ある優しい男の結末

文字数 4,622文字

 思えば、昨夜からずっと最悪だった。
 帰ってもあのガキはいなくて、洗濯物は干しっぱなし、弁当も酒も買ってきていない。奴が帰ってきたら絶対に■ってやろうと思いながら、仕方なく自分でコンビニまで行って弁当と酒を買ってきた。店員の目がいちいち気に食わない。最近始まったセルフレジってやつも実に面倒だ。金を払ってやってるんだから会計も全部やってくれ。画面の押す場所もわかりにくくてイライラする。
 帰ってきて飯を食って酒を飲んで寝た。洗濯物は明日、ガキが帰ってきたらやらせようと思った。どこに行っているのか知らないが、今回は顔だけじゃ済まさない。
 俺が優しい父親だからって調子に乗りやがって。■してやる。
 
 そして気持ちよく寝ていると、昼前に男と女の二人組がやってきた。寝ぼけている俺の目の前に名刺を突き出し、『虐待の通報があった、室内を確かめさせてほしい』なんて言いやがった。
 怒鳴りつけてやろうかとも思ったが、名刺に書かれた肩書に俺を口を噤んだ。
 役所から直々に来ているらしい。騒ぐと面倒なことになりかねんと、仕方なく俺は室内に通した。どうせパッと見て帰るんだろうと。
 入った二人は揃って顔をしかめていた。女の方は床に転がったDVDを見て汚物でも見るように顔をしかめている。嫌なババアだ。殴りつけてやろうか。
「何もないなら早く帰ってもらえませんかね、これから仕事なんで」
 俺の精一杯の嫌味も聞かず、二人はガキの部屋の様子を見て何事か話していた。『環境が』『やはりあちらにも連絡を』『あの女子高生の言ったとおりだった』なんて、訳のわからん話をしていた。■してやろうか。
 十分ほど室内をうろついた後、「お子様は一時的にお預かりしています。後ほど連絡を差し上げますので、今日はこれで失礼します」などと抜かして二人組は帰っていった。礼の一つも言わずに。図に乗りやがって。俺が優しいからって、何をしても怒らないと勝手に思っているのだろう。
 頭に来たので、転がっているDVDを一つ選んでテレビで再生する。メインで出ている女が、さっきのババアに少し似ているものだ。男たちに女が暴行されて凌辱されている様を眺めて、仕方なく俺は留飲を下げた。

 二時間ほどたった後。突然電話がかかってきた。兄貴からだった。
 兄貴といっても別に血の繋がりがあるわけじゃない。俺の居る組織の上の立場の男で、同時に、俺が努めている事になっているペーパーカンパニーの上司だ。
 出ると、兄貴はだいぶ慌てた様子ですぐに荷物を纏めるように俺に怒鳴った。 
 混乱した俺は理由を問う。俺のガキが『虐待を受けている』と訴えたせいで、明日までに本格的に役所の人間が俺の家に乗り込んでくるらしい。さっきの二人組は状況確認のための斥侯だったわけだ。
 そしてそれを口実に、家探しが行われる。そうなればこの家にある、『見られるとやばいもの』が表沙汰になる。――当然、警察も介入してくる。今まである程度見逃してもらっていた件に関しても、警察は動かざるを得ない。組織全体が非常にまずいことになる。
 捨てられるものは捨てろ、粉やその他のやばいものはトイレに流せ、処分できないものと最低限の荷物だけ持って合流場所に来い。そう言って兄貴は電話を切った。
「な……にやってんだクソガキィ!!!」
 思わず近くにあったゴミ箱を蹴り飛ばした。
 あのガキ、育ててやった恩を仇で返しやがった。絶対に許せない。
 ■してやる。たっぷり■してから■してやる。
 この前■してやった時も、喜んでたくせに。
 あいつのためにいくらかかったと思ってる。腕に入れてやった墨もいくらかかったと思ってる。子供だけ産んでさっさと死んだあいつの母親、あのクソ女と同じで本当に自分勝手だ。
 こうなる前に早く売り飛ばせばよかった。兄貴の知り合いならガキを買いたがってる奴くらい居るだろう。そうだ。そうするべきだった。
 優しい俺が、自分で抱えたのがまずかった。
 良い人間はいつも貧乏くじを引く。
 とにかくゴミ袋を広げて、服もゴミもなく適当に詰め込む。途中で見つけた、証拠になりそうなものだけ別の袋に突っ込んだ。久々の掃除と焦燥感のせいで嫌な汗が流れてくる。手が震えて仕分けが難しい。苛立ちから途中何度も冷蔵庫を開け、強い酒をあおった。
 粉をトイレに流す。が、上に溜まってなかなか流れていかない。
 ああ、イライラする、イライラする、イライラする!!!
 顔が熱い。何度も何度も便器の横の取っ手を捻る。ちょろちょろと人を煽るように、ゆっくりとしか水はたまらない。
 埒が明かないと、俺は再び荷物の仕分けに戻る。俺をあざ笑うように、窓の外の夕日は凄まじいスピードで消えていく。
 どんどん暗くなる。手元がおぼつかない。
 灯りをつける。また酒を飲む。
 こんなところで俺は終わらない。今のこんな……しょうもないブツの運び屋なんかでは終わらない。
 組織でもっと上に行く。あんなガキは捨てて、もっともっと金持ちになって、股間が擦り切れるほど良い女を抱く。そうだ、もう人に優しくするのはやめだ。俺はもっと自分勝手になっていいはずだ。
 そして偉くなったら、いつかあのガキを見つけ出して■してやる!

