十二月十六日/図書室

文字数 1,716文字

 暖房の熱気と、加湿機の水蒸気と、並ぶ古い本と。それらの入り混じった、独特の匂いがした。
 昼休み。昼休みでも気温は二桁にならないくらいの冷え込みだったけれど、校庭からはたくさんの歓声が聞こえてきていた。皆、外で遊ぶのが好きなのだ。
 図書室。僕は昨日、クラスメイトが読んでいたものと同じ本を読んでいた。人気作品だからか、この本は三冊ほどここに置かれている。
 不思議な猫を助けた男の子が、長い時間を願って、知らない場所で冒険をする話だった。僕はこの話が好きだった。僕も猫に出会ったら、こんな風に別の世界で長い時間を過ごしてみたいと思う。
 もう、帰ってこれなくてもいいくらい。
 大冒険なんてできなくてもいいけど。
 誰も僕を知らない場所で、長い時間を過ごしてみたかった。
 竜のなぞかけに主人公が苦戦しているあたりで、図書室の扉が開く音がした。僕はふと顔を上げる。入ってきたのは昨日のクラスメイトだった。彼女はまた一瞬僕を見る。
 ...また顔を逸らされるのだろう。
 僕はクラスメイトが嫌な気持ちにならないよう、本を立てて集中しているような雰囲気を出しながら、顔を少し隠した。
 ここに居るのは本であって、僕じゃない。
 足音の後、クラスメイトが本を返却している音が聞こえた。昨日読み終えたのだろう。読むのけっこう早いんだな、と、僕はぼんやりと考える。
 まあ、僕に関係ある事ではないけれど。
 再び本に集中しようと、僕は字を追い始める。主人公を騙して間違わせようとする竜。必死で考える主人公。何度も読んで内容は知っているけど、胸が熱くなるところだ。
 ――突然、椅子の引かれる音がした。ついで聞こえる、とすん、という座る音。
 えっ、と、僕は声を出しかけた。
 僕の隣に、クラスメイトが座っていた。図書室には僕と、クラスメイトと、何やらパソコンで遊んでいる図書委員しか居ない。他にもたくさん椅子は空いている。なのに、何で。
 ここなら窓から遠くて、陽の光が眩しくないから? 暖房が近くて暖かいから? ここがお気に入りの場所で、そもそも僕の事なんて気にも留めていないから?
 わからない。少なくとも、今までは無い事だった。本の内容とは関係なく、心臓がドキドキと鳴る。緊張のせいか、少し吐き気がする。
 理由はわからないけど、クラスメイトが怖がったり嫌な思いをしないようにしよう。そう思った。
 息を潜めて、ただ僕は本に集中しているふりをした。クラスメイトも僕に話しかけたり、視線を向けてきたりはしない。......当たり前だ。僕に話しかけたりしたら、周りに何を言われるかわからない。
 二十分程、その奇妙な時間は続いた。何も言葉は交わさず、互いに互いを見ることもない。
 顔から汗が流れた。もう少し、暖房から離れた場所に座るべきだった。
 先に立ち上がったのはクラスメイトだった。時計を見て確認し、昨日と同じように本の貸し出しの手続きをする。そして、今日は僕の方を振り返ることなく図書室から出ていった。
 遠ざかる軽い足音を聞きながら、僕は溜めていた息を吐きだす。何だかとても疲れた。何だったのだろう、一体。
 昼休みももう少しで終わりだ。僕は竜のなぞかけから一行も進んでいない本を閉じると、定位置に返そうと席を立つ。
 そして、隣の椅子が引かれたままになっている事に気がついた。クラスメイトが戻し忘れたのだろう。僕は隣の椅子も戻しておこうと手を伸ばし、
「......?」
 折られた小さな紙が、椅子の上に置かれていることに気づいた。忘れ物だろうか。メモ紙のようで、裏返しのまま置いてある。流行りのキャラクターの顔が透けて見えた。
 どうしよう。返した方が良いのだろうか。拾い上げながら僕は考える。でも、教室で返したら迷惑になるかもしれない。
 少し悩んだ後、僕は心の中で謝りながらメモの表面を見た。白紙ならそのまま置いておこう。内容が書かれていたら、他の誰かに見られないように、僕からだと気づかれないように返しておこう。
 表面には宛名もクラスメイトの名前も書いていなかった。ただ一言、キャラクターが話しているような吹き出しの中に、
「その本、面白いよね。私は好き」
 と、書かれていた。
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