第15話 将軍の病

文字数 1,792文字

その頃、城内では、大変な事態が起きていた。

家治公が倒れたまま、意識を失ったのだ。

御医師の村居陽允は、師匠の大八木伝庵の補佐役として、

家治公の治療にあたっていたが、老中の田沼意次とお側用人達が突然、

倒れた家治公を伝庵に代わり、介抱した際、独断で薬を処方して、

家治公の病を悪化させたとして、村居の処罰を言及した。

そこで、家治公は、村居を改易に、伝庵には、登城を禁じた。

「師匠以外の者に、上様の治療を任せるとは、正気の沙汰では御座いません。

上様が、師匠に、登城をお禁じなされたとは、

とうてい、考えられません。これは、何某の陰謀に、間違い御座いません」

 村居は、自分だけでなく、伝庵までも追いやった田沼や

お側用人達の横暴に憤りを感じずにはおられなかった。

「これも、戒めと謙虚に受け止めねばならぬ」

 伝庵は、厳しい叱責を受けたにも関わらず、冷静であった。

「師匠に代わり、上様を診る事になった

あの御医師の診たてには、誤りが御座います」

 村居が依然として抵抗した。

「まだ、申すか。上様は、おぬしが処方した黄連解毒湯を服用なされた後、

嘔吐と下里腹を起こされた。田沼様はあろう事か、

おぬしが、上様のお命を狙ったのではないかとまでお疑いになられたのだ。

もし、わしが、弁護していなければ、おぬしは、今頃、この世にはおらぬわい」

 伝庵が厳しい口調で諫めた。

「私が、改易となる事は、致し方御座いませんが、

師匠が登城を禁じられる事には、納得が行きません」

 村居は、伝庵の登城禁止を取り消す様に、老中たちに掛け合うと息巻いた。

「弟子がしでかした失態の責任は避けられぬ」

 伝庵が身支度を始めた。

「上様のお命をお救いするのが、我々の使命とおっしゃったのは、

師匠では御座いませんか? 今一度、上様の

御意思をおたしかめになるべきだと存じます」

 村居は今回の処罰は、次期将軍と期待される

家斉様を支持する者達の策略だと断言した。

家治公が崩御すれば、西の丸に控えている家斉様が跡を継ぐ事になっている。

老中の田沼意次は、家斉様から、絶大な信頼を得ている。

家斉様が将軍となった暁には、田沼の天下となる。

家治公が病を発症したのは、偶然にも、家斉様が、西の丸に入った直後の事である。 

「わしは、上様の御身にみえる水腫の症状から脚気と診たてた。

何故、おぬしは、上様に、塩辛い物や、

醤油、味噌を避けるべきだと申したのじゃ? 」

 伝庵は、意見の相違を指摘した。

「水腫が、体に起きるのは、心の臓と腎の臓に、

何だかの問題があると考えて間違い御座いません。

もし、腎の蔵に、異常をきたしているのだとすれば、

全身の倦怠感、尿の減少、息切れを伴いますが、

肺に、異常をきたしているのだとすれば、咳痰、動悸を伴います。

あの御医者は、腎の臓か、肺のどちらかに、

異常があると考えたに違いありません。

なれど、腎の臓が起こした水腫ならば、顔だけに現れるはず。

上様の場合、顔だけでなく、手足にも、水腫がみられます。

私が、塩辛い物や醤油、味噌を避けるべきだと進言したのは、

それらを口にする事で、病が悪化する怖れがあると考えたからに御座います。

上様は、何度か、眩暈を訴えられました。

故に、師匠は、眩暈を治す薬を出されたのでは御座いませんか? 」

 村居は、自分が下した診断に自信を持っていた。

「さようじゃ」

 伝庵が渋い顔をした。

「眩暈を起こされる以前、上様の御身には、気虚の症状がみられた。

故に、師匠は、気を高める治療を施したのはないですか? 

なれど、気虚が改善するどころか、次第に、些細な事にもお怒りになり、

塞ぎ込まれる事が多くなった」

 村居が冷静に告げた。

「それが、何だと申す? 」

 伝庵が冷やかに告げた。

「弁病論治を患う病人の中には、胃弱の者もおります。

胃弱故に、嘔吐や下里腹を起こされたとすれば、説明がつきます」

 村居が断言した。

「弁病論治だと? 何を根拠に申しておる? 」

 伝庵が驚いた表情で尋ねた。

「書物には、弁病論治を患う病人は、

全身に、水腫が起きる事で死に至ると記されています」

 村居が、蘭方医学の書を伝庵に差し出した。

「上様の病状は、手遅れだと申すか? たわけた事を申すでないぞ」

 伝庵が書物を地面に投げ捨てた。

「あのままになさっておいては、死を早めるだけです。

あの御医師の誤りを正す事が出来るのは、師匠しかおられません」

 村居が書物を拾い上げると言った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み