第5話 本所の番犬
文字数 2,478文字
「左様な事は出来ません。私も参ります」
おたつが思い詰めた表情で告げた。
「吉原に行ったら、近江屋のとしを訪ねるといいさ。
平七が、よろしく申していたと伝えれば、必ずや、助太刀するはずだ」
月方が別れ際に言った。
「ありがとう存じます」
おたつがはずかしそうに礼を述べた。
「兄さん。疑ったりして御免よ」
賢三郎が、月方に言った。
「礼には及びません」
月方が飄々とした様子で言った。
「ひょっとして、大部屋役者の
五十茨を舞台に立たせたのは、兄さんかい? 」
安治が思いついた様に聞いた。
「いんにゃ、違います。わしに、そんな力、ありゃしませんよ。
その日、急病で出演出来なくなった役者がいましてね。
遅咲きの桜だが、大部屋役者の中で、
頭角を現す様になった五十茨を推す声があり、
出演する事になったわけさ」
月方が朗らかに告げた。
「歌舞伎役者てぇのは、舞台の外にいても花があるねえ」
楽屋を出るなり、安治が、溜息交じりにつぶやいた。
「そうさね。おめえとは、月とすっぽんだやね」
賢三郎がニヤニヤ笑った。
「あの人は、突然、押しかけたにも関わらず、
見ず知らずの私どもに、親切にして下さいました。
まことに、お優しいお方です」
おたつはすっかり、骨抜きにされたという感じだ。
「安治。ぼさっとしていねぇで、さっさと、行って来いや」
賢三郎が、安治にはっぱをかけた。
「あいよ」
安治は、おたつをチラ見して返事した。
一方、賢三郎は、戸惑うおたつの腕を取ると、
強引に、八丁堀の組屋敷まで連れて行った。
賢三郎は、一旦、屋敷に戻ると、ノブに、おたつを託した。
その足で、小者の太兵衛、忠蔵の兄弟を随えて奉行所に出仕した。
「よお、井坂。今日はまた、遅い出仕じゃねぇか」
門の前で、与力の日高五郎とすれ違った。
その時、賢三郎は軽く会釈しただけで、
通り過ぎようとしたが、そうは行かなかった。
「挨拶せずに、素通りするとは何たる事だ。
話しかけられたら、応えるのが礼儀というものだろ。
年輩者をないがしろにするとはけしからん奴め」
日高は、賢三郎の前に立ちはだかると文句を言った。
「すいやせん。かんげえ事していたもので、うっかりしました」
賢三郎が平謝りした。
「近頃、見かけねぇと思っていたが、
上役から、命ぜられたわけでもねぇのに、謹慎していたそうだな? 」
日高が咳払いした。
「はい、まあ」
賢三郎が笑ってごまかした。
「今頃、出仕したという事は、あれは、まだ、聞いてはおらぬな?
昨夜、吉原の遊女が逃げて、大騒ぎになったそうな」
日高が、仕入れた情報を誰かに伝えたくて待ち構えていたのだ。
「それは、まことで御座いますか? 」
賢三郎が、話を合わせてのったふりをした。
「何だ、おぬしも、吉原の事件に関心があるのか? 」
日高がうれしそうに言った。
「はい、まあ」
賢三郎が、落ち着かない様子で言った。
「おぬしが、女郎買いをしているとは思えねえ。
どうせ、事件絡みであろう」
日高が目ざとく言った。
「実は、安治の野郎がまた、厄介な事件を持ち込んだ次第です」
賢三郎が苦笑いした。
「おぬしは、まことに、あの本所の番犬と呼ばれた名同心の倅なのかね」
日高が渋い顔をした。
「父上が、名同心なんぞ聞いた覚えが御座いませんよ」
賢三郎がやんわりと否定した。
賢三郎から見た父の新三郎は、書物好きの寡黙な人だった。
毎日、朝夕の巡回だけは、欠かさなかった様だが、
「本所の番犬」と呼ばれる様な強い人間だったという記憶はない。
「拙者が、今まで、おぬしに、嘘をついた事があったか?
