Interlude:Her.
文字数 4,828文字
~~~古城一郎 ~~~
部屋食で地元の食材を使った料理を振る舞われた。
美味そうに見えたし、実際美味かったのだろうが、まったく覚えていない。
女将さんのにこにこ笑顔と、はにかむ様な奈々の態度の板挟みで、ひたすらに胃を痛めていた。
とにかくひとりになりたくて、早めに風呂に入ることにした。
「ちょっと準備に時間かかるかもしれないすけど、起きて待っててくださいね……」
別れ際に耳元で囁いてきた、奈々のあのセリフ……。あの息遣い……。
いったい何の準備だよ、何を待てばいいんだよと聞きたかったが聞けなかった。
わけもわからず念入りに体を洗って、部屋に戻ってみると布団が敷かれていた。
「マジかよおい……」
その光景に、思わず立ち尽くした。
布団がひとつ敷かれていて、枕がふたつ並べられていた。
「……こんなのドラマかなんかの中だけのことだと思ってたぜ」
あまりにもあからさまなお膳立てに、いたたまれなくなって部屋を出た。
行くあてもなく館内をさ迷い歩いた。
「しかし本気で誰もいねえな。シーズンオフってわけでもねえだろうに……」
到着からここに至るまで、他の客の顔を一度も見ていない。
すべて宿の仕切りで、自分たちのためにわざわざ貸し切りにしてるんじゃないか、というのはさすがに邪推だろうが、そう思いたくもなるような状況だった。
自販機コーナーで缶ビールを2本購入すると、屋上へ出た。
そこは夕涼み用に整備されていて、デッキチェアがいくつかとパラソルが設置されていた。
デッキチェアに座り、缶ビールのプルタブを開けた。
一気に半分ほどを呑んだ。
ホップの効いた液体が、喉の奥に流れ込んだ。
「……まったく酔えねえ」
さらに残りの半分を呑み干して、古城はつぶやいた。
けっこうな量の地酒を呑んだはずのに、今夜はまったく酔えない。
理由は明白だった。
考えるまでもない。
「待てよ? すべてオレの勘違いってことはないか? このまま部屋に戻っても実際には何もなくて。テレビ見たりトランプしたり、布団の中で仕事のことを話したり。あいつの昔の暮らしのことを聞いたり……いやダメだ。布団はひと組みしかねえ……。話以外の何かが始まっちまう……。そんな密着状態じゃ、さすがにオスとして我慢できる気がしねえ……」
ため息が出た。
奈々の自分への気持ちには気づいていた。
それが先輩後輩の関係を超えたものであることも。
だけどこんなに急に進むものだとは思ってなかった。
ただの取材旅行のつもりが、まさか家の者への挨拶 になっていて、向こうもそれを了承していて。勢い、寝所の用意まで整っていて……。
「やっぱおかしいって。全然つり合ってねえもん。こんなくたびれたアラフォー男子。あんなお嬢の相手にゃふさわしくないって」
「うあー」とわめきながら、顔をゴシゴシと手で擦った。
「……あれー。声がすると思ったら、珍しい。先客さんがいるー」
声の方を振り仰ぐと、缶チューハイを手にした浴衣姿の女性が立っていた。
風呂上がりなのか、長い黒髪がしっとりと濡れている。
歳は古城と同世代か少し下くらい。銀幕の名女優を思わせる、清廉な印象の美人だ。
「た……っ」
古城は声を上ずらせた。
「小鳥遊雛 ……さん!?」
デッキチェアから転がり落ちそうになったのを、ぎりぎり堪えた。
「あれあれ、わたしのことご存知でー?」
「そ、そりゃあもう……有名ですから……」
若い女性でありながら小鳥遊本家の家長を務め、同家を世界的なコンツェルンに仕立て上げた女傑だ。
恵まれたルックスと、ちょっと外れたトークから、テレビに雑誌など様々な媒体への露出も多い。
禍 被災者へポケットマネーで1兆円規模の手厚い支援を行ったことでも有名だ。
その彼女が分家筋である奈々の家の温泉旅館に宿泊していることは、考えてみればそれほど奇異なことでもないのだが……。
「そうですかー。いやー、照れちゃうなー」
雛は気さくに笑うと、古城の対面のデッキチェアに腰掛けた。
缶チューハイのプルタブを開け、乾杯のしぐさをした。
ごくごくぷはあっ、と実に美味そうに呑んだ。
「わたしもあなたのこと知ってますよー。古城さんでしょ? たしか奈々ちゃんのお婿さんだって」
「や、それはその……。色々と誤解が……」
しどろもどろに弁解した。
「ふふ、わかってますよー。奈々ちゃんああ見えて強引ですからねー。いきなりだったでしょ?」
