第43話 証文

文字数 1,962文字

おたつと喧嘩別れした後、おかめは真っ直ぐ、家に帰る気分になれず、

何する訳でもなく、盛り場を彷徨った。

おかめが、門前町にある飯屋で、遅い夕食を食べている頃、

伊三郎は、証文を盗み出す為、「宝来屋」の屋敷の庭に忍び込んでいた。

「宝来屋」の塀は高く、越えるのに、一苦労であった。

庭はただ広く、屋敷まで距離があった。

身を隠す事の出来る高木や茂みが見当たらず、

屋敷の者に気づかれるのではないかという緊張感があった。

身のこなしが素早く、忍び足が得意な伊三郎は影の如く、

庭を走り抜けると、いとも簡単に、屋敷の屋根に飛び移った。

それから、伊三郎は、二時間余り、

屋根の上で、辺りが暗くなるのをひたすら待った。

亥の刻。屋敷の者達が寝静まったのを見計らい、

伊三郎は、屋根裏に忍び込んだ。

ある所に来た時、天板を外して、下をのぞき見ると、

部屋の真ん中に、敷いた布団の上で、

白髪頭の年寄りが、一人で寝ているのが見えた。

伊三郎は、「宝来屋」の家族構成と

部屋割りをあらかじめ、頭に入れていたので、

そこが、御隠居の寝間だと確信があった。

伊三郎が、天井から、部屋に飛び降りて、

忍び足で、御隠居の近くを歩き回っていると、

御隠居が、伊三郎のいる方に寝返りを打った。

その時、伊三郎は、箪笥の引き出しを探っていた。

後ろを振り返ったら、御隠居の寝顔が近くに会ったので、

驚いて、思わず、声を出しそうになった。

弥兵衛は、寝間に隠してあるとしか言わなかった為、

手当たり次第、捜すしか方法がなく、時間がかかった。

下男が、見廻りに来る前に、証文を見つけ出して、

屋敷を出なければならず、気だけが焦った。

証文はなかなか、見つからなかった。

焦る余り、伊三郎は、大胆な行動に出た。

寝ている御隠居の枕元にある道具箱に手を伸ばしたのだ。

それは、蒔絵が施された螺鈿細工の道具箱で、

いかにも、高そうに見えた。

枕元に置いている事も考えて、中に入れている物は、

大事な物を入れているに違いないと直感で思ったのだ。

起こさない様に、手を伸ばしたが、

道具箱には、あと少しの所で届かなかった。

まごまごしている間に、御隠居が頭を動かした。

伊三郎がまずいと思い、手を引っ込めた。

次の瞬間、御隠居が、目を大きく見開き、伊三郎を捉えたのだ。

伊三郎が驚きの余り、のけぞった。

その時だった。障子に、提灯の灯りが映った。

「旦那様。変わった事は御座いませんか? 」

 障子の向こうから、下男の声が聞こえた。

「大事ない」

御隠居は、忍び込んだ伊三郎を目の前にして、動じる事なく告げた。

「左様ですか。何か、ありましたら、お呼び下せえ」

 下男が無事と聞き、去って行った。

伊三郎は、提灯の灯りが遠ざかるのを見て、安堵した。

「何故、助けを呼ばなかった? 」

 伊三郎は、御隠居が、伊三郎が侵入した事を

見廻りに来た下男に報せなかった事を不審がった。

「鼠一匹、迷い込んだぐれぇで、いちいち、騒ぎ立てたくはねえ。

おまえさんは素人だろ? 盗人ならば、

老いぼれの所に押し入っても、金目の物は、何もねぇとお見通しのはずだ。

この度だけは、見逃してやる。とっとと、失せやがれ」

 御隠居が布団に横になると、掛布団を頭から被った。

伊三郎は、御隠居が怖れるどころか、

平然と寝に入ったのを見て唖然とした。

しかし、戦利品を持ち去らないというのも癪だ。

そこで、伊三郎は、道具箱を失敬して堂々と、障子を開けて庭に出た。

先程、見廻りに来た下男が、

伊三郎に気づいて追って来るかと思いきや、

辺りは、静寂に包まれていた。

「伊三郎、そこにおるのだろ? 」

 塀の向こう側で、しゃがれた声が聞こえた。

伊三郎は、声の主を察して、塀の上に飛び移った。

「その声は、おかめのおやじさんかい? 」

 伊三郎が下を見下ろした。

編笠を被った浪人が、塀の下で見上げているのが見えた。

「今夜辺り、忍び込むかと思って来てみたのだ。

証文は、手に入れたのか? 」

 弥兵衛ははなっから、伊三郎を信用していなかったらしい。

「わしが、証文を横取りするとでも思ったのかい? 」

 伊三郎は、颯爽と、弥兵衛の目の前に飛び降りると頭巾を外した。

「小脇に抱えているのが、証文入の道具箱だな? 」

 弥兵衛は、伊三郎が、小脇に抱えていた道具箱を目ざとく見つけた。

「これを渡したら、約束通り、おかめを嫁にくれるのだよな? 」

 伊三郎が念を押した。

「ああ。男に、二言はねえ」

 弥兵衛が、落ち着かない様子で言った。

「ほらよ、お望みの品だ。たしかに、渡したぜ」

 伊三郎が、道具箱を弥兵衛に手渡した。

「盗人だ。盗人がいるぞ」

突然、弥兵衛が大声を上げた。

すると、足音と共に、提灯の灯りが近づいて来た。

「弥兵衛、何のつもりだ? 」

 伊三郎ががなった。

「おめえには、おとりになってもらう。あばよ」

 弥兵衛は、伊三郎を一人、残して全速力で走って逃げた。

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