まことに、おぬしのお父上は、
本所や深川のごろつきから怖れられた名同心だった。
本所の番犬にしょっぴかれた罪人は、
どんな極悪人であろうと二度と、
悪事を働く事はなかったという伝説があるぐれえだ。
本所の番犬と怖れられた男が、
疫病であっけなく逝っちまうとは、未だに信じられねえ。
本所の七不思議の一つに、数えられるのではないか? 」
日高が強く反論した。
「父上は、よく、入墨者の請け人となって、
仕事や住まいを世話していたそうな。
故に、本所の番犬なんぞと呼ばれる様になったのでしょうよ」
賢三郎が覚え語った。
新三郎が、疫病にかかり、この世を去ったのは、
二年前の話だが、新三郎は生前、
仕事が忙しく、家を留守にする事が多かったため、
もう、この世にいないという実感が持てず、
新三郎は、長い旅に出ていて、
その内、ひょっこり、帰って来るのではないかと思う時さえもあった。
「本所の番犬も、疫病にかかりさえしなければ、
無縁仏同然に、葬られる事もなかったんだ。
新さんが、亡くなった後、御番所では、
本所の番犬を手厚く葬ってやろうとの話が持ち上がったのだが、
これ以上、病が広まる事を怖れた御上が、
身分に限らず、疫病で亡くなった者の屍を、
町外れの裏山に集めて燃やせという触れを出したわけだ」
日高が目頭を押さえた。
「しかたがあるめえ。父上が、犬死なされたのは、
病に対する怖れがそうさせたわけさ。
それより、その逃げたっていう遊女は、見つかりそうですか? 」
賢三郎が話題を変えると、
日高は、賢三郎を門の脇に引きずり込んだ。
「ここだけの話だが、会所の元締めは、
はなっから、番所の連中をアテにはしてねえ。
てめえの息がかかった手下を、市中に、放ったそうな」
日高が、賢三郎に耳打ちした。
「そいつはおもしれえ」
賢三郎がにやりと笑った。
昼夜限らず、江戸市中を駆けずり廻って探索している町方と違い、
吉原側の接待やつけ届けにあぐらをかいている
吉原同心を、賢三郎は、軽蔑していた。
吉原の警備にあたるべき番所は、
みすみす、遊女を取り逃がしたのだ。
もし、このまま、遊女が見つからないともなれば、評判はガタ落ちだ。
「おぬしも、せいぜい、飼い犬に、
手を噛まれねぇ様に、気をつける事だ」
日高は、意味深な台詞を残して去った。
賢三郎は、三年前に記された捕物帖を洗い直し、
二人の武士の死に繋がる未解決事件を今一度、整理し直す事にした。
日高と別れた後、賢三郎は、小者二人を随え、
過去の捕物帖が保管されているという蔵に向かった。
おたつが思い詰めた表情で告げた。
「吉原に行ったら、近江屋のとしを訪ねるといいさ。
平七が、よろしく申していたと伝えれば、必ずや、助太刀するはずだ」
月方が別れ際に言った。
「ありがとう存じます」
おたつがはずかしそうに礼を述べた。
「兄さん。疑ったりして御免よ」
賢三郎が、月方に言った。
「礼には及びません」
月方が飄々とした様子で言った。
「ひょっとして、大部屋役者の
五十茨を舞台に立たせたのは、兄さんかい? 」
安治が思いついた様に聞いた。
「いんにゃ、違います。わしに、そんな力、ありゃしませんよ。
その日、急病で出演出来なくなった役者がいましてね。
遅咲きの桜だが、大部屋役者の中で、
頭角を現す様になった五十茨を推す声があり、
出演する事になったわけさ」
月方が朗らかに告げた。
「歌舞伎役者てぇのは、舞台の外にいても花があるねえ」
楽屋を出るなり、安治が、溜息交じりにつぶやいた。
「そうさね。おめえとは、月とすっぽんだやね」
賢三郎がニヤニヤ笑った。
「あの人は、突然、押しかけたにも関わらず、
見ず知らずの私どもに、親切にして下さいました。
まことに、お優しいお方です」
おたつはすっかり、骨抜きにされたという感じだ。
「安治。ぼさっとしていねぇで、さっさと、行って来いや」
賢三郎が、安治にはっぱをかけた。
「あいよ」
安治は、おたつをチラ見して返事した。
一方、賢三郎は、戸惑うおたつの腕を取ると、
強引に、八丁堀の組屋敷まで連れて行った。
賢三郎は、一旦、屋敷に戻ると、ノブに、おたつを託した。
その足で、小者の太兵衛、忠蔵の兄弟を随えて奉行所に出仕した。
「よお、井坂。今日はまた、遅い出仕じゃねぇか」
門の前で、与力の日高五郎とすれ違った。
その時、賢三郎は軽く会釈しただけで、
通り過ぎようとしたが、そうは行かなかった。
「挨拶せずに、素通りするとは何たる事だ。
話しかけられたら、応えるのが礼儀というものだろ。
年輩者をないがしろにするとはけしからん奴め」
日高は、賢三郎の前に立ちはだかると文句を言った。
「すいやせん。かんげえ事していたもので、うっかりしました」
賢三郎が平謝りした。
「近頃、見かけねぇと思っていたが、
上役から、命ぜられたわけでもねぇのに、謹慎していたそうだな? 」
日高が咳払いした。
「はい、まあ」
賢三郎が笑ってごまかした。
「今頃、出仕したという事は、あれは、まだ、聞いてはおらぬな?
