第1話 おもわぬ客

文字数 2,369文字

天明六年、七月。江戸は、連日、大雨が続き、

深川、亀戸、下谷、浅草等、江戸中が浸水に見舞われ、

中でも、千住の民家は、水位が鴨居まで達した。

両国橋、新大橋、永代橋等、江戸の名だたる橋が、

近隣の河川の氾濫により、破壊されて流失するという深刻な被害を受けた。

八丁堀の周辺も、各所に、大きな水たまりが出来て、

歩く事さえままならない状態であった。

横殴りの風が吹く、ある朝の事だった。

町方同心の井坂賢三郎とその妻、ノブが暮らす八丁堀の組屋敷を訪ねる者があった。

戸を叩く物音に気づいたノブは、隣で眠る賢三郎の肩を揺さぶり起こした。

「ちょいまち。今、出っからよ」

 賢三郎は、欠伸を噛み殺しながら、建て付けの悪い戸を勢いつけて開けた。

「朝早くに、押しかけまして、申しわけ御座いません。

こちらは、町方同心の井坂賢三郎様のお住まいで、相違御座いませんか? 」

 大雨の中、なりふり構わず走って来たのだろう。

戸口に立つ若い娘は、頭の先から爪先まで、全身ずぶ濡れの状態で打ち震えていた。

「わしが、その井坂だが。お嬢さんは、何者だい? 」

 賢三郎は、その若い娘の顔を怪訝な表情で覗き込んだ。

「申し遅れました。私は、三年前まで、御鳥見組頭を務めておりました

佐野鷹介の娘、おたつと申します。井坂様に、

是非とも、御相談したき事があり参上致しました」

 おたつは、真っ青な唇を震わせながら気丈に答えた。

「やぶから棒に何だい? けぇってくんないか? 」

 賢三郎は、迷惑そうに告げた。

「せめて、話だけでも聞いて頂けませんか? 

昨夜から、母上が、家に帰って来ないのです。

今、母上を一人にしたら、何をしでかすか分かりやしません。

私一人では、手に負えず、気がついたら、ここに来ておりました。

何卒、母上をお助け下され」

 おたつはその場に土下座した。

「おい、何のつもりだい? 冗談は、よしてくんないか」 

 賢三郎はあわてて、おたつを立たせると周囲を窺った。

幸い、大雨の為か、おたつの声は、雨音でかき消され、

近所の住民が、出て来る気配はなかった。

「私どもが、父上を殺害したと疑う

元御鳥見役の五十川伊三郎の行方を捜して、

かれこれ、三年になりますでしょうか。

あの人を見たという手がかりを頼りに、

各地を転々として参りましたが、

半月程前、あの人が、帰ったという報せを江戸から受け取り、

三年ぶりに、江戸に帰った次第で御座います。

江戸に帰ってからというもの、久方ぶりに、

平穏な日々が続いたもので、いっその事、このまま、

あの人が見つからない方が、親子二人、

一からやり直せるのではないかと考えるに至りました。

一昨日、思い切って、母上に、あの人を捜すのは、

もう止めようと願い出ましたが、

母上は、頑なに、その願い出を拒みました。

今となっては、一時の迷いとはいえ、

あの人を捜す事を止めようと、母上に申した事が悔やんでなりません。

母上の心痛をもっと、思いやるべきでした。

私が思う以上に、母上は、思い詰めていたに違いありません」

おたつは、人目もはばからない大きな声で、

思いのたけを一気にぶちまけた。

「おや、まあ、ずぶ濡れじゃないですか。

放っておいたら、風邪をひいちまいますよ」

ノブは、おたつの肩を優しく抱くと、部屋の中へ引き入れた。

「ありがとう存じます」

 おたつは手渡された手拭で、

濡れた着物を叩く様に拭きながら、何度も頭を下げた。

「若い娘が、いくら、親の仇を捜す為とは云え、

三年もの間、根無し草の様な生活を送らされてきたとは、

気の毒な話じゃないですか」

 ノブは、おたつに、熱いお茶の入った湯飲み茶わんを手渡すと言った。

「お父上が、その五十川伊三郎って

野郎に殺害されたという考えに至るには、

しかるべきわけがあるにちげぇねえ」

 賢三郎も大きく頷いた。

「井坂様は、三年前、上様の御鷹が

怪死した事件を覚えておいでですか? 」

 おたつは、身を乗り出すと聞いた。

「ああ、覚えておるとも。

たしか、鷹匠の九里翫之介様が、

御鷹の死の責めを負い、自害なされた事件だろ」

 賢三郎はうっすらとだが、その事件を覚えていた。

三年前と云えば、浅間山の大噴火で、

日本中が、混乱の渦に巻き込まれていた時期で、

御鷹の死は、さほど、重要視されず、いつの間にか立ち消えていた。

「御鷹が変わり果てた姿で見つかった日。

宿直で居合わせた父上は、真っ先に、御鷹殺しを疑われました。

吟味から二日後、父上は叱を申し渡されて釈放されましたが、

実は、御鷹の餌となる雀を捕えたのは、あの五十川伊三郎でした。

評定所は、御鷹の死因が明らかにならぬというのに、

鷹匠の九里翫之介様を自害させ事件を落着しました。

その後の父上は、夜な夜な、酒を呑んで帰る様になり、

辻斬りに遭った日も、勘定の倉地愛助様と深川の料理屋で、

商人と会っていたと聞いております。

父上の死により、御家は、お取りつぶしとなり、

住んでいた屋敷は、生前、父上が請人となっていた

五十川伊三郎が残した借金のカタに取られて、

私どもは、路頭に迷いました。

一時は、父上の後を追おうなんぞと思いつめた事も御座いましたが、

あの人に、父上を殺害した罪を償わせたい一心で、

自害を思いとどまりました。

ようやく、あの人を見つけ出したという時に、

母上がいなくなってしまい、途方に暮れていた矢先、

井坂様の武勇伝を伝え聞き、お願いに上がった次第に御座います」

 おたつは、思い詰めた様子で語った。

「お嬢さん。中村座の隣にある芝居茶屋で働いていませんか? 」

 ノブが、思い出した様に告げた。

「左様に御座います。実は、母上と古い友だというお方が、

私どもの住まいと、私の働き口を捜して下さったのです」

 おたつがはきはきと答えた。

「芝居茶屋に口利きが出来るとは、

よっぽど、顔が広いお方なのだろうねえ。

何をなさっているお方なんですか? 」

 ノブが興味津々で聞いた。


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