1-8
文字数 5,062文字
役目を終え、開放感と疲労感にひたりながら駐輪場で自転車を探していると、携帯が鳴った。穂村さんからメッセージが届いていた。
『今日はありがとう! これから少し時間ある?』
特に用事は無いことを伝えると、すぐに返信が来た。
『お礼に何かご馳走したいから、おやつでも食べようよ!』
つい胸が高鳴ったが、すぐにざわつきへと変わった。穂村さんは人目を引く。一緒にいるところを誰かに見られたらまずいのではないか。変な噂が立って、尾びれまでついた上で佐伯先輩の耳に入るかもしれない。それに何より、先ほどまでの穂村さん以上に僕が緊張する。
返信に迷っていると、また通知音が鳴った。位置情報が送られてきていて、すぐ近くを指していた。
『このお店の前に集合で!』
僕は結局、自転車を探すのをやめた。
携帯の地図アプリを頼りに向かうと、煉瓦造りの3階建ての建物の前に穂村さんの姿があった。今朝とはまるで違い、リラックスした表情で携帯を見ている。建物の1階が喫茶店になっているようだった。年季の入った外観をしていて、穂村さんの選択にしては少し意外に思った。
「お待たせしました」
「いえいえ、お疲れ様! 空いてるみたいだから、とりあえず入ろ」
穂村さんが重たそうな扉を引くと、カランコロンと音が鳴り、コーヒーの香りがした。ジャズのような音楽が聞こえる。正面にあるカウンターにひとり、年配の男性が座っているのが見えた。
店の奥から柔らかい笑みを浮かべた60代くらいの女性がやってきて、人数を尋ねた。穂村さんがピースサインと共に伝えると、好きな席に座るよう促された。店内には、カウンター席が5つと、テーブルが3つ。手前のふたつが4人がけで、奥のものが2人がけになっていた。僕らの他に客は、カウンターに座る男性ひとりだけのようだ。
穂村さんは振り返って僕を見た。大きな瞳は「どうする?」と聞いているようだった。「どこでも」と言うと、穂村さんは「じゃあ、あそこに」と2人がけのテーブルに向かった。
「なんでもどーぞ!」
穂村さんはテーブルに立ててあったメニューを僕に差し出す。見ると、コーヒーだけでもいくつか種類があった。豆の銘柄を示しているのだろうが、よく分からない。結局、穂村さんと同じケーキセットを注文した。セットにつけられるコーヒーはオリジナルブレンドなるものだけだったので、迷う必要が無かった。穂村さんは苺の乗ったショートケーキを、僕はチーズケーキを選んだ。
「こんな本格的な喫茶店に入るの初めてだ。純喫茶って言うんだっけ」
「そそ、雰囲気あるでしょ。電車を逃しちゃったときとかに寄るんだ。みんな、さっきのところのフードコートとかに行くから、結構穴場なんだよ」
改めて店内を見渡す。深いブラウンを基調としたレトロな雰囲気で、少し暗い暖色系の照明が落ち着きをもたらしている。夫婦で経営しているのだろうか、奥のキッチンでは、年配の男性がひとり、テキパキと準備をしていた。
視線を正面に戻すと、テーブルの向かいに穂村さんが座っている。現実感が無い。異性との交流という観点では間違いなく人生のピークを迎えている。この日、散々取り乱す姿を見て多少親近感を覚えたものの、やはり高嶺どころか雲の上、大気圏外の花だ。
「休みの日は、眼鏡をかけるの?」
その存在を自分でも忘れていて、返事がワンテンポ遅れた。
「あ、いや、今日だけ。ちょっとした変装になるかなと思って」
穂村さんはポカンとした後、「あはは」と口を開けて笑った。
「変かな?」
「ううん、似合ってるよ。面白いこと考えるなと思って。今日のために用意したの?」
「うん、一昨日たまたま見かけて。ちょうど、さっきのショッピングセンターで」
「一昨日?」
「え? うん、一昨日」
不思議そうな表情をされて、何か変なことを言っただろうかと心配になる。たまらず水の入ったコップに手を伸ばすと、穂村さんが「あっ」と言った。
「もしかしてあの夜、すぐにチケット買いに行ってくれたの?」
「ああ、うん。なんかネットだと、クレジットカードが無いとできなかったみたいで」
「そうだったんだ……わざわざごめんね、カードが必要だなんて知らなくて」
穂村さんは両手を合わせ、申し訳なさそうに言う。
「いいよ、金曜日だったし。僕も良い席で観たかったから」
「ありがとう。それにしても、本当に助かったよ。樋上くんがいなかったら事故が起こってたかも」
「大袈裟だよ。そんなに危ない温度じゃなかった」
「もうちょっと頑張れるつもりだったんだけど……お手数をおかけしました」
そう言って、丁寧に頭を下げる。
「気にしないで。どうにもならないときがあるのは、僕も身を持って知ってるから」
穂村さんは、ばっと顔を上げると、表情をほころばせた。
「この悩みを共有できる友達ができるなんて、夢みたい」
きらきらと輝く瞳がまぶしくて、再びコップに手を伸ばす。
