12月16日/教室、帰宅
文字数 2,131文字
「やっば! ねえねえ英語のノート貸して! ねえねえねえねえ!!」
大声とともに私の方が強く叩かれる。振り返らずともわかる、友人の彩香の声だった。
私は大げさに溜息をつきながら、左手で机の中から英語のノートを取り出して背後の彩香に渡す。行儀悪く右手には箸を持ったままだけれど、彩香相手ならこの程度の扱いで十分だろう。
昼休みの教室に人は少ない。いつもの光景である。クラスメイトの半数以上は学食で済ませているようだ。私は自作の弁当をつつきながら、ぼんやりと今夜の準備のことを考えていた。ジョウロ、水、袋――昨日で木の周りの雑草はほとんど抜いてしまったから、今日は新しいお世話を考えておかないといけない。
「あんがとー、ちゃんと合ってるか不安だけど予習内容は写させてねー」
何故こんなにも上から目線の言葉が出てくるのだろうか。思わず私は目を細めて振り返り、彩香を睨んだ。が、そんなことは気にせず彩香はパラパラと私のノートを眺めている。私は再び溜息をつく。わざとらしく彩香に聞こえるように。
それを聞いて流石に私の気持ちを察したのか、彩香はノートから顔を上げて私の方を見ると、
「あ、そういやさぁ、二十四日にAクラスの友達と遊ぶんだけどさ。あんたも来る?」
陸上部と弓道部のカッコいい男子も来るんだけどぉ、と言いながらフヒヒヒと下卑た笑顔を彩香は浮かべる。どうやら私の気持ちを察してはいなかったようだった。
呆れながら私は彩香に背を向け、弁当の方に向き直る。箸を一度置き、焼いたベーコンと薄く切ったチーズを刺したお弁当用の小さな串を持ち上げた。
「……いいわよ私は。あんたとその友達で楽しんできて。私、別に今は男子との出会いとか求めてないから。好きになれそうな気にもなれないし」
串を口元に運んで咀嚼する。焼いたベーコンのパリパリした食感、そして冷えた油の香り。
――いけない。苛立ちのせいか、思わず本音が出てしまった。飲み込み終えると、私は再び彩香の方に向き直って笑顔を浮かべる。
「それにー! ちょっと二十四日の夜は予定があるから!」
正確には二十四日だけではなくて毎晩だけど。
あの子のことだ。放っておいたら深夜まで神社で待ちかねない。
あえて意味深な言い方をしたことで、彩香はテンションを上げて話に食いついてくる。
「ええー!? ずるくない!? 誰よ! 男!? ねえ聞いてないんだけど!」
「うーん、男かなぁ、どうかなぁ」
小学三年の男の子ですけどね。
「どんな人!? ねえどこに行く気なの! ねえ!」
「穏やかで可愛い人かなぁー。静かな場所で二人っきりで会おうかなってー」
吹きさらしの寂れた神社の裏手ですけどね。
「キェェェーーー! 滅せよ!」
怒りなのか興奮なのか抗議なのか、理解しかねる謎の奇声を上げながら、彩香は私に手刀を振り下ろしてきた。私はすっと首を傾げてかわす。大げさに転んだ彩香は、床にぺたんと座りながら泣き真似をしつつ、
「うらぎりものぉ……」
と怨嗟の声を上げる。
「いつも元気でいいわね、彩香はね……」
半分は本音の混ざった言葉で、私は答えた。
駆け足で落ちていく日の光が、帰宅道を寒々しく照らしていた。伸びる私の影。腕にかけた100円均一ショップの袋が、吹き抜ける風でガサガサと鳴る。
「寒い」
思わず独り言が漏れた。上着越しに両腕をさする。包帯のごわごわした感覚が、服の上からでも右手の指に伝わった。
――あの子のことを考える。本来だったら今すぐにでも一緒に、公的機関に駆け込むべきなのかもしれないと。服の上からだと今はわからないが、あの子の話から察するに、服の下に傷があってもおかしくはないだろう。確かな証拠になるはずだ。
……けれど。万が一、虐待の確かな証拠がなかったら。確かな証拠であっても、すぐにあの子が保護されることにならなかったら。
助からず、通報の事実だけが残ってしまったら。
『何かあったらすぐに連絡してください、証拠があれば我々も動けますんで』
そんな上辺の言葉で終わってしまったら。
……もう少し考えよう。あの子自身が、父のことで回りに助けを求めることができるよう。
幸せの木と一緒に。致命的な事件が起こらないよう、夜だけでもあの子のそばに居ながら。
「詭弁だけどねぇ」
我ながら笑ってしまうほどに。
もし今急に、あの子の家で父親が殺意を抱いたら。
致命的な事件なんて、簡単に起きてしまうのに。
更に食料品の買い出しを済ませ、私はマンションにたどり着く。昨日捨てたばかりだというのに、ポストはチラシがぎゅうぎゅうに詰まっていた。分別のためにパラパラとめくって目を通し、結局すべて不要物と判断して共有のゴミ入れに捨てた。
階段を登る。歩きながら鞄に片手を入れて、家の鍵を取り出した。
かぞふれば わが身につもる 年月を 送り迎ふと なにいそぐらむ。ぼそぼそと呟きながら、たどり着いた扉のノブを見つめた。鍵穴に鍵を刺して回す。
「ただいま」
言いながら玄関に入った。玄関には何足かの女性ものの靴が並んでいる。廊下の先からは音楽と、母の笑い声が聞こえていた。暖気と共に菓子類の甘ったるい匂いが、這うように流れてくる。私は小さく頭を振ると、靴を脱いだ。
