12月14日/嘘つきと双葉

文字数 4,108文字

 涙は十分ほどで止まったが、このまま真っ直ぐ帰る気にはならなかった。とりあえず、帰るのを遅らせたくて。どうしても足が重い。
 途中の自販機で温かいコーヒーを買う。ミルクと砂糖のたっぷり入ったそれは、食道をぽっと熱しながら胃に滑り落ちていった。こんな時なのに、私は少し空腹だった。
「はぁ......もう、やだなぁ」
 今から死ぬ気にはなれない。けれど、家に帰る気にもなれない。赤い目のまま帰るわけにもいかないし、と自分に言い訳をしつつ、私は寄り道する場所を探しながら歩いた。
 歩きながら缶に残ったコーヒーを飲み終える。マナーは悪いけれど、空になった缶を持ち続けたくなくて私はコンビニに寄った。ゴミ箱に缶を捨てて、何となく買う物を探す。
「......、はぁ」
 洗面用品の中にある、剃刀を手に取った。鞄の中を確認する。大丈夫、いつも通り包帯とガーゼは準備してあった。泣いた後の顔が見られないように、私は俯き気味に会計を済ませる。午前中にタバコが買えないかと頼んだ店舗と同じだったが、店員さんも変わっていたし、特に何か言われることもなかった。
 鞄に剃刀を入れて、私は今度は明確に目的地に向かって歩き出す。剃刀を買った瞬間から、行く場所は決めていた。

