十二月十四日/帰り道、夜の家、神社

文字数 2,664文字

 帰りの会が終わると、僕はランドセルを背負って外に出た。四年生になったら何か部活動に入らないといけないけれど、もし入らなくても先生から何か言われることはないだろうなと思っていた。遅くなると家の掃除もできないし、お父さんのご飯も買ってこれない。できればやらなくて済めばいいなと、こういう時だけ都合よく僕は思った。
 頑張って走れば、家まではすぐだ。クラスメイトには登校に電車を使っている人もいるけれど、お金がもったいないから僕が使ったことはない。そんなお金をお父さんが使うわけがない。
 家に着く。窓を開けて乾いた洗濯物を家の中に入れる。お父さんの服は綺麗にたたんで衣装ケースに入れた。僕の分は乱雑に押し入れに押し込む。冷凍庫にある冷凍したお米の残りを確認し、まだいくつか残っていることに安心した。ご飯がもうないって伝えると、またお父さんが不機嫌になるから。
 テレビの下の棚を開ける。中には千円札が数枚と、小銭が少し入っていた。千円札と小銭を取り出す。昨日見た時より中身が少なかった。お父さんが持って行ったのかもしれない。今夜の僕のご飯は買わないでいよう。もし余裕があったらおにぎりを買おう。
 お金をポケットに入れて、コンビニに向かう。近所のいつも使っているコンビニに。
 そこの店長さんは僕と、僕のお父さんと顔見知りだ。
 前に僕がお酒を買いに行ったとき、「子供には売れないんだ」と断られたことがあった。決まりなら仕方ないと、僕はご飯だけを買って帰った。
 翌日、お父さんは左頬を痣で青く染めた僕を連れて、このコンビニに怒鳴り込んだ。僕相手でもお酒を売れと。こんな子供が酒なんか自分で買うか、俺のお使いに決まってるんだから売れと。その時の店長さんは、ひどい嫌悪感を込めた目で僕とお父さんを見ていた。
 それから僕は、このコンビニでお酒を買えるようになった。
 コンビニに着くと、僕はまず缶の安くて大きいお酒をかごに入れる。お父さんはこれを毎日飲む。それからおつまみコーナーと、お弁当コーナーでなるべく量が多くて安いものを買う。かごがいっぱいになると、僕はそのままレジに向かった。店員さんはちらりと僕を見ると、年齢確認ボタンを手を伸ばして自分で押してくれた。
 お釣りを受け取る。手元に残ったのは十円玉と一円玉数枚だった。僕の分を買わなくてよかった。お金が足りなかったら店員さんを困らせてしまうから。
 袋を抱えて、家に向かう。冬の夕暮れ。長く伸びる、僕とビニール袋の影。
「さようなら王子様。あなたの手にキスをしていいですか?」
 小さく、教科書の物語を読み上げる。
「この町で一番尊いものを持ってきなさい」
 家に着く。お弁当とお酒を冷蔵庫にしまう。残った小銭をテレビの下の棚に戻す。
 僕にとって、一番尊いものはお金かもしれない。
 だって、あればお父さんはイライラしないから。
 
 夕日が落ちても、お父さんは帰ってこなかった。もしかしたら今日は泊りの仕事なのかもしれない。真っ暗な部屋の中で、僕は服の上から布団を被って窓の外を眺めていた。
 静かな夜。窓越しの、ぼんやりしてあやふやな星。遠くから踏切の音が聞こえる。いつお父さんが帰ってきても気づけるように、足音が聞こえないかと耳を澄ませる。
 五分くらい過ぎた後。トットットッ。遠くから、軽い足音が近づいてきた。足音の主ががお父さんでない事は、僕にはすぐわかった。お父さんは、こんな軽やかに歩いてきたりしない。この時間に家の近くを人が通るのは稀だった。誰だろうと不思議に思い、僕は布団から抜け出すと窓の近くに寄った。外を眺める。
 お父さんは帰ってくる時に泥酔していると、物を引き摺るような足音を立てる。イライラしている時は、ドンドンと靴底で何かを叩くような大きな足音。そしてお父さんが帰ってくる時は、大抵は泥酔しているかイライラしているかのどちらかだった。
 窓の外。制服を着たお姉さんが通り過ぎる。僕は驚いて目を大きく開けた。道の灯りに照らされた人影は――学校で見た、あの幻のようなお姉さんだった。僕に笑いかけてくれた、あの。
 昼間と同じ鞄を抱えて、お姉さんは歩いて行く。スカートから伸びる白い足が、すいすいと闇を裂いて消えていった。

 ......何故だろう。心が急に、たまらなくなった。
 部屋の煙草の匂いが苦しくて。
 部屋のお酒の匂いが苦しくて。
 部屋のお父さんの匂いが苦しくて。
 肺の空気を全部吐き出したくなって、僕は外に駆け出した。

 慌てて震える手で鍵をかける。階段を駆け降りて、お姉さんの後ろ姿を探す。ちょうど、遠くの曲がり角に消えて行くのが見えた。全力で走る。喉がひりひりして、心臓が熱くなる。
 でも、こんなのへっちゃらだ。
 全力疾走は、慣れているから。
 曲がり角を曲がる。お姉さんは迷う事なく、近くの神社に向かう石の階段を登っていた。そこは地元の人も行かない、観光客が来ることもない、田舎特有の人気のない神社だ。僕も前を通る事はあっても、実際に中まで入った事はない。
「待って、待って...」
 声が掠れる。道を歩くのと同じスピードで、お姉さんは石段を上っていく。荒い息を抑えながら、僕は必死に後を追った。
 どうしてか、見失っちゃいけない気がした。
 どうしてか、そうしたらもう会えない気がした。
 何でそれが怖いのか、理由はわからなかった。

 石段を登り終え、神社に着く。周りに人影はない。......けれど、遠くに行ってはいないはずだ。ここの出入り口は、僕が今通ってきた石段しかない。
 ぐるりと本殿の横を通って、裏手に向かう。
 ――昨日よりは明るくはっきりした月の光の下、お姉さんがしゃがみ込んでいるのを見つけた。
 息を吐く。ほっとして。
 ほっとして? どうしてだろう。
 煙草の煙みたいに、息は白く立ち上る。
「......、あの」
 声をかける。一歩踏み出す。枯れた雑草が、ガサリと音を立てた。肩を震わせて、お姉さんが僕に気づいたのがわかった。ゆっくりとこちらを振り返る。
 不思議そうな顔の後に、お姉さんは僕に向かって微笑む。体育の時間と同じ、あの優しい笑み。優しそうで綺麗な人だ、初めて間近でお姉さんを見て、素直に僕は思った。
 そしてお姉さんは立ち上がる。制服から伸びる、白い腕と足。月の光と周りの闇のせいで、それは人形のように細く頼りなく見えた。――あるいは、幽霊のように。
 その右手には、薄い刃の剃刀が握られていて。
 その左腕からは、赤黒い血が滴っていた。
「こんばんは。今日は星が綺麗に見えるね」
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