 ピンポーン。
 真紅に染まった頭に冷水をかけるような、間抜けな音が響いた。
「……やべぇ」
 もう、来たのか。いくら何でも早すぎる。役所の人間って、こんな夜に来るものなのか……?
 恐る恐る俺はドアに近づく。インターフォン越しに相手を確認すると、思わず安堵と怒りの混じりあったため息が出た。玄関を開ける。
「どーもー! えーやばぁ、散らかりすぎでしょー?」
 頭の悪そうな声で、入ってきた女は言った。兄貴の女の一人で、水商売で稼いでいるバカ女だった。
「どーもじゃねえよ、手伝えよ! お前はあっちのゴミな! 器具とかあれば俺に渡せ!」
 俺は指示を飛ばす。が、ぼんやりとした顔で女は立ちすくんだままだった。派手に染めた髪の先を、指でくるくると弄んでいる。空気読めよ■してやろうかこのブス。
「早くしろよ時間がねえんだよ! お前の男にも迷惑かかんだぞ!」
 怒鳴りつける。が、女は動かなかった。
 黒目がちな瞳で片づけをしている俺をじっと眺め、そして。
「いやアンタ、だって自分のせいでしょ、これ」
 と、鼻で笑いながら冷たく言った。
「……は?」
 予想外の言葉に、俺も手を止める。女は俺に近づいてこない。家に入ったそのままの場所、玄関の横で俺の事を見ている。
「あんた、自分の子供のこと舐めてたでしょ? 『どうせあいつには何もできない、殴れば話を聞く。だから俺は何をしてもいい』って。――まあ子供に対してだけじゃないけどね。誰に対してもそう。自分より下だと思った人間に対しては、いくらでも横柄な態度をとる。殴る、怒鳴るは当たり前。その癖、自分より上だって思った人間に対しては何も抵抗しない。小心者の典型よね」
 ……理解が、追いつかない。何を言ってるんだ、この女は。
 こんなタイミングで何を言ってる?
「役所の人間が来たとき、アンタ追い返したりしなかったでしょ? 怒鳴って追い返せばこんな早くに物事は進まなかったのに、肩書にビビって家にあげちゃった。だから虐待の証拠もばっちり見られたし、あろうことか商売道具に関しても知られた。そりゃあ警察だって動くわよ」
「は!? あの二人組、そんなことまでしてたのか!?」
 俺は驚いて目を見開く。女は顔を歪ませてため息をついた。
「呆れた……アンタその時何してたの? ぼーっと外でも見てたの? ばっちり違法行為の証拠は見られた挙句、粉が少し持って帰られてるの。どこに逃げようがあんたにこの先はないの」
 嘘だ、そんな――そんな。
 俺が何をしたって、嘘だ、ただガキ一人が騒いだだけで。
 そんな大ごとになるわけ、
「まあでも、ある程度証拠を纏めてもらえたみたいで良かったわ。『向こう』とも話はつけておいたけど、捜索する時にわざわざ家中漁らなくて済むし。運び屋くらいしかできない無能だったけど、最後は褒めてあげるわ。よくできましたぁー」
 誉め言葉だけはあの頭の悪そうな口調に戻して、パチパチと女は両手で手を叩いた。乾いた音が室内に響く。理解が追い付かないまま、俺は立ち上がる。
「何言ってんだ、何言ってんだお前!」
「まだわからない? わからないなら言ってあげる。あんたは一人で運び屋として捕まるの。『私たち』とは関係ない、使い捨てられた末端の人間としてね。無意味で長い取り調べとお勤め、勝手に頑張ってくればぁ?」
 けらけらと女は笑い、後ろ手で玄関を開ける。後ずさるようにして家から出て、俺から逃げようとする。
「ぉ、おぉ、おおおおおおおおお!!!!!!!」
 雄たけびを上げながら俺は女に向かって突進する。
 捨てられてたまるか。兄貴なら俺を助けてくれる。こんな女は関係ない。
 組織が俺のような有能な人間を捨てるはずない。
 まだだ、まだこの女を■して逃げれば、助かる。
 俺は終わったりしない。もっと金を、もっと女を、もっと幸せを、
 俺に見合った結末を、

