第52話 みせかけ

文字数 3,805文字

伊三郎が、牢死したと聞いたおかめは、

伊三郎を遊客ではなく、一人の男として愛していた事に気づき、

伊三郎を受け入れなかった事を後悔した。

その一方で、父親が、伊三郎から、

「宝来屋」が作事奉行に「まいない」を渡した事を聞いたせいで

口封じの為に殺害された事を知ったおたつは、

伊三郎の死を複雑な思いで受け止めた。

伊三郎の亡骸は、家族や親戚縁者がいないという事で、

無縁仏として埋葬された。伊三郎の牢死を受けて、

罪人が死ぬまで、拷問を加えた火附盗賊改のやり方は不当だとして、

賢三郎は、八丁堀の旦那衆を代表して奉行所に上訴した。

賢三郎から、上訴の申し状を受け取った

南町奉行の山村良旺は、火附盗賊改頭の堀秀隆をはじめ、

先手組頭配下の火盗改を加役された与力と同心に、

厳重注意を行い、行きすぎた吟味の再発を抑止する様に命じた。

「井坂の旦那。昨夜、月方平七郎を

浅草寺の近くで見たという者がおります。

ひょっとして、月方は、江戸に帰って来ているのでは御座いませんか? 」

 巡回の途中、太兵衛が気になる事を言った。

「そのネタの出所はどこだ? 火盗改には伝わっているのか? 」

 賢三郎は、月方が逃亡してからというものの、

何度もガセネタをつかまされ、

苦い思いを味わっていた事もあり慎重になっていた。

「この度は、有力なネタです。月方を見た者は、

中村座で木戸番をしている平吉という野郎です故、

間違えるはずが御座いません。

あいつが隠れそうな所といえば、やはり、吉原ですかね? 」

 太兵衛は、火附盗賊改よりも先に、

月方を捕縛すると意気込みを見せた。

「でかしたぞ。早速、今晩、乗り込もう」

 賢三郎は、火附盗賊改に気づかれない様に、

細心の注意を払い、捕縛の準備をするよう小者二人に命じた。

 夜も更けた頃、賢三郎達を乗せた猪牙舟は、

隅田川を遡って、隅田川湖畔にある真崎稲荷に近い舟着き場に着いた。

太兵衛に、月方平七郎の情報をたれこんだ男とは、、

真崎稲荷の参道沿いに店を構える茶屋で待ち合わせていた。

真崎稲荷の周りには、田楽が評判の店が軒を並べており、

吉原に繰り出す前に、ここで、田楽を食べるのが通と言われ、

遊客たちの間で流行っている。

賢三郎が、小者二人を随えて、参道を歩いて行くと、

数メートル先にある茶屋の店先で、

編笠を深く被った浪人が、賢三郎たちを見ていた。

「あの者の様です」

 太兵衛が、編笠を深く被った浪人を指差した。

「おめえが、月方平七郎の居所をたれこんだのか? 」

 賢三郎は、編笠を深く被った浪人の隣に坐ると、慎重に訊いた。

「いかにも。あいつは、今、近江屋のとしという遊女の元におります。

急いで、下せえ。どうやら、こちらの動きに気づいた様で、

近江屋の若衆が、あいつの為に、舟を頼んでいるのを見ました。

今日中に、江戸を出るかも知れません」

 編笠を深く被った浪人は、低い声で告げた。

「相分かった。逃がすものか。この手で、お縄にしてやらあ」

 賢三郎たちは、威勢良く茶屋を飛び出すと吉原まで疾走した。

大門をくぐると、そこは、別世界。大小の妓楼をはじめ、

茶屋、料理屋などが所狭しと軒を並べる通りは、

江戸見物や遊女買いに来た男たちで、大いに賑わっていた。

格子の座敷に並ぶ遊女たちはあの手この手で、

格子越しに見物している遊客たちに誘いをかけている。

賢三郎たちは脇目も振らず、「近江屋」に向かった。

「近江屋」の玄関は、引手茶屋で酒宴をした後、

遊女を連れて妓楼にやって来た遊客たちで混雑していた。

「八丁堀の旦那。急に、お越しになられては困ります。お待ち下され」

 「近江屋」の主、近江屋次郎左衛門達は、

突然、押しかけて来た賢三郎達にあわてふためいた。

賢三郎たちは、若衆の制止を振り切ると、

階段を駆け登り、二階の奥にあるとしの部屋の前に突進した。

階下から聞こえる喧噪をよそに、としの部屋は、

本来ならば、艶めかしい息づかいや

床のすれる物音がしても良さそうなものだが、静寂に包まれていた。

太兵衛は慎重に、戸を少しだけ開けて中をのぞき見た。

すると、としらしき女の白い足が二本、

布団の外に投げ出されているのが見えた。

「井坂の旦那。やばい事になりました」

 太兵衛の背後から、首を伸ばして、

部屋の奥を覗き見た忠蔵が、振り向き様に叫んだ。

三人は、我先にと部屋に飛び込んだ。

三人の視界に飛び込んで来たのは、

血に染まった布団の上に、二人、重なり合う様にして

息絶えている月方平七郎ととしの姿であった。

賢三郎は、月方に、太兵衛は、としの傍にそれぞれ駆け寄ると脈を診た。

二人は、既に、息を引き取っていた。

すぐさま、奉行所に、報せが行き、

検屍役として、与力の日高五郎が現れた。

賢三郎は、日高が、検屍の準備をしている間、周囲を見回した。

