12月20日/ゴミ箱の中身

文字数 4,050文字

 30分ほどだろうか。ただ、私はあの子が消えていった先を眺めていた。
 寒さのせいで、沁みる左手の傷口を服の上から握る。
 私なんかに、あの子を追う資格は無かった。私なんかに、あの子を慰めて励ます資格は無かった。
 あの子の置いていった人工観葉植物と、私の持ってきた道具と袋を抱えて私は立ち上がる。寄り道せず、今日はまっすぐ帰ろうと決めた。

 家に辿り着き、鍵を開ける。
 玄関先は、『母の友人』の靴で一杯だった。思わずため息が出る。我ながらイライラとした乱暴な手つきで、私は並んだ靴を全て空の下駄箱に仕舞った。廊下の奥からはパーティー時特有の大きめのテレビの音と、時間を考えない母の笑い声が聞こえてくる。
 無意識に大きくため息をつく。室内スリッパを履いて、私はリビングに進んだ。
「あら、おかえりー」
 ドアを開けた私を見て、母は上機嫌そうに微笑んだ。アルコール臭の混ざる、強い紅茶と焼き菓子の匂い。テーブルに広げられたいくつものお菓子と、たくさんのカップ。
「ごめんなさい、今日も話が弾んじゃって、ねぇ?」
 母は彼女の友人に語りかける。友人は薄っぺらい画面の中で笑顔のまま、
『そうなんです! うわー、美味しそう! 驚く事にこの並べられた限定スイーツ、時間いっぱいまで食べ放題なんです!』
 と、ニコニコと最近都心にできたお店の紹介を話す。その言葉を聞いて母は、
「やあねぇ、娘が帰ってきたんだからあなたも挨拶してよぉ」
 と友人に.....テレビの中のアナウンサーに、話しかけていた。
 部屋には私と母しかいない。彼女はいつも通り、私が帰ってくるまでは一人で会話していたのだ。
 自分で『友人の靴』を下駄箱から出して並べて。ティーカップを並べ、焼き菓子を焼き。一人で楽しく、パーティーを楽しんでいた。
 彼女の中で、テレビの人物は親友だ。何故なのか理由を問うた事もあったが、その理由は私には理解できない意味不明なものだった。
 母曰く。彼とは長年恋人である。いつも画面越しの言葉で愛を囁いてくれる。
 彼は実は瞬間移動の能力を持っていて、私の居ない間にこの家にも来ている。以前はその力で生計を立てていたし、その力で痴漢をしていた事もあった。それは叱って母が止めた。
 本当は去年、結婚する筈だった。けれど彼が奥さんと別れられなくて無理だった。奥さんは彼の能力を使って贅沢三昧をしている。悪い奴だからきっとすぐ逮捕されて、そうしたら正式に私達は結婚できる。
 結婚したらすぐにでも彼のお金で都心の高級マンションに住むから、私も友達にお別れを言っておいて欲しい。いつ引っ越しても良いように荷物もまとめておいて欲しい。
 他の友達はさっきまで居たけれど、私が帰ってくる直前に帰ってしまった。焼き菓子が出しっぱなしのはその為だ。
 
 当たり前のように母は、昔から私に言う。
 小さい頃は信じていた。そして、何度も何度も友達にお別れを言った。引っ越し先は素晴らしい場所だと聞いていたし、お金持ちの家のお嬢様になれるなんて楽しみだった。
 もちろん、そんな日は来なかった。
 私は学校で嘘つき呼ばわりされ、一時期いじめを受けた。
 
 中学生になって、私は母の言葉を信じるのをやめた。母の妄想が酷くなり、父は居なくなった。親戚も付き合いきれないと距離を取るようになった。母は場所を転々としながらパートで働き続けていたが、時折り急に発作のように
「美術館で会った人が遺産の二億円をくれるって言ったの! もう仕事辞めるね! 毎日ちゃんと銀行に入ってるか見てくるわ!」
 と言って退職していた。そのせいで、私からも察せれるほどに生活の水準は落ちていった。
 
 母には何度も話した。もうそんな妄想を話すのはやめてほしい。しっかり精神科に行って治療をして欲しい。遺産を貰えるなら、実際に入ってから仕事をやめてほしい。辛いから、頼むから私の前で報道番組相手に話さないで欲しい。
 けれど、母は聞かなかった。
「何!? 私がおかしいって言うの!? 私の子供のくせに何てこと言うのよ!」
 そして私を『可哀想』な人のように見る。
 まるで私がおかしいみたいに。
 母から見れば、その通りなのだ。おかしいのは周りで、自分だけが正しい。
 ......もしかしたら、本人も本当は気づいているのかもしれない。外――職場や私の学校では、母は妄想の話をおくびにも出さない。
 母がこんな状態である事を知っているのは、私ともういない父親、そして実質的に縁を切った親戚だけだ。
 