「ええまあ……」
「そうでしょうともそうでしょうとも。そりゃあもう、小さい時から英才教育しましたからねー」
雛は「むふー」と得意げに鼻から息を吐き出した。
「教育したって……雛さんが? 直接?」
「そうなんですよー。うちの一族の若い女の子には軒並みね。といっても難しい勉強じゃないですよ? 女としての心得です。これぞといった男性を見つけたら絶対に逃がすなって。考える暇すら与えず、決める時は一気に決めなさいって。あとになって後悔しないように、瞬間瞬間、全力でアタックかけなさいって。……ひひ、わたしも仕掛けるタイミングを逃して婚期も逃しちゃった口なんで。絶対に二の舞にならないようにねって」
空気を和ませるための冗談なのか、本気なのかはわからないが……。
「……失礼を承知で言わせてもらいますがね。けっこうはた迷惑な教えですよ、そいつは」
古城が肩を落とすと、雛はけらけら笑った。
笑って、笑って──見透かしたように目を細めた。
「……でも正直、いやな気分じゃないでしょ?」
「う……そりゃ、まあ……」
本音の部分をズバリとつかれて、古城はぐっと詰まった。
若くて可愛くて元気がよくて、自分のことを全力で好いてくれていて、あげくに逆玉。
今後の生活だって、楽しくなること間違いなし。
文句を言ったら罰が当たる。
「つり合いがとれないとか、考えてます?」
「家格のこともありますがね。そもそも一回り以上歳が離れてるんだ。つり合ってると思う方がどうかしてるでしょう」
古城が肩を竦めると、雛はまた、けらけらと笑った。
日本が世界に誇る人物──のわりには、なんともざっくばらんな女性だ。
懐が深く、言葉を交わすたびに打ち解けていくような感じがある。
奈々にも似たところがあるが、もしかしたらこの一族の女性の特徴みたいなものなのかもしれない。
奈々との出会いや仕事の話。旅の目的などを順を追って話すうちに、自然な流れでクレーターの名が出た。
「手形山クレーター……ですか」
一瞬、雛は眉をひそめた。
「ええ。禍のことを探るうちに、どうしても気になってしまいまして。あんな何もない山中が戦場になった理由が知りたくて。他にいくらでも場所はあっただろうに、なぜあそこでなければいけなかったのかって」
「ううーん……」
雛は悩まし気な表情で唸った。
子供みたいに、デッキチェアの上で膝を抱えた。
「……どうしても知りたい、ですか?」
顔をうつむけ、よく光る目だけをこちらに向けた。
「ご存知なんで?」
思わずデッキチェアから腰を浮かせた。
「ご存知です。でも、動機が知りたいです。どうしてそんなことを探っているのか。あの当時のこと、忘れたいって人はいっぱいいるけど、思い出したいって人はあんまりいないじゃないですか。あんまりに辛くて悲しい出来事が多かったから、みんながみんな、忘れようとしてるじゃないですか」
打って変わって真剣なまなざしで、雛は古城を見る。
「だからいまも、『嫁Tueee.net』なんてくだらないものに興じてる。平和な時代を謳歌してるつもりでいる。なのにあなたは知ろうと思った。かさぶたを剥がしてまで思い出そうとしてる。それはなぜですか? お仕事のためでないのなら、学術的な興味ってやつですか?」
「……っ」
我知らず拳を握っていた。
こんなところでいきなり本命に出くわすとは思ってなかった。
だけど考えてみればそのとおりだ。可能性はあった。
相手はなにせ小鳥遊家の家長だ。
地元の人間でもあり、古城には考えも及ばないような情報網を握っていることは充分にあり得る。
ならば……あのことも──
「……約……束を、したんです」
声が掠れた。
いつの間にか、喉がカラカラになっていた。
「約束?」
もう1本の缶ビールのプルタブをあけて一口口に含んでから、古城は先を続けた。
「取り立てて珍しい話じゃないですよ。当時としてはありふれた話です。知り合いの女の子が亡くなった。当時まだ小学校低学年ぐらいだった子が、オレの腕の中で息を引き取った……」
寒い夜のことだった。
多元世界の化け物に追われて逃げ込んだ、体育館の中でのことだった。
両親を失ったばかりの少女が、同じ日に同じ町で、幼い命を散らした。
少女は死の間際、古城に言伝 を頼んだ。
──ね、記者さん。正義の味方のお姉ちゃんが来たら、わたしの代わりにお礼を言って? こんなとこまで来てくれて、ありがとねって。ひょーしょーしてあげて?
