯ができなくなってしまう。
 ご飯を食べ終えてまた歯磨きをした後、僕は残りの家事に取りかかった。

 雪が踏まれてアイスバーンのように固まっている歩道は、予想以上に歩きにくかった。いつもよりかなり時間をかけて、私は神社前にたどり着いた。
 石段を登る。道路よりも更に危なそうな気がしたが、歩道よりも雪が踏み固められていない分まだマシだった。
 迷わずに足を進める。石段を登り終えた所で、スコップとビニール袋を鞄から取り出す。
 もうすぐ、全部終わる。

 洗濯物を干し終え、家事も済ませる。
 押入れから服を取り出して、いつもより服を重ね着した。どれくらいお姉さんを待つことになるかわからないけれど、もし夜まで来なかったら寒くて風邪をひいてしまう。
 熱を出したりしたら、もうお姉さんを待てなくなってしまう。それは嫌だった。
 玄関を出る。鍵穴が暗くて見にくかったけれど、なんとか施錠を済ませた。
 先週と同じように、僕は幸せの木に向かう。
 登りかけた太陽が眩しかった。

 スコップと袋を片手に、私は神社裏手に向かった。雪と枯れかけた雑草が、サクサクと踏まれて音を立てた。建物の横手を通り過ぎた所で、一瞬私は足を止める。
 息を吐く。視界が白く染まる。
 再び歩みを進めると、私は幸せの木の隣にしゃがみ込んだ。ビニール袋を置いて、その上にスコップを乗せる。
「............」
 私はじっと木を見つめる。初めて会った時の、あの子のように。不安気に。
「.......おはよう、早かったね」
 そう言って、私より先に木の隣にいた男の子は笑った。私はただ、無言で頷く。言葉が出なかった。--ずっと謝りたかったのに。

 お姉さんは辛そうな顔つきで俯いている。当たり前だ、きっと僕のことが怖いに違いない。
 僕はなるべく優しく聞こえるように話す。
「この前はごめんね、僕、勝手に怒っちゃって。今日はちゃんと、朝からずっと木のお世話するね。お姉さんと一緒に」
 はっとお姉さんは顔を上げる。涙を流してはいなかったけれど、あの僕と同じ瞳でこちらを見ている。
「......怒ってないの、私が嘘をついてたこと」
 恐る恐る、といった口調で聞かれた。僕は迷いなく首を縦に振る。
「うん、もう怒ってない。本当に、怒ってない」
 本心だった。最初から、幸せの木が偽物だった事については怒っていなかった。
「びっくりはした。でも、良く考えたらそんなのは、正直そんな大事じゃなかったんだ。僕にとっては。僕はただ、お姉さんと......お友達と楽しく話がしたかった。また学校のクラスメイトとか、お父さんとか、短歌とか......毎日楽しい話がしたいだけだった。幸せの木も、完全にどうでもいいってわけじゃないけど。
 ずっと一人ぼっちだったから。楽しく気持ちを分かち合える友達が欲しかった。だから、お姉さんが辛そうな目をしていたのが悲しかった。僕はお姉さんを友達だと思っているけど、お姉さんは僕を友達だと思っていなくて、僕と居ても楽しくないんだな、みたいに考えちゃったから」
 僕は、自分の気持ちを振り返りながらそう言った。話しながら、思い出しながら、過去の自分の想いを整理しながら。
 ひどく心穏やかになる行為だった。
 一人で思い返して悩むよりも、自分で自分の気持ちがよく理解できた。
 ......本当に、話せて良かった。改めてそう思った。
「この前は理由も知らないで掴みかかって、ごめんなさい。もし良かったらなんだけど、何でお姉さんはここで血を流しているのか、僕に教えて。
ずっと僕の辛い話ばかり聞いてもらっていたけど、お姉さんが無意味にこんな嘘をついたり、ただ自分を傷つけるはずがないから」
 僕と同じ、生きていないみたいな目をするはずがないから。
「心が苦しいなら、その理由を僕にも聞かせて。今日はずっと、そばにいるから」
 僕は口を閉じる。寒さのせいもあって、真っ白なお姉さんの顔。その頬に、少し赤みがさす。泣きそうな、怒り出しそうな、振り切れそうな感情の混じり合った表情。
 ぱくぱくと小さく口を開き、でも叫び出したりもせず、再びお姉さんは口を閉ざす。
 数秒の、長い間のあと。
 お姉さんは、いつものようにハの字に眉を寄せて笑った。あの、優しい瞳と笑顔だった。
「ありがとう。じゃあ、上手くまとめて話せるかわからないけど.....聞いてもらえる?」
 そう前置きをしてから、お姉さんは話し始めた。お家の--お母さんの話だった。小さい頃にお母さんが恋をしたこと。それがダメになって、どんどんおかしくなっていったこと。お父さんも親戚も、みんなそんなお母さんから離れて行ったこと。お家はどんどん貧しくなっていったこと。お姉さんがいくら頼んでもお母さんは自分のおかしさを認めないこと。言い続けると逆にお姉さんの事をおかしいと反論してくる事。学校などで相談はして見た事。でも、聞いてはくれても誰も助けてくれなかったこと。

