十二月十九日/帰宅、幸せの木へ

文字数 2,345文字

 僕が家に着いて扉を開けようとすると、ちょうどお父さんが中から出てきた。僕は半歩下がって邪魔にならないように待つ。
 今日は仕事ではないようで、スウェット姿のお父さんはお酒の缶を片手にふらふらと出てきた。
扉の横で待機している僕を見ると、嫌そうな顔で舌打ちをする。
 慣れてはいるけれど、やはり怖くて小さく肩が震えてしまう。そんな僕を汚いものでも見るような目で眺めた後、お父さんはふらふらとした足取りのままで階段を降りて去っていった。
 買い物に行くのだろうか。いや、単に買い物をするだけなら、僕にお使いをさせる筈だ。
 少し考えたけれど、結局わからずに僕は家に入った。朝少し片づけた部屋は、また物が散らばっている。
「......洗濯物やろう」
 小さくそう呟いて、僕はいつもの家事を始めた。

 買い物まで終えてもお父さんは帰って来なかった。お弁当とお酒を冷蔵庫に入れ、残りのお米をチェックしてから僕は窓際に歩み寄る。
 もう少ししてもお父さんが帰って来なかったら、今日もお姉さんに会いに行こう。
 自分でも少し気持ち悪いなと思ったけれど、今日の家事は楽しくできた。どうしても、途中で学校の--体育の時間を、思い出して顔が笑いそうになってしまう。
 本当に嬉しかったから。
 また明日も、ああして声をかけてくれるかもしれない。それを見て他のクラスメイトも、僕にまた話しかけてくれるかもしれない。
 もしかしたらまた、友達になれるかもしれない。
 胸がどきどきと鳴る。明日が楽しみだった。
 辛くなったり、楽しみになったり。
 本当に自分でも、最近気持ちがめまぐるしく動く。

 そう、まるで...、
「ちゃんと生きてるみたいだ」


 お父さんが帰って来ないのを確認した後、僕は家から出て鍵をかける。毛玉だらけの上着を羽織って、幸せの木に向かう。
 もう慣れた石段をとことこと登る。
 僕が着くと、お姉さんはもう血をあげ終えた所だった。手慣れた手つきで左腕に包帯を巻きながら、僕に顔を向けて微笑んでくれる。
「こんばんは、今日は顔色いいね」
 僕は頷く。そしてお姉さんの--幸せの木の隣に座り、だいぶ背丈の大きくなった木の葉を撫でた。お姉さんのお世話のおかげだろう、数日前の双葉とは比べ物にならないくらい大きくなっている。
「......あれ?」
 ふと、指先に違和感を覚えた。歯の表面がざらついている気がする。撫でていた葉をめくり、僕は顔を寄せた。
 ここは暗いからよく見えないけれど、つるつるした葉の裏側に妙な凹凸があるのがわかった。丸のような、Cのような形。特に変色していたりはしなかったけれど、他の葉の裏にはないものだ。
 僕はその葉を持ったままお姉さんに問いかける。
「ねえ、何かおかしな葉があるんだけど」
 ゴソゴソと鞄からペットボトル等を取り出していたお姉さんは、僕の声に顔をこちらに向ける。
 手を伸ばして、僕の持っている葉をお姉さんが捲る。一瞬手が触れ合う。慌てて僕は手をひっこめた。
 それから顔を寄せて、お姉さんは僕の見つけた凹凸をじっと眺めた。
「うーん...何だろう。私も気づかなかったわ、これ...」
 しばらく唸りながら眺めた後、鞄から小さな鋏を取り出す。そしてその葉を根本の茎から切り落として、ゴミ用のビニール袋に入れた。
「大丈夫だとは思うんだけど、病気だったら困るから処分しとくわね。ありがとう、見つけてくれて」
 にこりとお姉さんが微笑む。僕も頷きでそれに答えた。
 
 今日は体育をクラスメイトと出来た事をお姉さんに伝えると、お姉さんはまた自分の事のように喜んでくれた。
「すごーい! その子、勇気出してくれたのね! 実際その場にいたら私には出来ない事だわ.....君もその子も頑張ったわね、私尊敬しちゃう」
『大野道は 茂道茂路 茂くとも 君し通はば 道は広けむ』ね。嬉しそうにお姉さんは呟く。お姉さんは本当に短歌が好きだ。
「万葉集が好きなの?」
 僕はお姉さんに問う。僕から万葉集という単語が出たからか、お姉さんは驚いて目を見開いた。いつもの僕を励ますためのリアクションではなく、本当に心から驚いたように。
「よく知ってるわね、調べたの?」
 僕は頷く。今日図書室でクラスメイトと少し話した時、短歌について調べていたのだ。たまにお姉さんが呟く短歌の意味を知りたくて。
 たまたま今日は万葉集の短歌一覧についての本を読んでいて、その中には先程お姉さんが呟いた短歌があったから、僕にもわかった。
 大野の道は、草木が繁りに繁った道です。でもいくら草の生い茂った道でも、あなたが通るなら道は広がるでしょう。
 そんな、励ましの意味の短歌だった。
「別に万葉集だけが好きってわけじゃないの。ただ、短歌って素敵じゃない?」
 言いながら、お姉さんは制服の上から左腕を撫でる。......左腕の、さっき幸せの木に血をあげるためにできたばかりの傷を。
「限られた言葉に、今見ているもの、感情、願い......そんなものを詰めて一つの形にするって。いいじゃない。私は大好き。きっとそうして削られて、磨かれた言葉の中に嘘はないでしょうから」
 何も誤魔化さない言葉だから。
 白い指先で、少し強く腕を握り。
 お姉さんは僕じゃなく、少し遠くを見て呟いた。
 気のせいだろうけれど、その横顔は辛そうに見えた。寂しそうじゃなく、辛そうに。
「僕も少し、短歌について勉強してみる。もし好きになったら、お姉さんに教えるね」
 フォローのつもりで僕はお姉さんに言う。いつもみたいに、またあの笑顔に戻って欲しくて。
 その思いが伝わったのか、お姉さんは僕の方にまた顔を向けると、
「あら、じゃあ楽しみにしてるね。お互いに好きな短歌を教え合いましょう」
 そう言って、眉をハの字に寄せて笑った。
 
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