 ため息をついて、私は出されている焼き菓子を仕舞おうとする。瞬間、母が激昂した。
「ねえちょっとやめて! お母さんの友達のなんだから、それ!」
 普段通りの反応だった。いつもなら私も我慢できた。どうでもいい。どうせ後で『友達が残したからあんた全部食べといて、捨てたらもったいないから』と押し付けられるだけだ。
 けれど今日は、私が普段通りではなかった。
 顔が火のように熱い。視覚が赤く染まり、頭がガンガンと痛んだ。私はゴミ箱を引き寄せ、広げられたお菓子類を乱暴に中に捨てていく。母は慌てて私に駆け寄り、その手を握って止めた。
「なにすんの、あんた!」
 うるさい。両手を大きく振って、私は母の手を払う。
「何じゃないでしょ! 捨ててんの! 前からそうでしょ!? このお菓子、誰か食べた事あった!? 遺産が入った事、あるの? 見なさいよこの部屋! こんな安アパートに来るハメになったのは誰のせいなの!?」
 私は怒鳴り散らす。その声は、ああ。
 悲しいくらい、母のそれに似ていた。
「お願いだから精神科に行って! それが無理ならもうこんなパーティーの真似しないで! 辛いの、私が!」
 別に悲しくはないけど、何故か涙が溢れてくる。何でこんな母親のために泣かなければいけないんだ、と。自分自身が悔しかった。
 母は無言になると、す、と目を細める。
 そしてじっと私を見た。叱るでもなく、止めるでもなく。けれど何を思っているのかはわかる。言われたことも、親戚に話しているのを聞いたこともあるから。
『あの子はおかしい。私のことを病気だと妄想して決めつけている。本当に可哀想。だけど私は母親だから、あの子が辛くないように支えていくわ』
 自分自身に酔った声で。その立場を演じることを本当に楽しそうに、母は言っていた。
 
 母を突き飛ばす。よろめいた母の横を通って、私は自分の部屋に駆け込んで鍵をかける。扉越しに母のため息と、カチャカチャと皿を片付けている音が聞こえた。

 乱暴に持っていた荷物を床に放り出す。中からいつものカミソリを取り出す。本当に、本当に、全部が馬鹿馬鹿しかった。
 ベッドの横にあるゴミ箱の上で、私は腕にカミソリを滑らせる。滲み、流れる私の血液。
 あんな母親の遺伝子を継いだ、汚い私の血液。
 雑巾を絞るように腕を握る。少し体が寒くなる。こんな事で死ねないのは百も承知だった。けれどやらなければ耐えられなかった。
 この家と、母親と、自分自身に。
 母親の事は、何度も他人に相談していた。
 保健室の先生は言っていた。
「いつでも話してね、聞くことしかできないけど...」
 役所の人は言っていた。
「お母さんを病院に連れて行くのが一番だと思います。あとは、保健所に相談してみたらどうですか?」
 保健所の人は言っていた。
「家に伺う事はできます。なので、私達が行っても追い出されたりしないように、お母さんを説得してもらえますか?」
 相談所の人は言っていた。
「叩かれたり、食事を貰えない等はありましたか? 明確な虐待の証拠がないと、我々としても動くのが難しいんですよ」
 そして、それぞれ皆こう言って終わった。
「もし、暴行を受けたり命の危険があったらすぐに言ってください。いつでもあなたを助けますから」
 そう。結局。
 事件になるまで、何もできないということ。
 証拠がない以上、反抗期の私がただ母を貶めるために言っている虚言の可能性もあるから。
『子供を助けるのが仕事』という立場の大人達は、結局誰も私を助けてはくれなかった。
 私があの子の為に施設に連絡を取らなかったのも、それが理由だった。あの子に対する虐待が強まるのではないか、なんて後付けの理由で。
 ただ、私が大人を信用できてないだけ。
 私の時と同じように、どうせ助けてはくれないのだろうとたかを括っているだけ。

「うっ...、」
 ひどい頭痛のせいか、吐き気に襲われる。血まみれになったゴミ箱の中に、更に私は嘔吐した。黄色い液体が血と混ざり合う。血の生臭さと吐瀉物の独特の匂いも入り混じり、ゴミ箱はひどい有様だった。
 まるで私の心みたいだ。
 私は別にあの子が救いたくて、一緒に木を育てていたわけじゃない。
 ただ、私より酷い虐待を受けているあの子を救う事で、今の私の状況から目を逸らしたかっただけだ。
 優しく満たされた人を演じたかった。
 他人を助けているのだから、あの子より自分は上等だと思い込みたかった。
 母親から逃げたいが為に、進学を捨てて上京したい自分自身。『夢のため』と言い訳をする私の醜さから、目を逸らしたかった。
 善意なんて欠片もない。あの子より酷く幼い、我儘な精神性で。
『優しく、頭のおかしな娘に対しても穏やかに接する良き母』に浸るために、形だけは私に優しくする母と同じで。
『虐待をされている子を励ますために、嘘をついてでも一緒に居る優しい人間』を演じて自己満足するためだけに、私はあの子に優しくした。
 この世で一番母親を憎んでいるくせに。
 そんな自分自身が悔しくて、憎くて、私は奥歯を噛み締める。だらだらと唾液が零れ落ちる。
 血と吐瀉物と唾液の混ざり合った、私自身のようなゴミ箱を見つめながら。私は左手を絞って血を流し続けた。
「......お父さん、.........」
 もう生死すらわからず、会うことも助けてくれることもない人の名前を呼ぶ。
 酷く無意味で空虚な言葉を呟く惨めさに、私は自分に絶望して泣いた。
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