賢三郎は、枕元に、盃が二つ置かれている事に気づき、

盃を手に取ると、匂いを嗅いでみた。

盃に、独特の甘い香りが残っていた。

賢三郎は、ふと、思い立ち、月方の唇と掌の匂いを嗅いだ。

どちらにも、盃にあった残り香と同じ匂いはしなかった。

「状況からみて、互いに、手首を切り、心中を図ったと思われる」

 日高は、神妙な面持ちで告げた。

「いんにゃ、違う。今一度、診てくんねえし」

 賢三郎は、としの唇に顔を近づけて、

残り香を確認した後、としの口を両手でこじ開けた。

としの舌根は、喉の奥に落ちていた。

恐らく、全身麻痺に陥った際、

舌根が落ち、気道が塞がれ、窒息死したと思われる。

独特の甘い香りは、大麻の特徴であり、

その臭気は、容易に消えるものではない。

賢三郎は、父の遺品の書物で読んだ逸話を覚えていた。

「麻沸散」を湯で抽出した物を飲ませ、

病人を眠らせようとした医者が扱いを誤り、

病人を死亡させたという内容だ。

「麻沸散」の材料の一つは、大麻とあった為、

盃の残り香を嗅いで、ピンと来たのだ。

「これは、舌根沈下である。としの死因は、失血死ではなく窒息死というわけか。

としが毒を飲んで自害したのであれば、月方も同じはずだ」

 日高は、月方の口を両手でこじ開けたが、

月方には、舌根沈下の症状はみられなかった。

月方の死因は失血死とされた。

「日高様。月方は、としが死んでいるのを見つけて、

己に、殺害の疑いがかけられる事を怖れ、

相対死に処される様に、手首を切ったのでは御座いませんか? 」

 賢三郎は、思わず、口走った。

しかし、日高は、それに返答する事なく、部屋を後にした。

賢三郎は、日高の態度が、気になり追いかけた。

賢三郎が、日高に追いついた時、

日高は、大門の前に待たせていた駕籠に乗り込むところだった。

「日高様。出過ぎた真似を致しまして、申し訳御座いませんでした」

 賢三郎は、駕籠の前に行くと頭を下げて詫びた。

「今夜は、お手柄であった。

おぬしの父上は、腕っぷしは弱かったが、

何故だか、医学に通じていた。怪死体があがると、

真っ先に、あいつが呼ばれた。

拙者は、それが口悔しくて、いつか、おぬしの父上を負かしたくて、

必死に、勉強したものだ」

 日高は、駕籠の中で告げた。

賢三郎は、日高を乗せた駕籠が遠ざかるまで

見送った後、急いで、部屋に戻った。

「井坂の旦那。どちらまで行っていたのですか? 

検屍結果が、相対死とされた故、

二人の亡骸は、埋葬を許されないそうな。

何だか、後味の悪い結末となりましたね」

 太兵衛が沈んだ声で告げた。

「井坂の旦那。これを見てくんねえし。としの遺留品の中にあった物です」

 忠蔵が、御守り袋を持って来た。それは、安産のお守りだった。

「忠蔵。としの亡骸を小石川養成所に運ぶ様に伝えろ」

 賢三郎は、安産の御守り袋を見て、

ハッとして、あわてて、忠蔵に命じた。

翌日。賢三郎は、検屍の結果が出たという報せを受け取り、

小者二人を随えて、小石川養成所に駆けつけた。

小石川養成所には、臨時の医師に採用された村居が待っていた。

「おぬしが、にらんだ通り、としは、身ごもっていた。

恐らく、大麻を服用し、腹の子をおろそうとして、毒の量を見誤ったのだろ」

 村居が冷静に告げた。

「月方は、としが、身ごもっていた事を知っていたと思われますか? 」

 賢三郎は、最悪な事が現実とならぬ様に祈る気持ちで聞いた。

「所詮、死んだ二人だけにしか、判らぬ事だ」

 村居は、渋い顔をした。賢三郎は、としの死因を事故死とした。

唐物抜荷の薬種類を不正の値段で売った

詐欺罪を問われていた月方平七郎は、

江戸十里四方追放に処されるはずだったが、

としの死体を相対死と見せかけようとした罪が加わり遠島となった。

二つの事件は、主謀者が、処罰を受けたという事で、一応、落着となった。

季節は、秋に移り変わっていた。

賢三郎は、女房のノブにせつかれて、神田明神に来ていた。

神田明神では、祭礼が行われており、

三六本の山車が出て、賑わいを見せていた。

「何だか、これまでの事が、遠い、昔の様に感じられますね」

 ノブは、山車を見物しながらふとつぶやいた。

賢三郎は、道の向かい側に目を向けた。

向かい側の沿道で、山車を見物していたおたえとおたつ親子が、

賢三郎に気づいて会釈したのが見えた。

その頃、弥兵衛は、屋敷の庭で焚火をしていた。

傍らには、編笠と古い着物、そして、薬草の束が、積み置かれていた。

おかめが、縁側に出た時、弥兵衛は、傍らに置いていた物を焚火に投げ入れた。

黒い煙が、龍の如く、青い空に立ち昇った。
                                   完
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