十二月二十日/ビーカーの中身

文字数 3,360文字

「.......別に、騙すつもりじゃなかったの」
 長い沈黙の後、お姉さんが口を開く。
 固まった顔のままで。でももう分かる。お姉さんは笑っているわけじゃない。今も、もしかしたらこれまでずっと。
「ただ、人工観葉植物を君にお世話させてしまったこと...こんな事につき合わせてしまったのは、申し訳ないと思う。本当に、ごめんなさい」
 噛んだ下唇が、白く染まっていた。
 あの瞳で。
 不安そうな、不幸そうな。
 僕のせいで、そんな顔をしていた。
 奥歯を噛み締める。怒りでこめかみがギリギリと痛む。自分でも何にそんなに怒っているのかはわからない。ただ頭が沸騰しそうなくらいに熱くて、苦しくて。
 思わず僕はお姉さんの両肩を掴んでいた。
「何でだよ.......」
 殴られるのかと思ったのか、お姉さんは怯えたように僕を見る。--お父さんに叩かれる直前の、僕みたいに。
 まるで僕が、お父さんになったみたいだ。

 心が急に、たまらなくなった。
 近づいたお姉さんの目を見るのが苦しくて。
 寒そうに佇む幸せの木を見るのが苦しくて。
 苛立ちから掴みかかった僕自身が苦しくて。
 肺の空気を、全部吐き出す。その勢いで、僕は叫んだ。
「なんで幸せの木の隣にいるのに、そんな不幸そうな目をするんだよ!」
 はっとお姉さんが目を見開く。
 僕は立ち上がり、踵を返して走り出した。勢いを殺さず、石段を駆け降りる。
もう見ていたくなかった。だって僕は幸せだったのだ。
 この一週間、お姉さんと幸せの木のお世話ができたことが。笑いながら話せたことが。
 話している間、お姉さんも幸せそうだったことが。嬉しかった。
 幸せの木が偽物だったなんて、正直言ってどうでも良かった。
 ただ、お姉さんがここに来て手首を切りたかっただけだって事が。一緒にいても、辛くて不幸なままだった事が。幸せだったのば僕だけだった事が。悔しくて、悲しくて、許せなかった。
 僕を許せないのか、お姉さんが許せないのかは、自分でもわからなかったけれど。
 背後から音は聞こえない。お姉さんは、追ってはこなかった。
 一瞬振り返った後、僕は家に向かって走り続ける。こんな短い距離なのに、息が上がって、心臓の鼓動が暴れすぎて胸が苦しくなる。
 みっともなく口呼吸をして、溢れてくる涙を袖で拭いながら、僕は冬の暗い路地を進む。
 薄く明るい街灯が、可哀想な動物を見るように僕を照らしていた。

「どこに行ってたんだお前!」
 玄関を開けると、鬼のような形相でお父さんが待っていた。ビクリと僕は腕を止めるが、お父さんは僕の腕を掴んで無理やり玄関に引きずり込む。その後に強く僕を突き飛ばした。締まりかけの玄関のドアに、思い切り背中が叩きつけられる。
 胸ぐらを掴まれる。左頬に走る灼熱感。視界がぶれて、次に赤く染まった。
 顔を殴られるのは久々な気がするな、ぼんやりとそう思った。
「勝手にどっかで金使ってきたんじゃねえだろうな!? この馬鹿野郎が! 今日も不味くて安い弁当買ってきやがって! 釣りをちょろまかして勝手に使ってるんだろ! 俺は気づいてるからな!」
 そのままずるずると引きずられる。部屋が汚れるといけないので、少し嫌がるふりをしながら靴を脱ぎ、足を振って玄関に落とす。
 後できちんと並べておこう。
 
 居間、テレビの前に引きずられる。投げるように床に転がされて、上にお父さんがのしかかってきた。
 頬、肩、胸が拳で殴られて軋んだ音を立てる。
 痛くはあった。けれど大した事じゃなかった。
 この一週間が特別穏やかだっただけで、僕の人生ではずっと当たり前だった事だ。
 ただ上に乗っているお父さんの体が重くて、そして激しく動いているせいか熱くて、その熱に対しての不快感はあった。
 突如、息が苦しくなる。お父さんが右手で僕の首を絞めながら、左手で僕の上着を捲り上げる。呼吸を求めて、僕は両手でお父さんの右手を掴む。口を開け、ぜいぜいと喘ぐ。
 そんな僕の顔に、お父さんの顔が近づく。身体で肺が押されて、口から漏れた空気のせいで何かがひしゃげるような声が出た。
 一瞬、全力で対抗しようかと思った。噛みついたり、とか。
 でも。すぐに思い出した。髪を染められた時。身体に絵を描かれた時。結局何をしても無駄なのだ。泣き叫ぼうが暴れようが、ただ痛い時間が長引くだけで。何も結果は変わらない。
 僕の体から力が抜ける。手も足も、もう動かない。
 口の中に、ひどく苦い味が広がった。嗅ぎ慣れたタバコと、お酒の匂い。

