第39話 ふえ

文字数 2,479文字

「宝来屋」の御隠居と共に、吉原に赴いた村居は、

「山城屋」の裏手にある病の遊女が居るという「鳥屋」を訪れた。

大奥の御殿女中の診察をした事はあったが、

遊女の診察は初めての事で、「鳥屋」の独特な雰囲気に、

さすがの村居も腰が引けた。

「山城屋のふえさんの往診に来たのかい? 

ふえさんの部屋は、こっちですよ」

 応対に出たのは、腰の曲がった年輩の看護人だったが、

見かけより、口は達者で、歩きもしっかりしていた。

通された部屋は、十二畳程の広間に、

薄べりが敷いてあるだけで、調度品はなく、

障子や襖は所々、破れていた。部屋に居るのは、寝たきり患者ばかりで、

つい、さっき取り替えたと思われる尿や便で汚れたオシメが、

入口付近に置かれたタライの中に、無造作に、積み上げられていた。

「ふえさん。先生が、お見えになったよ」

 看護人は、窓の近くに寝ている女子の傍に坐ると呼びかけた。

「村居と申す」

 村居は、手短に挨拶を済ますと診察を始めた。

ふえは、看護人の手を借りて、上体を起こすと、軽く会釈した。

「あとの事は、先生にお任せして、手前は、これにて、失礼します」

 「宝来屋」の御隠居は、ふえの姿を見届けると、

足早に「鳥屋」から出て行った。

「先生。ふえさんの具合は、いかがでしょうか? 」

 ふえの脈を診ていた村居に、看護人が話しかけた。

「心の臓が、だいぶ弱っている。起き上がるだけでも、辛いと見受ける。

申し上げにくいのだが、もはや、薬では、治せないところまできている。

治すのではなく、一日でも長く、

生き長らえる事を考えた方が、よろしいかと存じます」

 村居は、看護人を廊下に連れ出すと小声で告げた。

「治す事は、本人も、諦めています。

ただ、花魁になってすぐ、発病した故に、

花魁道中をまだ、歩いた事が御座いません。

歩けない容態だという事は、十分、承知しておりますが、お願いします。

一晩だけでも、ふえさんを歩ける様にしてやって頂けませんでしょうか? 」

 看護人は、その場に、平伏して乞うた。

「一時的に、足の筋力を取り戻させる事は、

出来ない事では御座いませんが、強い薬を用いる事になります故、

ふえさんの体に、悪い作用を及ぼす恐れが御座います。

ひとたび、倒れたら、そのまま、目を覚まさないという事もありえます。

それでも、良いというのでしたら、ひと肌脱ぎましょう」

 村居が神妙な面持ちで告げた。

看護人は、ふえの元に駆け寄ると、何やら耳打ちし、

ふえの言葉を聞いた後、村居の元に戻って来た。

「ふえさんが、何卒、よろしくお願いしますとおっしゃっております」

 看護人は、緊張した面持ちで告げた。

「承知しました」

 村居が、ふえの方を見ながら言った。

それから二日後。「山城屋」の花魁、ふえは、村居が投与した薬により、

奇跡的な回復をみせ、晴れの日を迎えた。

花魁道中とは、美しく着飾った花魁が大勢の供を引きつれて、

揚屋から茶屋まで移動する行列の事を言うが、

花魁だけにしか許されていない事から、

吉原の遊女にとって、憧れであり目標ともされている。

花魁にとっても、偶然、その場に居合わせた者たちから、

羨望の眼差しを一気に受け、最高位としての誇りと

自信を実感する至福の一時でもある。しかし、この日のふえは、

長襦袢二枚、小袖を三枚重ね、帯をしめ、

更に、仕掛を二、三枚羽織る厚着姿で、

左右の髷が羽を広げた蝶の様になっている髪型をしており、

一歩進むだけでも、重労働であった。

健康な女であっても、根を上げそうな状況の中、

ふえは、辛さを一切、顔には出さす、堂々と道中を練り歩いた。

その姿は、神がかった様で、菩薩様と拝む者までいた。

ふえ自身、恍惚とした意識の中、

自分であって自分ではない不思議な感覚に襲われていた。

茶屋に到着した途端、フッと全身の力が抜けて、畳の上に倒れ込んだ。

ふえは、最後の力を振り絞ると、茶屋で待っていた村居の前に平伏した。

「おまえさんに、会わせたい者がいる」

 村居は、奥に控えていた長八を呼んだ。

長八が遠慮気に、ふえの前に坐った。

「お鍈。久方ぶりだな」

 長八は、ふえの白い手を取ると言った。

ふえは、長八を見るなり打ち泣いた。

「おまえさんが、病と知り、一目会いたいと参ったのだ」

 長八は、ふえを抱き寄せた。

「今宵は、元夫婦同士で過ごすが良い。古い友からの餞別だ」

 村居は、そう言い残すと二人だけ、部屋に残して障子を閉めた。

「お鍈。すまない」

 長八は、ふえの涙を手で拭うと深く頭を下げた。

ふえは、何か、話そうとするが、言葉にならず、

長八の胸に、頭をもたげるのが精一杯だった。

「お鍈。おまえさんの事は、片時も忘れた事はない。

お父上をお救い出来なかったばかりか、

おまえさんまで、辛い思いをさせてしまった。

償おうにも、おまえさんの命は、限りがある。

おまえさんの為に、してやれる事はあるだろうか? 」

 長八が涙ながらに言った。

ふえは、笑顔を見せると、ゆっくりと目を閉じた。

ふえは、薄れ行く意識の中で、耳をすませて、長八の心臓の音を感じた。

「お鍈」

 しばらくして、ふえは、長八の腕の中で、息を引き取った。

長八は、冷たくなったふえの顔を頬ずりしながら、

何度も、名を呼び続けた。ふえの葬儀の日は、

朝から、大雨だった。ふえの亡骸は、菰に包まれ、

三ノ輪の浄閑寺に運ばれて、墓地の穴に投げ込まれた。

長八はその様子を物陰から、そっと見守った。

そして、三年前の事件の決着をつける事をふえに誓ったのであった。

自訴したという事もあり、小勝こと、おかめは、過料に処された。

牢屋敷の前に、「宝来屋」の御隠居が手配した駕籠が待っていたが、

ふえは、それを素通りした。

「宝来屋」の御隠居の妾としてだけの余生を送るつもりはなかった。

「宝来屋」の御隠居が用意した屋敷に、

弥兵衛を呼び寄せ、親子二人、失った時を取り戻すつもりでいた。

生活に必要なお金は、「宝来屋」の御隠居には頼らず、

屋敷に、商家のお嬢様達を集めて、

三味線や長唄の手習いをやり、自活する事に決めていた。

問屋が軒を連ねる問屋街を通り、

両国橋西詰にある水茶屋で一息ついた後、

屋敷に程近い富岡八幡宮に立ち寄った。

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