十二月十八日/幸せの木の横で

文字数 2,056文字

 僕が辿り着くと、お姉さんは丁度、幸せの木に血をあげようとしていた時だった。僕の足音を聞き、お姉さんは顔を上げる。
「あ、こんばんは。ちょっと待ってね、今幸せをあげちゃう所だから」
「......、うん」
 いつも通りにっこりと笑うと、お姉さんは取り出した剃刀を腕に当て、躊躇いなく引いた。
 本当は目を背けたかった。けれど、お姉さんは僕が怖くて出来ないことをやってくれている。逃げちゃだめだ、と僕は視線を向けたままにする。
 お姉さんは大して痛そうにもせず、笑顔のままで流れる血を幸せの木に与えた。血の滴が地面に吸い込まれていく。お姉さんは右手の剃刀を仕舞うと、血が出やすいように左腕の肘の内側をぎゅっと握った。
 僕はお姉さんの隣に座る。一日空いたせいか、幸せの木は物凄く成長しているように見えた。初めて見た時には近くの雑草と変わらない、単なる双葉にしか見えなかったのに。
「大きくなったね、きっとお姉さんからたくさん幸せを貰ったからだね」
 木を見つめたまま、僕はお姉さんに言う。血を流しながら、お姉さんは首を振った。
「それだけじゃないわ。君が心を込めてお世話をしてくれてるからよ。木も人と同じ。相手が自分のために頑張ってくれたら、自分も相手のために頑張ろうって思うのよ」
「......うん、そうだね。良かった」
 その言葉で、僕はとても安心した。安心しすぎて、薄く目に涙が滲む。そんな僕に気づいているのかいないのか、お姉さんは変わらない口調で僕に聞いた。
「昨日は来なかったけど、やっぱり雨だったから?」
 問われて僕は少し迷う。クラスメイトと同じく、誤魔化すべきだろうか...。けれど、お姉さんは僕のお父さんが僕を叩いている事を知っている。
 気持ちが安心して気が緩んでいるのもあって、僕は正直に話すことに決めた。
「昨日は、お父さんがずっと家に居たんだ。機嫌も凄く悪くて、出かけられなかった。ごめんね、お世話しに来れなくて」
 僕は額の傷を指差す。お姉さんはそれを見て、すっと目を細めた。
 睨むような、怒ったような。お姉さんと出会ってから今までで、そんな表情を浮かべるのは初めてだった。
 けれど、すぐに優しげな笑顔に戻る。左腕を消毒して血を拭くと、右手だけで器用にガーゼと包帯を巻き、その後左手で僕の額に軽く手を当ててくれる。傷口には触れないように、慎重に。
「辛かったでしょう。私こそごめんね」
 そんなことはなかった。お父さんが不機嫌なのは当たり前だ。昨日思った通り、単なる日常だ。叩かれるのも、怪我するのも。もう慣れている。
 辛いことなんて何もない。
 なのに。
「......ぐっ、うっ」
 奥歯を噛み締めて嗚咽を殺す。
 何故か、涙が溢れて止まらなかった。

 辛いなんて思いたくなかった。でもダメだった。嬉しいことを思い出すと。
 浅ましいけど比べてしまうのだ。今と、お父さんと一緒にいる時を。
 叩かれるのは、痛いことは、寂しいことは、嫌だと思ってしまう。
 そんな僕の心なんて、ずっと消してきたはずなのに。

 お姉さんも、クラスメイトも、こんなに優しくて。
 話していて、一緒に居て、嬉しいと思うのに。
 どうしてお父さんといる時は、こんな気持ちになれないんだろう。

 「......お父さんが、僕の事もっと好きだったらいいのに」
 お姉さんは、涙と鼻水で汚れた僕の顔を見ないでいてくれた。
 ただ、右手でずっと背中をさすってくれていた。

 雨ではなかったけど、冬の夜の風はやっぱり冷たくて。
 でも背中と胸の奥だけは、少し暖かい気がした。

 落ち着いた後、僕たちは木のお世話をしながら、いつものように雑談をした。僕が今日もクラスメイトと話せたことや、正直には言えなかったけれど心配してくれたことを話すと、お姉さんはまた自分の事のように喜んでくれた。
「あら、良かったじゃない! 『 草も木も なびくとぞ聞く この頃の 世を秋風と 嘆かざらなむ 』。周りの目があって言いにくいかもしれないけれど、きっと同じように君のことを心配してくれてる人は他にもいるわ」
 嘘でなく、心の底から思っているであろう言い方だった。疑いもなくそう言えるお姉さんが、少し羨ましかった。それは僕の方が人を疑えるという意味ではなくて、お姉さんもその周りの人達も、互いが互いの事を思いあっているからこそ口にできる言葉だからだ。
 僕も、そんな言葉をかけられる人間になりたいと思う。現実は違っても。
「......いいなぁ、お姉さんは。きっと、お姉さんのお父さんとお母さんも優しい人なんだね」
 ぽつりと僕はこぼす。不平のような、それは羨望の言葉で。お姉さんは照れたのか、少し眉を寄せて唸る。その後へへへ、と頬を緩ませて笑うと、
「まー、うん、そうね。周りの人は優しいかも。友達は変な子とか多いけどね」
 と、少し困ったように言った。
 僕も笑うと、
「何だそれ」
 と、軽口をお姉さんに返せた。
 それくらいには、元気になれた夜だった。
 人前で泣いて気持ちを吐き出せるって、幸せなことだ。一つ学べた。
 
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