動機としてはそれだけだ。
それ以外に何もない。
ストレートな願い。
イノセントな祈り。
だけどその言葉が、いまも古城を止まらせてくれない。
「……なるほど、その正義の味方の人にひと目会ってお礼を言うために、一から禍の被災地を調査して回ってると。……それはまた、雲を掴むような話ですねえ」
古城の話を聞いた雛は、くつくつと笑った。
わずかに目じりに浮いた涙を、指で拭った。
「ごめんなさい、不謹慎でしたね。わたしの知り合いにもあなたに似たような人がいて……それがなんだか懐かしくて、思わず笑っちゃった。本当にごめんなさい」
少女のように舌を出して謝った。
「や、オレは別にいいんですけど……その、大丈夫ですか?」
雛の目から流れる涙が止まらない。
「あれれ……おかしいな。ひさしぶりに思い出したからかな?」
雛は戸惑いながら、しきりに涙を拭った。
「ふふ……その人はね。昔、わたしが好きだった人なんです。わたしの婚期をよくもまあ遅らせてくれた人で、奥さんと一緒に消えちゃった人で」
「……消えた ?」
おうむ返しに繰り返してから、自分が失礼な質問をしているのに気が付いた。
「す、すいません! つい調子に乗ってしまって、無神経なことを……」
ぺこぺこ必死に頭を下げる古城を見て、雛は楽しげに笑い声を上げた。
「いいんですよー別に。ふふふ、これであいこですね。そうなんです。あのふたりはひとり息子を残して多元世界の狭間に消えちゃったまま、いまもまだ戻って来ないんです」
雛は遠い目をして、星の瞬く空を見上げた。
「まったくどこで何をやってるんだか……。でもそうか、いつの間にやらもう8年かあ……ホント、気の長い話ですよねえ……」
「ええ、ホントに。いつの間にかいつの間にかで、歳ばかりとってしまって……」
古城と雛は、同時にため息をついた。
一気に老けこんだような気がして、それがおかしくて、噴き出すように笑い合った。
「……ふふ」
笑いが納まると、雛は慈愛に満ちた瞳を古城に向けた。
「OK。お教えしましょう。わたしの知るすべてを。あの日あの場所で何が起こったのか。どんな媒体にも載せられていない、載せられなかった、禍の本当のことを──」
そして彼女は語り出した。
部屋食で地元の食材を使った料理を振る舞われた。
美味そうに見えたし、実際美味かったのだろうが、まったく覚えていない。
女将さんのにこにこ笑顔と、はにかむ様な奈々の態度の板挟みで、ひたすらに胃を痛めていた。
とにかくひとりになりたくて、早めに風呂に入ることにした。
「ちょっと準備に時間かかるかもしれないすけど、起きて待っててくださいね……」
別れ際に耳元で囁いてきた、奈々のあのセリフ……。あの息遣い……。
いったい何の準備だよ、何を待てばいいんだよと聞きたかったが聞けなかった。
わけもわからず念入りに体を洗って、部屋に戻ってみると布団が敷かれていた。
「マジかよおい……」
その光景に、思わず立ち尽くした。
布団がひとつ敷かれていて、枕がふたつ並べられていた。
「……こんなのドラマかなんかの中だけのことだと思ってたぜ」
あまりにもあからさまなお膳立てに、いたたまれなくなって部屋を出た。
行くあてもなく館内をさ迷い歩いた。
「しかし本気で誰もいねえな。シーズンオフってわけでもねえだろうに……」
到着からここに至るまで、他の客の顔を一度も見ていない。
すべて宿の仕切りで、自分たちのためにわざわざ貸し切りにしてるんじゃないか、というのはさすがに邪推だろうが、そう思いたくもなるような状況だった。
自販機コーナーで缶ビールを2本購入すると、屋上へ出た。
そこは夕涼み用に整備されていて、デッキチェアがいくつかとパラソルが設置されていた。
デッキチェアに座り、缶ビールのプルタブを開けた。
一気に半分ほどを呑んだ。
ホップの効いた液体が、喉の奥に流れ込んだ。
「……まったく酔えねえ」
さらに残りの半分を呑み干して、古城はつぶやいた。
けっこうな量の地酒を呑んだはずのに、今夜はまったく酔えない。
理由は明白だった。
考えるまでもない。
「待てよ? すべてオレの勘違いってことはないか? このまま部屋に戻っても実際には何もなくて。テレビ見たりトランプしたり、布団の中で仕事のことを話したり。あいつの昔の暮らしのことを聞いたり……いやダメだ。布団はひと組みしかねえ……。話以外の何かが始まっちまう……。そんな密着状態じゃ、さすがにオスとして我慢できる気がしねえ……」