 本当は自分がおかしいんじゃないかと、不安で、怖くて、辛かったこと。
 あの日、本当は死のうとしていたこと。
 でもできなくて。自分を傷つけていた時、僕に出会って咄嗟に嘘をついてしまったこと。

 頷きながら、僕は黙ってお姉さんの話を聞いた。僕がお父さんの話をお姉さんにした時、お姉さんがしてくれたように。
 僕が話した時、そうしてもらえて、とても心が楽だったから。
 お姉さんは泣いてはいなかった。ただ、今にも居なくなりそうな......最初に会った時みたいな、幽霊みたいな顔をしていた。
 生き物の気配がしない、今にも消えてしまいそうな。それが僕も怖くて、僕は右手でお姉さんの左手を握っていた。冷たい手を互いに温め合いながら、話を聞いた。
 進学も勧められてはいるけれど、やっぱり夢を追いかけたいこと。小説家になって、物語を書いて生きていきたいと思っていること。
 お母さんから離れるためにも、自分の夢を叶えるためにも、上京しようと思っていること。
 そう言って、お姉さんは話し終えて口を閉ざした。
 数秒の沈黙。僕はお姉さんの手を握ったまま、
「うん、凄く......凄く、良いと思う。僕もいつか、お姉さんの書いた小説が読みたい。感想を言いたい。だから、お姉さんのその道を応援したいと思うよ。きっとできる。お姉さんなら」
 がらんどうみたいだった瞳に、光が戻る。お姉さんが僕を見つめる。僕も、お姉さんを見つめてから笑う。
 僕はお父さんに叩かれたりしてきたけれど、それよりもお姉さんはずっと辛い状況で生きてきたのだ。暴力を振るわれる事はなくても、誰にも助けを求められない状態で、学校で元気な自分を演じて。そして、家では自分を否定されて。
 自分自身で自分の正気を疑いながら、ずっとひとりぼっちで生きてきたのだ。
 そんなの、僕には絶対に耐えられない。
 そんな場所にお姉さんにいて欲しくない。
 僕よりずっと辛くて悲しい日々を送ってきたのに、死のうとした直後だったのに、こんな僕を支えてくれた、大切な友達。
 そんなお姉さんの夢とこの先を、僕は応援したいと思った。
 その旅路を、見届けたいと思った。
 例えこの先、僕がどんな人生を歩むとしても。
 死ぬまで、ずっと。
「いつでもいいから、夢が叶ったら一番に僕に教えて欲しい。ずっと待ってる。ずっと、ずっと、応援してるから」
 お姉さんの夢だけじゃなくて。
 お姉さんがこれからも生きていくことを。
 応援して、支えていきたかった。
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