第45話 まいない

文字数 2,087文字

「宝来屋」の御隠居が天明元年から、

最近までに、作事奉行の赤井忠好に贈った

「まいない」の品名や金額が記されてあり、

その時の状況が、証文の裏に書き留められていた。

入札前に、入札に参加する商人が、

入札を担当する役人に対し、金品を贈る事は禁じられている。

これは、まぎれもない賄賂の証拠となる。

「証文なんぞ、入れた覚えはないよ」

 おかめが脇から、証文をのぞき込むと言った。

「この道具箱は、おまえさんが買った物なのかい? 」

 長八は、証文を懐にしまうと、道具箱をおかめに返した。

「一年前、御隠居から頂いた贈り物さ。

底板が外れるなんぞ、思いもしなかったよ。おまはん、賢いのだね? 」

 おかめは、甘える様に、長八の肩に頭をもたげた。

長八は、証文を懐にしまうと勢い良く立ち上がった。

「待っておくれな」

 おかめは、長八を引き留めようと立った拍子に、

着物が布団の上に落ちて、素っ裸になった。

「廓の中ではないのだ。吉原に戻りたくなければ、御身を大事に致せ」

 長八が振り返る事なく、部屋を飛び出した。

「長八さん」

 おかめがなりふり構わず、縁側に飛び出した。

「あばよ」

 長八が庭に走り出ると、軽々と、塀を飛び越え闇夜に消えた。

おかめは、縁側に、腰を降ろすと物思いに耽った。

空が白みかかった頃、玄関から、物音が聞こえた。

おかめは、急いで、着物を身に着けると、弥兵衛を迎え出た。

「おとっつぁん。今まで、何処をほっつき歩いていたのだい? 」

 おかめが、朝帰りした弥兵衛を詰った。

「玄関に、草履があった故、

邪魔かと思って外泊してやったのに、何だ、その言いぐさは? 」

 弥兵衛がいじけたフリをした。

「おとっつぁん。その道具箱は、どうしたえ? 」

 おかめは、弥兵衛が大事そうに、

胸に抱え持っていた道具箱を目ざとく見つけた。

「これか? これは、宝の箱だ。

この中に収められている証文が、

明日には、亀弥の沽券に化けるというわけさ」

 弥兵衛がにんまりと笑った。

「証文が、亀弥の沽券に化けるって、いったい、何の話だい? 」

 おかめは、弥兵衛の言っている事が解らなかった。

「これと引き換えに、亀弥の沽券が、手に入るわけさ」

 弥兵衛がえへん面で言った。

「亀弥の沽券は、御隠居がお持ちのはずだけど、

まさか、おとっつぁん、御隠居を脅すつもりなのかい? 」

 おかめが驚いた顔で、弥兵衛を問いただした。

「一生、御隠居の顔色を窺っているわけにはいかないじゃないか? 

おめえは、まだ、若い。真面目な男と祝言を挙げて、

人並みの幸せをつかめるに決まっている。

これをある者に渡せば、亀弥を取り戻す事が出来るんだ」

 弥兵衛が意気揚揚と部屋に入った。

「おとっつぁん。箱の中を見たのかい? 

証文ならば、さきしがた、長八さんに渡したよ」

 おかめが部屋に入ると、弥兵衛に向かって言った。

「今、何と申した? 」

 弥兵衛は、道具箱の蓋を開けると中身を確認した。

証文らしき物は入っていなかった。
「何せ、押しが強いお方でさ。

断り切れなくて、渡しちまったわけさ。いけなかったかい? 」

 おかめは、肩を落とす弥兵衛の機嫌を窺う様に言った。

「亀弥の沽券は持って来なかったのか? 

亀弥の沽券と取り換える約束だ」

 弥兵衛が声を荒げた。

「いんにゃ、何も持って来なかったよ」

 おかめが上目遣いで言った。

「おかめ。何て、馬鹿な事をやらかしたのだい」

 弥兵衛が悔しそうに告げた。

「おとっつぁん。何も、亀弥に、こだわる事はないじゃないか。

前に、わたいがいれば、何もいらないと言ってくれたじゃないの。

わたいは、一生、おとっつぁんの傍にいるよ。

親子二人だけなら、何とか、食べていけるさ。

わたい、手習いをやろうと思っているのよ。

おとっつぁんも、料理人にならないかと誘いがあったのでしょう? 

店を持たなくても、料理の腕がたしかなら、

料理人は、何処でもやって行けるって」

 おかめが、弥兵衛をなぐさめた。

「もう少しで、亀弥を取り戻せる所だったのに、

何て事をしてくれたんだい? 」

 弥兵衛が恨み言を吐いた。

「おとっつぁん。いい加減、目を覚ましておくれな」

 おかめは、弥兵衛の肩を揺さぶった。

「うるせえ。放っておいてくんないか」

 弥兵衛が、戸を勢い良く閉めると部屋に閉じこもった。

おかめは、弥兵衛が、床に放置した道具箱を拾うと、蓋を開けて中を見た。

すると、白い和紙に、何やら柔らかい物が包まれていた。

白い和紙の包みを広げて現れたのは、

誰のモノなのかわからない、白い紐で結わえられた

長い黒髪と干からびた人間の爪だった。

おかめはふと、「宝来屋」の御隠居と

床を共にした時の事を思い起こした。

「宝来屋」の御隠居は、おかめの髪の毛を手櫛ですきながら、

眠りにつくのが癖だった。

時々、御隠居のささくれ立った指が髪の毛にからんで、

御隠居が寝返りを打った時、その指に絡んだ髪が

引っ張られて痛い思いをさせられた。

髪の毛はまだ、我慢できるが、

人間の爪を集めるとは、悪趣味にも程がある。

おかめは思わず身震いをした。

「おとっつぁん。わたいは部屋に居るから、用事があったら、呼んでね」

 おかめが、障子越しに告げると寝間に戻った。
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