 ......。

 叩かれるよりは痛くないけれど、苦しさと不快感があった。
 何だか凄く、強い疲労を感じる。僕は目を閉じて、いつものように頭の中で教科書を読もうとする。
 でも思い浮かんでくるのは、先ほど見たお姉さんの顔ばかりだった。

 熱い、湿った感覚。
 唸り声が聞こえる。

 お父さんと僕は、好きって気持ちを交換していた。
 でも、お父さんは僕じゃない人の名前を呼んでいる。だからきっと、お父さんは僕のことが好きなわけじゃない。
 僕も目を閉じて、お姉さんの事を考えているから、おあいこだ。
 もしかしたら僕も、お父さんを好きじゃないのかもしれなかった。

 こんないつもの日常に戻って、思う。
 本当に、何でさっき怒ってしまったんだろう。
 木が偽物だなんてこと、言わなければ良かった。知らないふりをして、ずっと続ければ良かった。
 だって本当に、楽しかったのだから。
 もうお姉さんを傷つけてしまったから、会うことはできないけれど。
 この一週間を思う。キラキラして、ドキドキして、ワクワクして。明日が楽しみだった日々。

「僕がもっと、ちゃんと優しかったら良かったのに」
 思わずポツリと声が漏れる。お父さんが一瞬訝しそうな顔をした。僕は何も反応せず、再び思考の海に潜る。
 
 ひどく辛い時、僕は理科の実験を思い出す。
 無機質なビーカーの中、ガラス棒で掻き回されているような気分だから。
 泥ついた黒い液体の中で、窒息したまま僕はくるくると回る。
 ガラス棒を操る大きい影は、喜ぶでもなく、悲しむでもなく。ただ無機質な瞳で、淡々とその実験を--ビーカーの中身を見ている。僕がどうなるのか、ただじっと。
 僕も何か抵抗するわけでもなくて。内臓とか、心とか、僕の中身が黒い液体で侵されていくのを感じながら、ぼんやりと影を見返している。

 別に夢に見たとかじゃない。
 物語で読んだわけでもない。
 でも何故か、ひどく絶望した時。
 僕の頭に浮かぶのは、そんな情景だった。

 早く僕の心も、身体も、全部。
 黒い液体に溶けきって、何も感じなくなれば良いのに。

 僕は酷い奴だ。
 あんな事をしてしまったのに、
 今すぐにでも、お姉さんに会いたかった。

 目を開ける。少し気絶してしまっていたようだった。やや高めに設定されたエアコンの暖気の中、お父さんは下着だけで布団の上に横たわっていた。既に眠りの中だ。
 口の中がねばねばする。シンクに吐き出して、吐き出した唾液を洗い流す。もう一度お父さんを見て、熟睡している事を確認すると、僕はお風呂場に入る。
 今なら大丈夫だろう。シャワーからお湯を弱く出しながら、僕は石鹸で身体をよく洗い流した。お父さんの汗や、薄く滲んだ血等が、泡に混じって流れていく。髪の毛もゴシゴシと擦ってからシャワーで流す。
 最後にお風呂場を丁寧に流すと、僕は出てタオルで身体を拭いた。今度は歯ブラシで口内を清める。いつもの倍くらい時間をかけて、しっかり磨いた。
 泡を吐き出す。コップの水ですすぐ。
 身体も口の中も洗い終えた。けれど。
 右手で口と鼻を覆い、息を吐く。微かなタバコとアルコールの匂い。
 手を首の後ろに回し、軽く髪を揺らす。取れないお父さんの汗の匂いがした。
 お似合いの匂いかもしれなかった。大人になったら、僕も常にこんな匂いがするのかもしれないんだから。
 同じ事を繰り返すのかもしれないんだから。

 不意に膝が震える。立っていられなくて、僕は両足を抱え込んで座る。寒さのせいだろうか。全身の震えを、自分で身体を抱きしめて必死に止めようと頑張った。
「おかあさん」
 ふと理由もなく、もう二度と会えない人を呼んだ。
 開けた口に流れ込んだ液体が、塩辛くて嫌だった。
 しばらくそのままで、僕は泣いた。

 
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