「動くな! 警察だ!」
「助けてください! この人に乱暴されて、殺されそうなんです!」
 家から飛び出した途端、俺は警官に取り囲まれていた。女は俺から離れた場所で、婦警と一緒に立っている。目の前で光る、金色の警察のマーク。絶対なる肩書。俺が勝てないもの。
 体が竦む。固まって動かない俺の体を、引きずるようにしてパトカーに運ぶ警官たち。
 とっくに日は落ちていて。
 赤いランプだけが眩しかった。

 ああ、終わった。
 いつも俺は優しくて、人が良くて、損ばかりしてきたのに。
 そして周りの人間が全員無能で悪辣だったせいで、俺の人生は終わった。
 ■ね。一人残らず、■ねばいい。



 朝方の飲み屋街の路地は、ゴミと吐瀉物のすえた匂いがする。
「うんうん、平気だったー。『偶然』あの時間に近くまで来ていた警官に、『偶然』商売で来てた私が助けてもらったって流れで。警察と先に取引しといてよかったわ。うん、取り調べも形だけだからすぐ終わったんだけど、物騒だし朝まで休んでから帰りなって」
 派手に染めた髪の先を弄りながら、一人の女性が誰もいない路地を歩いていく。道の端にある解け残った雪の塊が、ひどく汚らしく固まっていた。
「えーでも、あいつが出てきたら私らをまた頼ってきたり、逆に文句言いに来たりしそうじゃない? お店の子を夜襲いに来るとかさぁー。ああいう『自分のせいじゃない』ってタイプって思い込み激しいからぁ」
 ふと目を向けると。道の端、ゴミ捨て場の横にカラスの死体が落ちている。「やだぁー」と小さく口で呟きながら、女性は死体を避けて通った。少し嬉しそうに、加虐心がそそられるとばかりに、孤独に果てたその躯を眺めながら。
「え、ふふふ……ちょっとそんな怖い人に頼まないでよぉ。えー、処分する場所とか大変でしょー? ふふっ、あんな奴のためにお金使うのもったいないじゃん」
 楽しげに、軽い足取りで女性は歩を進める。
 電話の主の元に向かって。
「ま、二度とあんな男と会わないで済むなら何でもいいけど。あいつ常に酒臭いし、無能なくせに態度でかくてほんと気持ち悪かったから。……じゃああと十分くらいで着くわ、またね」 
 電話を切る。
 同時に女性の中から、男の記憶は『過去』として綺麗に処分されて捨てられた。
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