 そこは、自宅から少し離れた場所にある古びた神社だった。月明かりで石段が骨のように白く照らされている。
 古びた、と言うより朽ちかけたと表現すべきかもしれない。最近夜に何度か足を運んだが、人の居る気配はないし建物にもゴミが溜まっていた。
 その裏手は少し開けた場所があって、人目を気にせず時間を潰すにはうってつけだった。帰宅を伸ばすため、ここに三十分ほど滞在するつもりだ。
 その場にしゃがみ込む。鞄を開けて、先ほど購入した剃刀を開ける。右手で持つと、左手に押し付けるようにして刃を滑らせた。
 血が滲み、腕を伝ってぽたぽたと雫が溢れる。もちろん痛みはあるが、口から溢れ出そうな苦しさは軽減された気がした。冬でも地表で生き残っている雑草の双葉が、私の血で汚れていく。
 自傷行為を始めたのは、中学三年の夏、テスト前の夜に母がパーティーを始めた時だった。初めは目立たない場所を引っ掻き傷程度に薄く切るだけで、それでもこれを続ければここから居なくなれるのではないかと少し期待していた。
 勿論そんな事はなくて、ただ慣れたせいで効率よく血を流せるようにはなっていた。気づいては居るのだろうけど、気を遣って先生や友人は何も言わない。母はそもそも私の自傷行為に何の興味も持っていなかった。
 死ななかった自分への復讐を終えたら、帰宅しよう。そう決めた。
 気持ちは楽になったけれど、少し暴力的な気持ちは残っていて。何となく私は、一つの双葉に集中して血の雫を当てて遊んでいた。私の血なんか浴びるのも、この葉にとっては苦痛だろうから。一緒に苦しめばいい、なんて思いながらの八つ当たりだった。
「......、あの」
 不意に声がかけられる。同時に、踏まれた枯れた雑草の葉が鳴る音が聞こえた。驚いて私の肩がびくりと震える。私は慌てて顔を上げて、声のした方に向けた。
 そこに立っていたのは、何とあの昼間見た桜の精霊.......だと想像した、銀髪の男の子だった。彼は怯えたような、まるで幽霊でも見るような目で私を見ている。当然だった。ほぼ初対面の人間が、何故かこんな場所にいて、自分で左腕を傷つけて血を流していたら誰だって怖いだろう。頭のおかしい不審者だと思われたに違いない。
 警察とか呼ばれたらどうしよう。別に悪い事はしていない――いや、まあ、公園には不法侵入したばかりだ――けれど、とりあえずこの子を怖がらせるべきではない。
 精一杯優しそうな明るい声で、私は男の子に言う。
「こんばんは。今日は星が綺麗に見えるね」
 なるべく人好きのする笑顔を私は浮かべる。だが、男の子はじっと私の腕を、そこを流れる血を眺めていた。余計に不審に思われたかもしれない。嫌な汗が背中を流れる。
 男の子は数歩ほど足を進めて私の隣に立つと、何とも言えない表情で黙考したのちにぽつりと言う。
「血が出てるけど、痛くないの?」
 まずい。確実に怪しまれている。
「うーん......」
 思わず唸りながら私は下を向いた。何かもっともらしく、私が不審者っぽくなくなり、この子が怖がらなくなる言い訳はないだろうか。しかし、いくら地面に目を向けても、雑草の双葉くらいしか目に入るものはなかった。
「説明が難しいけど......君なら言ってもいいかなあ.......」
 もごもごと独り言のように呟いて、時間を稼ぐ。手首を切って血を流してる理由。なんだ、思いつけ私。私の書く物語だったら、ここで主人公は何て言うだろうか。想像して。
 先ほどまでの自分を思い出す。偶然目に入った双葉に、枯れないかと集中して血を垂らしていただけだ。何の意味もない。焦りで頭が回らない。どうしよう、どうしよう......
「ねえ、これ!」
 とりあえず顔を上げ、私は男の子の手を取ってその場に再びしゃがみ込む。血を垂らしていた双葉を指差す。
「これ、知ってる?」
 私の言葉に、男の子は不思議そうに顔を横に振る。当たり前だ、私だって何なのか知らない。名前も知らないただの雑草だ。だが私は、でしょー? と笑顔で自慢する。何を言おうというのか、私は。
 結局何も思いつかず、私は仕方なくそれっぽい単語を喉から捻り出した。
「これはね、幸せの木」
 男の子は不思議そうに首を傾げる。一度口を開いた勢いを殺さぬよう、私は続けて嘘を並べ立てた。
「そう、幸せの木。他の植物と違ってお水だと育たない......人の血を、人の幸せをもらって育つ木。そして大きくなったら、育つ時にもらった何倍もの幸せを、周りにいる人達に返してくれるんだって」
「周りの人が、みんな幸せになる木.....」
 男の子は首を傾げたままだ。それはそう。こんな話、幼稚園の子供でも信じるかどうか怪しい。相手が友人だったら大爆笑されるか病院を勧められているだろう。
 母親相手なら、いつものあの『可哀想な子』扱いの表情を浮かべるだけだろうが。
「君も、一緒に育ててみる? 今からお願いしながら育てれば、木が大きくなった時にそれを叶えてくれるかもしれないよ?」
 笑顔のまま、私は勢いでそう言い終えた。万事休す。男の子は私から顔を逸らして、双葉に視線を落とした。
 大声とか上げられたらどうしよう、冤罪でも犯罪者扱いになってしまうのだろうか。そもそもこんな場所でこんな時間に小学生に話しかけたこと自体、罪になるのだろうか。
 目まぐるしく悩む私を見ることなく、男の子はまたしばらく沈黙し、それから言った。
「......この木が大きくなったら、もうお父さんは僕を怒ったりしないかな? 怒鳴ったり叩いたりしないようにってお願い、聞いてくれるかな」
 私ははっとして目を見張る。男の子は顔を上げず、ただ血に濡れた双葉を眺め続けている。
 下を向いたその首筋に、消えかけた痣の痕があった。よく見れば、彼の痩せ方は尋常ではなかった。華奢を通り越している。つまり......『日常的に父親から暴力や食事を摂らせない等の虐待を受けている』のだ。
 下唇を噛み、私はしばらく黙って考える。
 私と同じように、親に問題を抱えて。
 でも私よりもずっと、身体的に辛いことをされている子。
 この子に比べれば、私の家庭環境なんて、ぬるま湯みたいなものだろう。......私が辛いことに、変わりはないのだけれど。
 似た立場のせいか。彼は違う形で産まれた自分自身、そんな気がして。心臓が強く痛んだ。どうしても彼を支えたくて仕方なくなった。
『これからここで彼の話し相手になって、彼を支える立場の人間になりたい』、そう考えて私は、彼の存在を今日死なないための口実にした。
「きっと叶うよ」
 彼に対してそう呟きながら、私はちらりと時計を見る。思ったより時間が経過していた。......残念だけれど、そろそろ帰宅しないと流石にまずい時間だった。翌日に響く。
 翌日に響く、なんて。今日一日中、考えもしない事だったのに。彼のおかげで思い出した。
 男の子は少し驚いたような、嬉しそうなような、感情の入り混じった複雑な顔で私を見ていた。
 これからの事を考えながら、私は立ち上がった。彼の痣に気づかない振りをしたままで。
「私、もう帰らなくちゃ。君もそろそろお家に帰りな。遅くなるとまたお父さんに怒られるでしょ?」
 血の跡のついた左の手のひらを、彼に向けて振る。男の子は頷き、黙ったまま私をじっと見ていた。
 最後に微笑んで、私は先ほど登ってきたばかりの石段に向かう。男の子は私が視線を外すまで、ずっと私の目を見ていた。寂しそうな、沼のような......死のうと決めたばかりの、今朝の私のような瞳で。
「また明日、これくらいの時間に待ってるね」
 建物を周り、石段を降りる。
 明日、彼が来る前に『幸せの木』を準備しておかないと。何か植物を買って、少しだけ顔を出すくらいに埋めておくのだ。
 それから、お世話のための道具も買っておかなきゃ。水道はないから、ペットボトルに水を入れて持って行くとして......やる事が増える。彼のために。これから、忙しくなる。また明日、彼に会える。私が他人を支える人であれる。
 それだけで、心が穏やかになった。明日が楽しみだと、久しぶりに思うことができた。母親の事を考えずに済んだ。
 彼は知る由もないけれど。それだけでこの先、しばらく生きていようと思えた。
『実は、あなたは命の恩人なんだよ』なんて言える機会は、恐らくないだろうけれど。

 忘れないように左腕に残った血の跡を拭き取り、ガーゼを当てて包帯を巻く。ブレザーの袖で隠せば、私のその傷に気づく人は誰もいない。
「寒いな」
 呟く。煌々としたコンビニの灯りが、誘蛾灯のように私を誘った。少し温まったらすぐ出るから......そう自分に言い訳しながら、自動ドアをくぐる。
「いらっしゃいませぇー」
 夜のコンビニ特有の、力の入り過ぎない店員の声が私を出迎えた。
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