第10話 しらばっくれ

文字数 2,153文字

「もう、ここは良いから、おまえは、他の座敷につきなさい」

 安治は、おそのから鯛の姿焼きの皿が

載ったお盆を奪い取ると、おそのを体よく追い払った。

「鉢肴をお持ちしました」

 安治が深呼吸した後、愛想の良い声で、中に、声を掛けた。

「どうぞ」

 渋い声が返って来た。安治が慎重に、障子を開けて中に入った。

鉢肴の焼物を運ぶ間、安治は、四人を何気に観察した。

月方の向かい側に並んで坐っている男女は、

仲睦まじく恋人の様に見える。

月方は、安治を覚えていないらしく、

傍に近づいても、顔色一つ変えない。

「酒を、もう一本、追加してくんないか」

 月方がほろ酔い加減で告げた。

「かしこまりました」

 安治は、返事をした時、ふと、連れの女の御膳に目が行った。

女はあろう事か、前菜に添えた浅漬けの上に、お醤油をさしていた。

安治の視線に気づいてか、連れの女は、はずかしそうにうつむいた。

障子を閉めて、廊下に出た後、安治はふと考え込んだ。

「何か、分かったのかい? 」

 安治が、廊下に出るなり、

廊下の隅で待ち構えていた賢三郎が、安治に詰め寄った。

「おまさ。おまえは、浅漬けを食う時、醤油をかけるかい? 」

 安治が、横を通りかかったおまさを呼び止めて聞いた。

「わたいは、何もかけません。醤油をさしたら、

せっかくの風味が、台無しになっちまいますよ」

 理由のわからないおまさが、キョトンとした顔で答えた。

「全く、そのとおりだ」

 安治が大きく頷いた。

「いってえ、何なんだい? 」

 横で聞いていた賢三郎が、苛々して訊いた。

「浅漬けに、醤油をかけて食うのが、

当たり前の場所が、一つだけ御座います。吉原ですよ」

 安治が目を輝かせた。

「五十茨の事は、おめえに任せた」

 賢三郎がそそくさと、牡丹之間に戻った。

 牡丹之間に舞い戻った賢三郎は、障子を開けるのを躊躇った。

すっかり、安治の調子に乗せられて、

日高に、どう話を切り出せば良いのか、頭が真っ白になったからだ。

「刺身が来ておるぞ」

 賢三郎が、障子を開けると日高が言った。

「中座して、すいやせん」

 賢三郎は、腰を降ろすなり頭を下げた。

「用は済んだのか? 」

 日高は、賢三郎の猪口に酒を注いだ。

「へぃ」

 賢三郎が恐縮してお酌を受けた。

「話は何だ? 拙者を呼んだのは、世間話をする為ではなかろう」

 日高が、鰹の刺身を食べながら言った。

「美味ですな」

 賢三郎は、聞こえないフリをして、

鰹の刺身を二切れ口に放り込んだ。

「おぬしの父上とは、よく、朝まで呑んだものだ」

 日高が唐突に思い出話をした。

「まことで御座いますか? 父上は、下戸だったはずですぜ」

 賢三郎は、新三郎が、酒を呑んでいるところを見た事がなかった。

「おぬしの父上は、酔うと、大虎になるてんで、

女房から、子の前で呑むのを止められたと聞いた覚えがある」

 日高が、新三郎の意外な一面を暴露した。

「ところで、日高様。三年前に、

上様の御鷹が怪死した事件を覚えておられますか? 」

 賢三郎が改まって聞いた。

「ああ、よく、覚えておる。検屍をしたのは、拙者である」

 日高がニッと笑った。

「そう云えば、御鷹の死因が、明らかになっていねぇてのに、

あわただしく事件の捜査が、打ち切られましたよね」

 賢三郎が慎重に話を続けた。

「そうさね」

 日高が小さく頷いた。

「実は、あの事件で吟味を受けた

元御鳥見組頭の佐野鷹介様の家人が、

佐野様は、辻斬りに遭ったのではなく、

元御鳥見役の五十川伊三郎に殺害されたと疑い、

あいつを、三年もの間、追い続けているんですよ」

 賢三郎が、日高の御猪口に酒を注いだ。

「拙者を酔わせて、何を、吐かせるつもりだ? 」

 日高は、賢三郎から、お銚子をひったくるとがなった。

「佐野様を検屍したのも、日高様でしたよね? 

佐野様は、まことに、辻斬りに遭って亡くなられたので御座いますか? 」

 賢三郎が上目遣いで聞いた。

「佐野鷹介は、神道無念流の道場で、剣術指南役を務めた男だ。

あの者を殺害した辻斬りは、相当腕のたつ野郎だったにちげぇねえ。

捕物帖には、消されているが、

拙者は、肩先き、六寸ばかりの刀傷は、

柳生新陰流で斬られた時の傷と一致すると、評定所に伝え申した」

 日高が冷静に答えた。

「柳生新陰流で御座いますか」

 賢三郎が腕を組んで思案した。

「しがねえ武士の死にざまなんぞ、

評定所にとっては、取るに足らないという事だ」

 日高が不機嫌そうに言った。

「日高様は、それで、納得なされたので御座いますか? 」

 賢三郎が、日高の顔をじっと見つめた。

「納得も何も、拙者に、捜査の権限はありはせぬ」

 日高が口をへの字に曲げた。

「日高様が大人しく引き下がるとは、

どうにも、信じがたい話ですな」

 賢三郎は、日高五郎の気性をよく知っている。

納得が行かない事があれば、

例え、相手が上役だろうと構わず、抗議する姿を何度も見た覚えがある。

「もう良かろう。この話は、終いに致そう」

 日高が勢い良く席を立った。

「まだ、何も聞いておりせん。お待ち下され」

 賢三郎は慌てて、日高を引き留めた。

「良いか、井坂。長い物には、巻かれた方が、良い時もあるのだぞ」

 日高は、意味深な台詞を残して足早に帰って行った。

「親分。遂に、五十茨の野郎を見つけましたぜ」

 賢三郎が座敷を出ようと腰を浮かしたその時、安治がやって来た。


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