ため息が出た。
奈々の自分への気持ちには気づいていた。
それが先輩後輩の関係を超えたものであることも。
だけどこんなに急に進むものだとは思ってなかった。
ただの取材旅行のつもりが、まさか家の者への
「やっぱおかしいって。全然つり合ってねえもん。こんなくたびれたアラフォー男子。あんなお嬢の相手にゃふさわしくないって」
「うあー」とわめきながら、顔をゴシゴシと手で擦った。
「……あれー。声がすると思ったら、珍しい。先客さんがいるー」
声の方を振り仰ぐと、缶チューハイを手にした浴衣姿の女性が立っていた。
風呂上がりなのか、長い黒髪がしっとりと濡れている。
歳は古城と同世代か少し下くらい。銀幕の名女優を思わせる、清廉な印象の美人だ。
「た……っ」
古城は声を上ずらせた。
「
デッキチェアから転がり落ちそうになったのを、ぎりぎり堪えた。
「あれあれ、わたしのことご存知でー?」
「そ、そりゃあもう……有名ですから……」
若い女性でありながら小鳥遊本家の家長を務め、同家を世界的なコンツェルンに仕立て上げた女傑だ。
恵まれたルックスと、ちょっと外れたトークから、テレビに雑誌など様々な媒体への露出も多い。
その彼女が分家筋である奈々の家の温泉旅館に宿泊していることは、考えてみればそれほど奇異なことでもないのだが……。
「そうですかー。いやー、照れちゃうなー」
雛は気さくに笑うと、古城の対面のデッキチェアに腰掛けた。
缶チューハイのプルタブを開け、乾杯のしぐさをした。
ごくごくぷはあっ、と実に美味そうに呑んだ。
「わたしもあなたのこと知ってますよー。古城さんでしょ? たしか奈々ちゃんのお婿さんだって」
「や、それはその……。色々と誤解が……」
しどろもどろに弁解した。
「ふふ、わかってますよー。奈々ちゃんああ見えて強引ですからねー。いきなりだったでしょ?」
「ええまあ……」
「そうでしょうともそうでしょうとも。そりゃあもう、小さい時から英才教育しましたからねー」
雛は「むふー」と得意げに鼻から息を吐き出した。
「教育したって……雛さんが? 直接?」
「そうなんですよー。うちの一族の若い女の子には軒並みね。といっても難しい勉強じゃないですよ? 女としての心得です。これぞといった男性を見つけたら絶対に逃がすなって。考える暇すら与えず、決める時は一気に決めなさいって。あとになって後悔しないように、瞬間瞬間、全力でアタックかけなさいって。……ひひ、わたしも仕掛けるタイミングを逃して婚期も逃しちゃった口なんで。絶対に二の舞にならないようにねって」
空気を和ませるための冗談なのか、本気なのかはわからないが……。
「……失礼を承知で言わせてもらいますがね。けっこうはた迷惑な教えですよ、そいつは」
古城が肩を落とすと、雛はけらけら笑った。
笑って、笑って──見透かしたように目を細めた。
「……でも正直、いやな気分じゃないでしょ?」
「う……そりゃ、まあ……」
本音の部分をズバリとつかれて、古城はぐっと詰まった。
若くて可愛くて元気がよくて、自分のことを全力で好いてくれていて、あげくに逆玉。
今後の生活だって、楽しくなること間違いなし。
文句を言ったら罰が当たる。
「つり合いがとれないとか、考えてます?」
「家格のこともありますがね。そもそも一回り以上歳が離れてるんだ。つり合ってると思う方がどうかしてるでしょう」
古城が肩を竦めると、雛はまた、けらけらと笑った。
日本が世界に誇る人物──のわりには、なんともざっくばらんな女性だ。
懐が深く、言葉を交わすたびに打ち解けていくような感じがある。
奈々にも似たところがあるが、もしかしたらこの一族の女性の特徴みたいなものなのかもしれない。
奈々との出会いや仕事の話。旅の目的などを順を追って話すうちに、自然な流れでクレーターの名が出た。
「手形山クレーター……ですか」
一瞬、雛は眉をひそめた。
「ええ。禍のことを探るうちに、どうしても気になってしまいまして。あんな何もない山中が戦場になった理由が知りたくて。他にいくらでも場所はあっただろうに、なぜあそこでなければいけなかったのかって」
「ううーん……」