大声とともに私の方が強く叩かれる。振り返らずともわかる、友人の彩香の声だった。
私は大げさに溜息をつきながら、左手で机の中から英語のノートを取り出して背後の彩香に渡す。行儀悪く右手には箸を持ったままだけれど、彩香相手ならこの程度の扱いで十分だろう。
昼休みの教室に人は少ない。いつもの光景である。クラスメイトの半数以上は学食で済ませているようだ。私は自作の弁当をつつきながら、ぼんやりと今夜の準備のことを考えていた。ジョウロ、水、袋――昨日で木の周りの雑草はほとんど抜いてしまったから、今日は新しいお世話を考えておかないといけない。
「あんがとー、ちゃんと合ってるか不安だけど予習内容は写させてねー」
何故こんなにも上から目線の言葉が出てくるのだろうか。思わず私は目を細めて振り返り、彩香を睨んだ。が、そんなことは気にせず彩香はパラパラと私のノートを眺めている。私は再び溜息をつく。わざとらしく彩香に聞こえるように。
それを聞いて流石に私の気持ちを察したのか、彩香はノートから顔を上げて私の方を見ると、
「あ、そういやさぁ、二十四日にAクラスの友達と遊ぶんだけどさ。あんたも来る?」
陸上部と弓道部のカッコいい男子も来るんだけどぉ、と言いながらフヒヒヒと下卑た笑顔を彩香は浮かべる。どうやら私の気持ちを察してはいなかったようだった。
呆れながら私は彩香に背を向け、弁当の方に向き直る。箸を一度置き、焼いたベーコンと薄く切ったチーズを刺したお弁当用の小さな串を持ち上げた。
「……いいわよ私は。あんたとその友達で楽しんできて。私、別に今は男子との出会いとか求めてないから。好きになれそうな気にもなれないし」
串を口元に運んで咀嚼する。焼いたベーコンのパリパリした食感、そして冷えた油の香り。
――いけない。苛立ちのせいか、思わず本音が出てしまった。飲み込み終えると、私は再び彩香の方に向き直って笑顔を浮かべる。
「それにー! ちょっと二十四日の夜は予定があるから!」
正確には二十四日だけではなくて毎晩だけど。
あの子のことだ。放っておいたら深夜まで神社で待ちかねない。
あえて意味深な言い方をしたことで、彩香はテンションを上げて話に食いついてくる。
「ええー!? ずるくない!? 誰よ! 男!? ねえ聞いてないんだけど!」
「うーん、男かなぁ、どうかなぁ」
小学三年の男の子ですけどね。
「どんな人!? ねえどこに行く気なの! ねえ!」
「穏やかで可愛い人かなぁー。静かな場所で二人っきりで会おうかなってー」
吹きさらしの寂れた神社の裏手ですけどね。
「キェェェーーー! 滅せよ!」
怒りなのか興奮なのか抗議なのか、理解しかねる謎の奇声を上げながら、彩香は私に手刀を振り下ろしてきた。私はすっと首を傾げてかわす。大げさに転んだ彩香は、床にぺたんと座りながら泣き真似をしつつ、
「うらぎりものぉ……」
と怨嗟の声を上げる。
「いつも元気でいいわね、彩香はね……」
半分は本音の混ざった言葉で、私は答えた。
駆け足で落ちていく日の光が、帰宅道を寒々しく照らしていた。伸びる私の影。腕にかけた100円均一ショップの袋が、吹き抜ける風でガサガサと鳴る。
「寒い」
思わず独り言が漏れた。上着越しに両腕をさする。包帯のごわごわした感覚が、服の上からでも右手の指に伝わった。
――あの子のことを考える。本来だったら今すぐにでも一緒に、公的機関に駆け込むべきなのかもしれないと。服の上からだと今はわからないが、あの子の話から察するに、服の下に傷があってもおかしくはないだろう。確かな証拠になるはずだ。
……けれど。万が一、虐待の確かな証拠がなかったら。確かな証拠であっても、すぐにあの子が保護されることにならなかったら。
助からず、通報の事実だけが残ってしまったら。
『何かあったらすぐに連絡してください、証拠があれば我々も動けますんで』
そんな上辺の言葉で終わってしまったら。
……もう少し考えよう。あの子自身が、父のことで回りに助けを求めることができるよう。
幸せの木と一緒に。致命的な事件が起こらないよう、夜だけでもあの子のそばに居ながら。
「詭弁だけどねぇ」
我ながら笑ってしまうほどに。
もし今急に、あの子の家で父親が殺意を抱いたら。
致命的な事件なんて、簡単に起きてしまうのに。
更に食料品の買い出しを済ませ、私はマンションにたどり着く。昨日捨てたばかりだというのに、ポストはチラシがぎゅうぎゅうに詰まっていた。分別のためにパラパラとめくって目を通し、結局すべて不要物と判断して共有のゴミ入れに捨てた。
階段を登る。歩きながら鞄に片手を入れて、家の鍵を取り出した。
かぞふれば わが身につもる 年月を 送り迎ふと なにいそぐらむ。ぼそぼそと呟きながら、たどり着いた扉のノブを見つめた。鍵穴に鍵を刺して回す。
「ただいま」
言いながら玄関に入った。玄関には何足かの女性ものの靴が並んでいる。廊下の先からは音楽と、母の笑い声が聞こえていた。暖気と共に菓子類の甘ったるい匂いが、這うように流れてくる。私は小さく頭を振ると、靴を脱いだ。