第8話 安治の店

文字数 2,211文字

「遊女が身を隠せそうな場所ってぇと、何処だい? 」

 安治が、としに意見を求めた。

同じ遊女ならわかるはずだと思ったからだ。

「あちきが、あの娘でしたら、飯盛り女として、

国境の宿場の旅篭屋とか、てっとり早く、住み込みで働ける所を捜しいす。

旅篭屋は、田舎出の女子を奉公人として雇いますがね、

中には、遊女として働く女子もいると聞きいす。

旅の者に身売りする女子が、旅篭屋を繁盛させているという話も

まんざら、嘘ではないでしょうよ。

その証に、飯盛り女は、宿場の利になると、

御上も、目をつぶっておざいます」

 としが冷めた口調で告げた。

「吉原から逃げた女子が、金欲しさに、身売りをしたがるものかね」

 安治が首を傾げた。

「おまはんは、まことに、吉原にいた女子がすんなり、

町娘に戻れるとでもお思いでおざいますか? 

しかも、年季があけたのでも、身請けされたのでもない。

逃げた遊女が、胸を張って堂々と、世間を渡り歩けるはず道理がない。

この先、ずっと、逃げた負い目を背負う事になるでしょうよ」

 としは、信じられないといった風に、眉間に皺を寄せた。

「ありがとうよ。いつか、この恩を返させてもらうからよ」

 安治は、笑って気まずい雰囲気をごまかした。

「あちきも、おまはんと話が出来て良かったですよ。

五十茨さんを捜してここに来たっていうお武家の奥様が、

無事な事をお祈りいしす」

 としは、頭を下げた後、はんなりと店を出て行った。

安治はとりあえず、札付きの悪だった時代から、

面倒をみている市中のごろつきを雇い、

五十茨がよく、屯していた深川界隈の飲み屋や

本所の賭場を、しらみつぶしにあたらせた。
 
 巡回の後、賢三郎は、深川の八幡宮辺りにある料理屋「亀弥」の門をくぐった。

店の裏は、河岸になっており、

猪木船や屋形船で乗りつける事が出来るとあって、

開店以来、お客が絶えない。

噂によれば、「亀弥」は、その昔、大名や旗本等の武家から、

材木商、呉服商等の豪商が利用する有名店だったが、

何かと、黒い噂が絶えなかったらしい。

前の主人が、行方をくらました為、三年間、空き家となっていたが、

半年前、「亀弥」を買い取った名も無き町人がいた。

何者かは、明らかにされていなかったが、

前の主人が作った借金を肩代わりするキップの良さが、

江戸っ子の間で話題になった。

瞬く間に、料理が美味いと評判を得て、

今では、深川の夜の名所の一つに加わった。

「一杯、引っかけてからけえるとするか」

 賢三郎は、暑さにだれ気味だった小者二人を喜ばせた。

「いらっしゃいまし。失礼ですが、お客様。

御予約はなされていますか? 」

女番頭のおふさは、三人を見るなり聞いた。

「おい、予約をしておるか? 」

 賢三郎は、わざとらしく、後ろにいる小者二人に向かって聞いた。

小者二人は、互いの顔を見合いながら首を傾げた。

「申しわけ御座いません。御予約のない方は、

御断りさせて頂いております」

おふさは、毅然とした態度で告げた。

「主を呼んでくんないか」

 賢三郎がぶっきらぼうに言った。

「失礼ですが、お客様のお名前を、頂戴出来ますか? 」

 おふさが強張った顔で告げた。

「井坂賢三郎だ。井坂が来たと申せばわかるはずだ」

 おふさはあわてて、主人を呼びに行った。

その頃、安治は、最近、買い取ったばかりの

料理屋の様子を見に立ち寄っていた。

「旦那様。良い所においでなすった。

井坂賢三郎と名乗る強面のお客様が、

旦那様をお呼びになっておられます」

 板場で、板長の長八と話していた安治を見つけるなり、

おふさが、血相を変えて駆け寄って来た。

「今、井坂と申したか? 井坂の旦那がいらしているのか? 」

 安治が目を丸くした。賢三郎が来たと言う事は、

安治がまた、つぶれる寸前の料理屋を借金の肩代わりを条件に、

買い取った話をどこかで、聞いたと言う事になる。

主人が変わったと言う噂は、意外と、広まるのが早い事を改めて思い知った。

「左様で御座います」

 おふさがこくりと頷いた。

「井坂の旦那のお相手は、手前に任せて、

おまえは、いつも通り、他のお客の相手をしなさい」

 安治は、おふさを玄関へと急き立てた。

「承知しました」

 おふさが助かったとばかりに、足早に持ち場に戻った。

「いらっしゃいませ。おやまあ。

誰かと思えば、井坂の旦那じゃあ御座んせんか」

 安治が、料理屋の主人として挨拶に出た。

「まさかとは思ったが、おめえが、亀弥の主になったとはなあ」

 賢三郎は、呆気にとられて突っ立っている

下足番の小僧、希一に、脱いだ草履を投げてよこした。

「いつ、お見えになられても、よろしいように、お部屋をお取りしています。

さあ、どうぞ、どうぞ。お入り下せえ」

 安治は、調子の良い事を言い、軽子達をあわてさせた。

安治の鶴の一声で、速やかに、店一番の座敷があけられた。

賢三郎は、牡丹之間に向かう際、今一度、おふさを振り返り見た。

おふさは、賢三郎の視線に気づくと、決り悪そうに会釈した。

店内は、満室で、各座敷からは、賑やかな物音が聞こえた。

廊下ですれ違う軽子たちは、べっぴん揃いで、いかにも、女好きの安治らしい。

間もなくして、軽子のおゆうが、先付を運んで来た。

「この鯛の汁、なかなか、いけるじゃねぇか」

 まるで、我が家にいるみたいにくつろぐ賢三郎とは、

対照的に、小者二人は、落ち着かない様子で、下座に坐っている。

「まことに、頂戴しても、よろしいので御座いますか? 」

 太兵衛が恐縮気味に伺いを立てた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み