雛は悩まし気な表情で唸った。
子供みたいに、デッキチェアの上で膝を抱えた。
「……どうしても知りたい、ですか?」
顔をうつむけ、よく光る目だけをこちらに向けた。
「ご存知なんで?」
思わずデッキチェアから腰を浮かせた。
「ご存知です。でも、動機が知りたいです。どうしてそんなことを探っているのか。あの当時のこと、忘れたいって人はいっぱいいるけど、思い出したいって人はあんまりいないじゃないですか。あんまりに辛くて悲しい出来事が多かったから、みんながみんな、忘れようとしてるじゃないですか」
打って変わって真剣なまなざしで、雛は古城を見る。
「だからいまも、『嫁Tueee.net』なんてくだらないものに興じてる。平和な時代を謳歌してるつもりでいる。なのにあなたは知ろうと思った。かさぶたを剥がしてまで思い出そうとしてる。それはなぜですか? お仕事のためでないのなら、学術的な興味ってやつですか?」
「……っ」
我知らず拳を握っていた。
こんなところでいきなり本命に出くわすとは思ってなかった。
だけど考えてみればそのとおりだ。可能性はあった。
相手はなにせ小鳥遊家の家長だ。
地元の人間でもあり、古城には考えも及ばないような情報網を握っていることは充分にあり得る。
ならば……あのことも──
「……約……束を、したんです」
声が掠れた。
いつの間にか、喉がカラカラになっていた。
「約束?」
もう1本の缶ビールのプルタブをあけて一口口に含んでから、古城は先を続けた。
「取り立てて珍しい話じゃないですよ。当時としてはありふれた話です。知り合いの女の子が亡くなった。当時まだ小学校低学年ぐらいだった子が、オレの腕の中で息を引き取った……」
寒い夜のことだった。
多元世界の化け物に追われて逃げ込んだ、体育館の中でのことだった。
両親を失ったばかりの少女が、同じ日に同じ町で、幼い命を散らした。
少女は死の間際、古城に
──ね、記者さん。正義の味方のお姉ちゃんが来たら、わたしの代わりにお礼を言って? こんなとこまで来てくれて、ありがとねって。ひょーしょーしてあげて?
動機としてはそれだけだ。
それ以外に何もない。
ストレートな願い。
イノセントな祈り。
だけどその言葉が、いまも古城を止まらせてくれない。
「……なるほど、その正義の味方の人にひと目会ってお礼を言うために、一から禍の被災地を調査して回ってると。……それはまた、雲を掴むような話ですねえ」
古城の話を聞いた雛は、くつくつと笑った。
わずかに目じりに浮いた涙を、指で拭った。
「ごめんなさい、不謹慎でしたね。わたしの知り合いにもあなたに似たような人がいて……それがなんだか懐かしくて、思わず笑っちゃった。本当にごめんなさい」
少女のように舌を出して謝った。
「や、オレは別にいいんですけど……その、大丈夫ですか?」
雛の目から流れる涙が止まらない。
「あれれ……おかしいな。ひさしぶりに思い出したからかな?」
雛は戸惑いながら、しきりに涙を拭った。
「ふふ……その人はね。昔、わたしが好きだった人なんです。わたしの婚期をよくもまあ遅らせてくれた人で、奥さんと一緒に消えちゃった人で」
「……
おうむ返しに繰り返してから、自分が失礼な質問をしているのに気が付いた。
「す、すいません! つい調子に乗ってしまって、無神経なことを……」
ぺこぺこ必死に頭を下げる古城を見て、雛は楽しげに笑い声を上げた。
「いいんですよー別に。ふふふ、これであいこですね。そうなんです。あのふたりはひとり息子を残して多元世界の狭間に消えちゃったまま、いまもまだ戻って来ないんです」
雛は遠い目をして、星の瞬く空を見上げた。
「まったくどこで何をやってるんだか……。でもそうか、いつの間にやらもう8年かあ……ホント、気の長い話ですよねえ……」
「ええ、ホントに。いつの間にかいつの間にかで、歳ばかりとってしまって……」
古城と雛は、同時にため息をついた。
一気に老けこんだような気がして、それがおかしくて、噴き出すように笑い合った。
「……ふふ」
笑いが納まると、雛は慈愛に満ちた瞳を古城に向けた。
「OK。お教えしましょう。わたしの知るすべてを。あの日あの場所で何が起こったのか。どんな媒体にも載せられていない、載せられなかった、禍の本当のことを──」
そして彼女は語り出した。