第37話 弥兵衛

文字数 2,734文字

その日の夜。太兵衛と忠蔵は、「亀弥」に来ていた。

おそのから、村居の医院からとんずらした弥兵衛らしき男が、

菊之間に居るという情報を得たからだ。

二人は、賢三郎の怒りを怖れて、

弥兵衛が居なくなった事がばれる前に、捕まえようと目論んでいた。

「何だか、隠密みたいですね」

 菊之間から出て来たおそのは、

庭に隠れていた太兵衛を手招きすると耳打ちした。

「弥兵衛は、居るのかい? 」

 太兵衛は、おそのの話を聞き流すと訊いた。

「おりましたけれど、宝来屋の御隠居と、

その妾と思わしき女子が一緒でした。

今、踏み込んでは、何かと、やばい事になるのでは御座いませんか? 」

 おそのが小声で言った。

「何とか、弥兵衛を外に連れ出せねぇかな? 

さすがに、他のお客がいる前では、親分なくして、

わしらだけで、あいつをしょっぴけねぇだろ」

 忠蔵が小声で言った。

「ここまで来たら、あとはやるしかなかろう。

あいつをしょっぴいて吐かせなければ、

安治兄貴をお救いする事は出来ねえ。

親分を頼らずとも、わしらだけで、

やれるところを見せる好機ではないか? 」

 太兵衛がやる気満々だった。

「しからば、作戦を練らねば。何か、良い策はないか? 」

 忠蔵はあろう事か、おそのに聞いた。

「厠に立ったところを狙ったらどうだい? 

一気に、襲いかかって、一人が、弥兵衛の口を塞いで、

もう一人は、弥兵衛を動けない様に、羽交い絞めにするわけさ。

さすれば、弥兵衛も、声を上げて騒げないだろ」

 おそのが目を輝かせると言った。

「おその。おまえさんは、軽子にしておくのは、勿体ねぇぜ。

くのいちになれるのではないかい? 」

 忠蔵が、おそのをおだてた。

「嫌だよ。忠さん。その気にさせないでおくれよ。

弥兵衛に、たんまりと酒を呑ませて、

厠に行かせなくてはならないねえ。

こうしちゃあ、いられない。酒を持って来なくちゃ」

 おそのは、廊下に戻ると足早に板場に向かった。

「上手く行くのかね」

 太兵衛が溜息をついた。

「兄貴が、言い出した事じゃないか? 

わしは、井坂の旦那を騙す様な事はしたくはなかった。

安治兄貴は、悪運が強い。

わしらが、頑張らなくても、出て来られるのではないか? 」

 忠蔵が気が進まない様子で言った。

「弥兵衛が、厠に立ったら、襲いかかる。わかったな? 」

 太兵衛が念を押した。

「あいよ」

 忠蔵は、気の抜けた返事をした。

菊之間の様子は、おそのが逐一、知らせてくれる事になっている。

賢三郎は、溜の帰り、伊藤の元に行くというから、帰りは遅くなるだろう。

賢三郎が、屋敷に帰宅する前に、

弥兵衛を捕まえておかなくてはならない。

村居には、弥兵衛がいなくなった事を口止めしておいた。

村居が話さなければ、すべて上手く行く。

二人はひたすら、弥兵衛が、厠に立つのを待つ事になった。

「亀弥」に来てから、一時間は経った。

おそのは、料理を出し終えた事もあり、

菊之間に出入りする回数は減っていた。

菊之間は他の座敷に比べると、静かだった。

「おそのは、何処に消えた? 

