3月20日/大きな幸せの木の下で

文字数 946文字

「ふーん、じゃあもう帰ってこないでね」
 それが、私が聞いた最後の母の言葉だった。
 上京することも、進学しないことも、夢を追うことも。母親にとってはどうでも良いことだった。そして、それでいいと思った。

 諸々の手続きはもう済ませ、既に大きな荷物は新居に送ってある。持っていくのはスーツケース一つと、原稿データの入っているノートパソコン。そして先月出版したばかりの、私のデビュー作。
 ガラガラと音を立てながら、私は駅に向かって歩いていく。
 途中、あの神社の石段前を通る。ここを上がれば、すっかり綺麗になって大きくなった本殿が見えるだろう。『さすがに危ないから』と、昨年の春から工事が入っていたのだ。
 私とあの男の子が幸せの木を育てていた場所も、整備されて綺麗に石畳で覆われていた。
 ――今は思い出の中にしかない幸せの木を思った後、再び私は歩き出した。
 電車を乗り継いで、新居に向かうために。
 物件は担当の方が見つけてくれていた。もちろん作品を一つ書いただけで生きていけるわけじゃない。家賃や生活費を払うために、お世話になっている出版社で働きながら作品を書く手はずになっている。いつか、書くだけで生きていけるように努力しながら。

 先のことはわからない。もしかしたら売れずに筆を折ることになるかもしれない。収入が足りなくて別の仕事を探すことになるかもしれないし、結局生活できず戻ってくる羽目になるかもしれない。
 けれど。母親の事で苦しみ、それを抱えて生きていくのはもうやめた。
 血は繋がっていても、私と彼女は違う人間だ。
 交わることはあっても、同じ人生を歩んでいくわけじゃない。
 
 あの子が桜の木を――自分の幸せの木としたように。
 私も私の幸せの木を見つけて、育んでいこうと思う。
 嘘で塗り固めた、あの人工観葉植物ではなくて。
 
 人気のない、夜の駅のホーム。椅子に座って、数分後に来る電車を待つ。
 心臓が高鳴る。もう少しで、私はここを離れる。

 次に、あの男の子に会う時までに――
 次に、私の友達に会うまでに。
 努力しよう。彼の見つけた幸せに、負けないくらい。
 生きていこう。彼が助けて支えてくれた、私自身のために。
 
 そして、必ず笑顔で会おう。
 互いに生きて、見つけて、育てた。
 大きな幸せの木の下で。
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