12月14日/桜の木の精霊

文字数 2,804文字

 朝。目が覚めた時、唐突に私は決めた。
「よし、今日は死のう」
 別に昨日も母はいつも通りだった。
 学校でも、友人と仲良く過ごした。
 何も変わらない日常だった。
 
 違うのは、ただ私が限界だっただけだ。
 このまま母と一緒に生きて行くのは、一秒たりとも耐えられなかった。もう全てを手放した方が楽だった。
 登校の準備をして、まだ母が目を覚ます前に家を出る。そしてそのまま、学校とは反対の方向に歩き出した。
 
「すみません、未成年の方には販売できません」
 当たり前だった。頭を下げて私はコンビニを出る。家を出る前にせめて制服はやめようと考えが及べば良かったのに。勢いで家から飛び出した自分を呪った。
「タバコの服毒とか、薬をお酒で大量に飲んで死ぬのは無理ね、うーん......」
 歩きながら私は悩む。飲むだけで死ねるなら、怖がりの私でもいけるかなと淡い期待をしていたのだが。そう甘くなかった。
 踏切で立ち止まる。カンカンと音を立てて降りる警告棒。冬の朝の光で光る、銀色の線路。
 飛び出してみようか、と思った。
 電車に飛び込み自殺すると、遺族に多大な請求が来るとは聞いていた。けれどまあ、私にとってはどうでもいい話だ。母が私の死後にどうなろうと、知ったことではない。

 母が妄想に狂うようになったきっかけは、職場での不倫だった。父には明かさず、母は『愛してる、今度結婚しよう』と口だけで囁いた男に入れあげた。そして数ヶ月で何かが表沙汰になる前にあっさりと捨てられた。
 泣きながら母は相手の家に電話をした。遠くに子供の声が聞こえる電話先で、相手の妻は母に言った。
「いつも夫から聞いています。会社でストーカーされているって。本当に迷惑です、早く退職して二度と関わらないでください。次は警察に行きますから」
 母はしばらく泣いていた。幼かった私も、母を慰めながら一緒に泣いた。
 そして今は、そんな過去を馬鹿馬鹿しいと思い出している。

 あの人は父と私を捨てた、血が繋がって同居してるだけの他人だ。多額の負債で苦しもうが知った事じゃない筈だ。
 奥歯を噛み締める。快速電車が見る見る近づいてくる。私は両足に力を込める。
 人を乗せた鉄の塊は、一筋の赤い残像を残しながら、踏切を過ぎ去っていった。
「......。」
 警告棒が上がる。去って行く快速、その銀と赤色のボディを見ながら、
「でも、電車に乗ってる人に迷惑がかかるから」
 言い訳のように、私は呟いた。

 自殺のための道具を物色しに、私は地元密着型のホームセンターに向かうことにした。自分の車を持っていれば練炭を買えばすぐに済む話だったけれど、残念ながら私の立場では望めない。
 少し寒かった。赤いネックウォーマーを顔の半ばまで上げる。上着を着てくるべきだった。風邪をひきそうだ。
「......今日、これから死ぬのに?」
 ふふっ、と自分の発想を笑う。我ながら醜い生き物だ。生に執着しちゃって。
 早めに出かけすぎたせいか、少しお腹も空いている。途中再びコンビニに寄って、今度は販売されているホットスナック類を購入した。平日のこの時間に制服で居る私に、店員さんは一瞬だけ奇怪なものを見るような視線を向けていた。
 外に出て、行儀悪く食べながら歩く。お腹が満ちると同時に体が少し温まる。その代わりに『死のう』という気持ちが弱まってしまった気がした。
 いけないいけない。ゴミをビニール袋に包み、鞄に仕舞うと私は両頬を自分で叩いた。気合いを入れ直す。ちゃんと。今日、私は死ぬと決めたのだ。
 少し大股でサクサクと歩を進める。もう通勤時間帯とは外れたとは言え、車道には車通りも多少あった。通り過ぎるたび、露出してしまっている脚が風で冷たい。
「......あ、ここ」
 ふと、左手にある建物に目を向けて足を止めた。それは数年前私が卒業した小学校だった。もうかなり昔の事のように思える。
 侵入防止用の金網の向こうにある母校は、なんだかとても寒々しく見えた。何となくノスタルジックな気持ちに浸りながら、私はぼんやりと校舎と校庭を眺める。
 体育の時間を行なっているクラスがあるようで、高跳びの棒が何度も落ちる金属音、そして歓声が聞こえた。何だか懐かしく思えた。あの子供の遊び半分のような、和気藹々として先生や友達と学ぶ、楽しかった時間。
 あの頃は私も、母の言うことを信じていた。
 毎日毎日、母の言う億単位の大金が明日は振り込まれるかもしれないと楽しみにしていた。大きな家で新しいお父さんと住んで、お話に出てくるお姫様みたいな生活をするのだと心をときめかせていた。楽しみだった。
 まだ、母に対して憎しみと怒りを抱いていなかった。
 まだ、自分に対して絶望と不快感を抱いていなかった。
 こんな思い出し方をするなんて、まるでお婆さんになったみたいだ。小さく笑いながら、私は校庭にある桜の木に視線を向ける。季節柄、もちろん咲いてはいない。寒々しく空に枝を伸ばし、授業を受ける小学生達を見守るように佇んでいる。
「......ん?」
 見ると、その根元にぽつんと一人で座っている男の子がいた。他の子と同じように体操着を着てはいるけれど、体育に参加してはいない。見学であろう座っている子供達とも、ずっと離れた場所に居る。
 そして何より異質なのが、彼の髪の毛が銀色であることだった。薄寒い冬の陽光を、透かすように、反射するように、彼の髪は光って見えた。
 綺麗だな、素直に私はそう思った。
 担任の先生も、生徒達も、誰も彼に視線を向けたり話しかけたりはしない。彼も彼で、ただぼんやりと遠くを見つめていた。
 もしかしたら、生徒ではないのかもしれない。私は思った。彼は、今は葉も花もない桜の精霊、とかで。だから先生にも生徒にも見えていなくて。だから寒そうで、寂しそうに遠くを見ているだけなのかもしれない。
 だったら、早く春が来て。暖かくなって、桜も満開になって。彼が幸せそうに笑ってくれる日が、早く来てくれたら良いと思う。
「......なんてね?」
 およそ現実ではありえないような想像をしながら、私は再び銀髪の彼を見つめる。と、私の視線を感じたのか、彼がこちらに顔を向けた。お互いになんとなく近くを見ていたが、しっかりと初めて目が合う。私が軽く手を振ると、彼は少し慌てて、体育座りの膝を抱えるようにして視線を下に向けた。
 その様子が可愛くて、私は思わず笑い声をこぼす。そして、そのまま金網から離れる。あまりずっと居ると、不審者として呼び止められてしまうかもしれないし。
 再びホームセンターに向けて、私は歩き出した。一瞬だけ後ろを振り返ると、彼はまたぼんやりと遠くを見つめていた。
 冷たい指で、私は左手の手首を撫でる。
 良かった。そう、私は思った。
 最後に桜の精霊に会えて、良かった。
 あの男の子のお陰で、朝よりは心が穏やかなまま、死ねるような気がした。
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