弥兵衛に、酒をしこたま呑ませて、

厠に立たせると豪語したわりには、

ちっとも、酒を運びに来ないじゃないか? 」

 太兵衛がしびれを切らした。

「弥兵衛は、ひょっとしたら、下戸なのかもしれねえ。

屋台では、お客に酒を出してねぇみたいだしさ。

さすがに、おそのも、下戸に、酒は勧められねぇだろ」

 忠蔵が冷静に言った。

「おい、今更、何を言っていやがる」

 太兵衛は、忠蔵の頭をこづいた。

「いてぇな、兄貴。やつあたりするなよ」

 忠蔵が頭を抱えた。

「ちっと、見て来やがれ」

 太兵衛は、忠蔵を無理矢理、偵察に行かせた。

忠蔵は、嫌々ながら、障子の前に坐ると、

障子の隙間から、中の様子を盗み見た。

心配した通り、妾を傍にはべらせ、赤ら顔で呑んでいる

「宝来屋」の御隠居に対して、

弥兵衛は、酔っぱらった様子は全く見られず、

「宝来屋」の御隠居のお酌に廻っていた。

忠蔵が、太兵衛に伝えるべきか悩んでいると、

中から、人が倒れる物音が聞こえた。

「御隠居」

 弥兵衛の声が聞こえたと同時に、障子が、勢い良く開いた。

忠蔵は、障子を開けた「宝来屋」の御隠居の妾と

思わしき若い娘と思わず目が合った。

「おまはんは、ここで何をしているんだい? 」

 小勝が強い口調で聞いた。

「おまえさんは、たしか」

 忠蔵が唖然とした。

「御隠居が、お倒れになった故、お医者を呼んでおくれ」

 小勝が毅然とした態度で告げた。

「あいよ」

 忠蔵は、弥兵衛を捕える目的をすっかり忘れて、人を呼びに走った。

一方、偵察に行ったまま戻らない忠蔵に気をもんで今度は、

太兵衛が、菊之間をのぞきに行くと、中は、大変な事になっていた。

「おかめ。御隠居は、何処かお悪いのかい? 」

 弥兵衛は、顔面蒼白の状態で横たわる

「宝来屋」の御隠居を介抱しながら、小勝をいじめた。

「どこも悪くないはずだよ。どうしちまったのかねえ」

 小勝は、「宝来屋」の御隠居の顔をのぞき込んだ。

少しして、忠蔵が戻って来た。

「お医者は、いつ、来られるんだい? 」

 小勝がキツイ口調で聞いた。

「お医者は、今、店の者に呼びに行かせた。

代わりと言っては何だが、板長を呼んだ。

すぐ、来るはずだ。ところで、姉さんは、山城屋の小勝ではないか? 」

 忠蔵が、小勝を問い詰めた。

「左様ですけど」

 小勝がぶっきらぼうに返事した。

「御隠居」

 弥兵衛は、気を失った「宝来屋」の御隠居のからだを

あわてふためいた様子で揺さぶった。

「御隠居は、死んだのかい? 」

 小勝が冷めた口調で聞いた。

「いんにゃ、心の臓はまだ、動いておる」

 忠蔵は、村居の真似をして、

「宝来屋」の御隠居の胸に耳を押しつけると心臓の音を聞いた。

しばらくして、長八が、村居を連れて駆けつけた。

「先生、何卒、御隠居をお救い下せえ」

 弥兵衛がその場に土下座した。

「今朝は、変わった様子はなかったかい? 」

 村居が、小勝に聞いた。

「はい。いつも通りでした」

 小勝が強張った表情で答えた。

「ひょっとして、酒に、何か入っていたのではあるめえ? 」

 弥兵衛は、おそのをちらりと見た。

「わたいが、お客に、毒を盛るはずがないじゃないか」 

 おそのがまっこうから否定した。

「さすれば、料理か」

 弥兵衛は、今度は、長八の方を見た。

「料理に、毒が盛られていたら、

お客様も、今頃、無事ではいられねぇはずですぜ」

 長八が冷やかに告げた。

「先生、どうなんだい? 」

 忠蔵は、村居がなかなか、診察結果を告げない事に苛立った。

「生姜湯を板場に頼んで、作ってもらって来なさい」

 村居は、おそのに命じた。

「生姜湯を飲めば、良くなるのですか? 」

 長八が不思議そうに聞いた。

「たいした事はない。ただの風邪だ。

安静にしていればすぐ、治る」

 村居が言った。
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