第23話 のどぐろ

文字数 1,652文字

「左様で御座います」

 安治は正直、長八の国許までは知らなかった。

「ちと聞くが、この魚は、何じゃ? 」

 赤井が、焼き魚を載せた皿を箸で安治の方へよけた。

「これは、えっと」

 安治は、焼き魚を見つめた。形は、石持やイサキによく似ている。

色は、鯛よりも、赤く口の中が真黒だ。初めて見る魚であった。

「何じゃ。この店は、お主も知らぬ魚を客に出すのか? 」

 赤井は、安治が即答しないため、途端に、不機嫌になった。

「何分、勉強不足でして、申し訳御座いません。板場に、聞いて参りやす」

 安治は、腰を浮かせた。

客に不勉強を指摘されるとは、この上ない辱めである。

「おぬしが行く事はなかろう? 主なら、毅然と構えておらぬか。

軽子を呼んで聞きに行かせれば、良い話ではないか」

 日高が、安治を引き留めると耳打ちした。

「へぃ」

安治は冷や汗かきっぱなしだ。

「これ」

 日高が手を二回打った。すると、障子が、静かに開き、

外に控えていた軽子のおゆうが、座敷に入って来て、安治の隣に坐った。

「お呼びで御座いますか? 」

 おゆうはいつになく、おしとやかに聞いた。

「これが、何の魚なのか、板場に聞いて参れ」

 日高が威厳に満ちた声で命じた。

「聞くにはおよびません。のどぐろという名の魚で御座います」

 おゆうがすました顔で答えた。

「喉が黒いから、のどくろか。何とも、聞こえの悪い名じゃ。

腹黒という言葉に似ておるではないか。

拙者への皮肉とも取れない事もないのう」

 赤井がしかめ面で言った。

「その様な事は、断じて御座いません。

お気を悪くされたので御座いましたら、

他のモノと御取り替えさせて頂きやす」

 安治があわてて取り繕った。

「のどぐろは、越後では、美味な魚だといわれていますが、

江戸ではあまり、出廻っていない魚で御座います。

赤井様がお越しと知り、是非とも、お召し上がり頂きたいと、

板場に頼んでお出ししました。旦那様が、御存じでなかったのは、

私が直に、板場に頼んだ故の事で、旦那様に、非は御座いません」

 おゆうが毅然とした態度で告げた。

「知らぬ者から、格別の気遣いを受けるとは、いささか、気味が悪いのう。

何か、企みでもある様に思える」

 赤井が渋い顔をした。

「企むなんぞ、致しません。私は、十三の頃から、

七年間、代々、作事方の御役人を務めておられる鈴木家に、

下女として奉公しておりました。若様が、貴方様のお屋敷に度々、

お招きに預かった事を、今でもしかと覚えております。

あの頃、若様は、作事方の勘定役として、

各普請場を廻り、職人を監督する役に就いておりました。

貴方様とお会いし、つい、昔の事を思い出し、

しきりに、懐かしくなり、

出過ぎた事をしてしまいました。申し訳御座いません」

 おゆうが平謝りした。

「鈴木? はて、作事方に、左様な者がおったかのう」

 赤井が眉をひそめた。

「若様の名は、鈴木左門といいます。

明和の年に行われた西の丸普請の後、

貴方様は、若様の仕事ぶりを評価し、

褒美をお与えになられたでは御座いませんか? お忘れですか? 」

 おゆうが必死に訴えた。

「西の丸普請の後に、作事方から、

褒美を賜った者は、おぬしのお主だけではない。

他にも数人おった。いちいち、誰に与えたかまでは覚えておらぬ」

 赤井が気難しい口調で告げた。

「長居は無用だ。そろそろ、下がりなさい」

 日高が、厳しい口調で、安治とおゆうに退席を促したため、

安治は、おゆうと共に、百合之間を後にした。

「おゆう。おまえも、出過ぎた真似をしたものだ。

赤井様は、おまえの元お主の事なんぞ、

これっぽっちも、覚えていなかったではないか。

おまえが、余計な事をしてくれたせいで、

こっちは、とんだ、赤っ恥をかかされたぜ」

 安治が冷やかな口調で、おゆうをなじった。

「二度と、勝手な事は致しません。何卒、お許し下さい」

 おゆうが深々と頭を下げた。

「もう良い。過ぎた事は、水に流してやる。二度とするなよ」

 安治は、おゆうの顔を覗き込むと優しい声を掛けた。

「ありがとう存じます」

 おゆうが明るい顔で、持ち場に戻って行った。
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