昨夜、吉原の遊女が逃げて、大騒ぎになったそうな」
日高が、仕入れた情報を誰かに伝えたくて待ち構えていたのだ。
「それは、まことで御座いますか? 」
賢三郎が、話を合わせてのったふりをした。
「何だ、おぬしも、吉原の事件に関心があるのか? 」
日高がうれしそうに言った。
「はい、まあ」
賢三郎が、落ち着かない様子で言った。
「おぬしが、女郎買いをしているとは思えねえ。
どうせ、事件絡みであろう」
日高が目ざとく言った。
「実は、安治の野郎がまた、厄介な事件を持ち込んだ次第です」
賢三郎が苦笑いした。
「おぬしは、まことに、あの本所の番犬と呼ばれた名同心の倅なのかね」
日高が渋い顔をした。
「父上が、名同心なんぞ聞いた覚えが御座いませんよ」
賢三郎がやんわりと否定した。
賢三郎から見た父の新三郎は、書物好きの寡黙な人だった。
毎日、朝夕の巡回だけは、欠かさなかった様だが、
「本所の番犬」と呼ばれる様な強い人間だったという記憶はない。
「拙者が、今まで、おぬしに、嘘をついた事があったか?
まことに、おぬしのお父上は、
本所や深川のごろつきから怖れられた名同心だった。
本所の番犬にしょっぴかれた罪人は、
どんな極悪人であろうと二度と、
悪事を働く事はなかったという伝説があるぐれえだ。
本所の番犬と怖れられた男が、
疫病であっけなく逝っちまうとは、未だに信じられねえ。
本所の七不思議の一つに、数えられるのではないか? 」
日高が強く反論した。
「父上は、よく、入墨者の請け人となって、
仕事や住まいを世話していたそうな。
故に、本所の番犬なんぞと呼ばれる様になったのでしょうよ」
賢三郎が覚え語った。
新三郎が、疫病にかかり、この世を去ったのは、
二年前の話だが、新三郎は生前、
仕事が忙しく、家を留守にする事が多かったため、
もう、この世にいないという実感が持てず、
新三郎は、長い旅に出ていて、
その内、ひょっこり、帰って来るのではないかと思う時さえもあった。
「本所の番犬も、疫病にかかりさえしなければ、
無縁仏同然に、葬られる事もなかったんだ。
新さんが、亡くなった後、御番所では、
本所の番犬を手厚く葬ってやろうとの話が持ち上がったのだが、
これ以上、病が広まる事を怖れた御上が、
身分に限らず、疫病で亡くなった者の屍を、
町外れの裏山に集めて燃やせという触れを出したわけだ」
日高が目頭を押さえた。
「しかたがあるめえ。父上が、犬死なされたのは、
病に対する怖れがそうさせたわけさ。
それより、その逃げたっていう遊女は、見つかりそうですか? 」
賢三郎が話題を変えると、
日高は、賢三郎を門の脇に引きずり込んだ。
「ここだけの話だが、会所の元締めは、
はなっから、番所の連中をアテにはしてねえ。
てめえの息がかかった手下を、市中に、放ったそうな」
日高が、賢三郎に耳打ちした。
「そいつはおもしれえ」
賢三郎がにやりと笑った。
昼夜限らず、江戸市中を駆けずり廻って探索している町方と違い、
吉原側の接待やつけ届けにあぐらをかいている
吉原同心を、賢三郎は、軽蔑していた。
吉原の警備にあたるべき番所は、
みすみす、遊女を取り逃がしたのだ。
もし、このまま、遊女が見つからないともなれば、評判はガタ落ちだ。
「おぬしも、せいぜい、飼い犬に、
手を噛まれねぇ様に、気をつける事だ」
日高は、意味深な台詞を残して去った。
賢三郎は、三年前に記された捕物帖を洗い直し、
二人の武士の死に繋がる未解決事件を今一度、整理し直す事にした。
日高と別れた後、賢三郎は、小者二人を随え、
過去の捕物帖が保管されているという蔵に向かった。
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