十二月十四日/学校

文字数 2,362文字

 ごそごそとお父さんが起きだす音がして、僕は布団の中で目を開けた。電子音とともに、部屋のエアコンが唸りだす。今日は早く出かける日のようだ。眠そうに大あくびをすると、僕の横を通ってお父さんはトイレに入った。踏まれたDVDのパッケージが、いくつか軋んだ音を立てる。さっきトイレの水を流しておいてよかったと、僕は思った。もう少し遅かったら、朝から怒られていたに違いない。
 ちらりと時計を見ると、六時二十分だった。なるべく早くお父さんが出かけることを祈る。お父さんの前で学校の準備はできないからだ。ゆっくりしていると遅刻してしまう。
 トイレから戻ると、お父さんはどっかりとエアコンの真下に座った。朝方僕が畳んで揃えておいた服を着て、寝間着を乱雑に投げ捨てる。
「さみぃさみぃ」
 小声で呟く声が、かなり不機嫌そうだった。早く出かける日、お父さんはいつも眠気と二日酔いでイライラしている。少し経った後、電気シェイバーの音がした。バシャバシャと水の跳ねる音も。
 布団の端から少しだけ顔を覗かせて、僕はお父さんを見つめた。視線に気づかないまま、お父さんはスマホと財布をズボンのポケットにねじ込む。そしてテーブルの上に顔を向けた。朝食用に、さっき僕が作っておいたおにぎりを見ている。中身はおかかと梅干だ。梅干しは前にお父さんが、「二日酔いの朝は梅干しくらいしか食べる気がしない」と言ってから必ず具材にするようにしている。
 はあぁ、と長い溜息。舌打ちをすると、お父さんはおにぎりをゴミ箱に投げ捨てた。シンクにお皿を置き、そのまま冷蔵庫を開けて缶のお酒を取り出す。冷たい炭酸の音。中身を一気にあおると、お父さんは空き缶もシンクに投げすて、そのまま出かけて行った。どうやら今日は、お腹がすいていなかったらしい。
 階段を下りる足音が十分に遠のいたのを確認してから、僕は起き上がった。
 電気代がかからないよう、まずはエアコンを止める。お父さんが脱いだ服を拾って、洗濯機に入れ、ボタンを押した。急いで干せば、ぎりぎり遅刻しなくて済みそうだった。
 洗濯の間にお皿を洗い、空き缶を洗って缶用のビニール袋に入れる。床に散らばったものを集めて棚に戻す。先ほど捨てられていたおにぎりをゴミ箱から拾い上げると、表面の汚れを取って食べた。冷たかったけれど、割と美味しい。朝ごはんが食べられて良かった。
 
 洗濯物を干し終えると、僕は押し入れからランドセルと服を取り出す。ガスの元栓と窓の施錠、家中の電気を確認する。それから外に出て、鍵をかけた。階段を駆け下りる。走れば何とか朝の会に間に合いそうだ。

 学校につくと、僕は昇降口で靴箱を開けた。全力疾走のせいでドキドキと跳ねる心臓を落ち着かせながら、上履きに履き替えて教室を目指す。もう周りに生徒の姿は見えない。みんな自分のクラスに戻っているようだった。
 教室の扉を開ける。中はクラスメイトの話し声で満ちていたけれど、僕が入った瞬間、皆が僕を見て一斉に口を噤んだ。奇異の視線でも、恐怖の視線でもない。テレビ番組で見た、野生のヤギのような目だった。何の感情も含まない一瞬の沈黙の後、再び室内は喧噪であふれる。
 窓際――教室の隅の席に座り、ランドセルから教科書を取り出していると、担任の先生が出席簿を抱えながらやってきた。一日が始まる。

 一日を通して、僕の名前が呼ばれることはないけれど。
 出席確認の時も、ちらりと視線を向けられるだけだけれど。

 体育の時間、僕は「腕の怪我が痛むので見学したいです」と伝えた。先生は「あぁ」と「はぁ」の中間みたいな声で答える。別に怪我の確認をされる事はない。みんなから少し離れて、僕は地面に座る。他の見学組は、体育をしているクラスメイトや先生を挟んで反対側に座っていた。楽しそうに喋り、たまに先生にそれを怒られている。僕はぼんやりといつもの光景を眺めていた。
 校門の外に目を向ける。日中のせいか、車通りは少ない。僕は何となく、通った黒い車の数を数えていた。走り高跳びの棒が、何度も落下してカシャカシャと音を立てている。歓声、悲鳴、喧噪。僕のいない場所はいつも賑やかだ。
 数えた数が10を超えたあたりで、ふと人が立っているのに気付いた。校門から少し離れた、道路と校舎の間を分ける金網の向こう。細い人影は、ぼんやりと僕――いや、僕の横に立っている桜の木を眺めていた。冬の寒々しい桜を。
 たぶん高校生だと思う。見たことのある制服を着たお姉さんだった。学校の名前は知らないけれど。軽そうなカバンを片手に、赤のネックウォーマーで顔の半ばまでを覆っている。寒いのに、コートとか上着を着ないのかな? と、僕は不思議に思った。
 その目はどこか何かを懐かしむように、でもとても嬉しそうに、キラキラ輝いて見えた。僕に向けられるクラスメートの視線とは違っていて、気になった僕は何となくお姉さんをじっと見つめてしまう。
 視線に気づいたのだろう。お姉さんは僕を見ると、にこっと笑って手を振ってくれた。
 ……びっくりした。慌てて僕は顔を下に向ける。頬が赤く染まるのが自分でもわかった。
 だって、本当に久々だったのだ。人から見られるのは。
 透明人間じゃなくなるのは。
 僕が認識されるのは。
 恥ずかしいような嬉しいような、複雑な気分だった。

 ――僕は嬉しかったんだろうか? 見てくれて嬉しいって何だろう。

 金属音がして、棒が落下する。
 クラスメイトの笑い声。先生の呆れの混じった笑い。
 僕は顔を上げる。

 そこにもう、お姉さんは居なかった。もしかしたら僕の想像だったのかと思った。
 考えてみれば――こんな時間に高校生が小学校の前にいるなんて、おかしな話だった。
 考えてみれば――僕を見て笑ってくれる人がいるなんて、おかしな話だった。
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