「そのうえ助けてもらえるんだもん。感激だよ。このまま、ろくにデートのひとつもできないまま青春を終えちゃうかと思った」
「デートしたことなかったの?」
つい口にしてしまったあと、デリカシーに欠けた質問だったと後悔したが、穂村さんは気にしていない様子だった。
「うん。けど一応、名誉のために言っておくと、これまでにも何度か誘われたことはあるよ。でも、親が許してくれなくて。過保護なんだよ、うち。まあ、無理もないとは思うけど。実際、今日もあんなだったし……あ、そうだ、見てよこれ」
穂村さんはかばんから何やらスプレー缶のようなものを取り出して、テーブルの上に置いた。最初は体育の授業のあとなどに女子たちがよく使っている制汗剤の類かと思ったが、ラベルには炎の絵とともに、"火消しスプレー"と書いてあった。
「こんなのまで持たせられるんだよ。佐伯さんに見られでもしたら、一貫の終わりだよ」
そう言って、いそいそとかばんに戻した。
「それでも、昔に比べたらだいぶコントロールできるようになったから、ようやく許可が降りたの。だから、男子と遊ぶのは小学校以来かな」
「そうなんだ」
「携帯だって、高校に入ってようやく買ってもらえたんだよ。仲のいい友達はみんな中学から持ってたのに!」
もしも学校で規則を破って没収されたりでもしたら、すぐに取り上げられてしまうらしい。通りで慎重な訳だ。SNSの類もメッセージアプリ以外は禁止されている、と口を尖らせた。
「中学のときはわたしだけ、パソコンでやりとりしてたんだよ。しかも家族で共用のやつだから、使える時間は限られるし、内容も丸わかりで全然プライバシーないの! 塾だってみんなと一緒に通いたかったのにダメって言われて、代わりにお父さんの知り合いだかなんだかの家庭教師でさ!」
熱弁する姿に、コップの水が沸騰してしまわないかと心配になる。彼女も危ないと思ったのか、深く座り直して咳払いした。
「樋上くんのおうちは、そんなことない?」
「うちは……わりと普通かな。もちろん、力を隠すようには言われてるけど、それ以外は特別、制限とかはない気がする」
「そっか、良いなぁ」
穂村さんもコップを手にとる。からんと氷の音が鳴った。
「樋上くんは、緊張してもああはならない?」
「うーん、緊張でもたまになるけど、僕はどちらかというと沈んだときの方が危ないかな。そうなるとやっぱり、今日の穂村さんみたいになっちゃうし、もっとひどいこともあったよ」
「へぇ~同じようで、微妙に違うんだね。そういえばさ、映画観てるとき、最後の方でつい盛り上がりすぎて、ちょっと熱を出しちゃったでしょ? すぐに冷ましてくれたけど、あれくらいでもすぐに分かるの?」
「ああ、うん、あれくらいなら」
「そっかぁ、すごいね」
穂村さんは大きな目を更に丸くする。
「どれくらいの温度まで分かるの?」
「どれくらいって言われると難しいな……距離とか、周囲や自分のコンディションにもよるけど、平静時で室温のこの距離だったら、特に意識しなくても38度くらいの熱が出てたら気づくかな」
「38度!?」
鳴り響いた美少女の大声に、店内中の視線が集まる。穂村さんはバツが悪そうに周りに小さく頭を下げたあと、今度は必要以上にボリュームを落とした。
「わたしはあらかじめ対象物を知ってる場合とか、集中してたら分かるけど、普通にぼーっとしてたら、よっぽど大きな変化がないと気づけないなぁ」
小声になった分、顔を近づけられてどきりとする。僕は少しのけぞって、やや大きな声を出した。
「別に訓練したわけじゃないから、元からだと思う。ただ、ナーバスなときほど敏感になる気がするから、性格が関係してるとか。それか低温側の方が、絶対零度の下限がある分、感覚の目盛が細かかったりするのかな」
「ぜったいれいど?」
穂村さんが首を傾げたタイミングで、注文したものが運ばれてきた。コーヒーの入ったカップがテーブルに置かれると、ほろ苦い香りが広がった。カップを手に取り、おそるおそる口元に運ぶ。せっかくだからと選んだものの、実はコーヒーというものをほとんど飲んだことがない。舐める程度の量を口に含むと、苦みと共にほのかな甘みを感じた。
「何も入れてないのに、甘みがするんだね」
思ったとおりのことをそのまま言葉にすると、穂村さんは「ふふん」となぜか自慢げに微笑んだ。
「お店のコーヒーはね、缶コーヒーとかとは全然違うんだよ」
そう言って、自分のカフェオレに角砂糖をふたつ入れる。
「でも本当、学校の先輩とデートするのって、中学のときからずっと憧れてたシチュエーションだったから、それが叶ってすごく嬉しい」
太陽のような満面の笑みは、僕の体温を上げるには十分すぎて、思わず目をそらした。
「樋上くんは、彼女いるの?」
突然の話題に、咳き込みそうになる。呼吸を整えてから、首を横に振った。
「じゃあ、好きな人は?」
「特に」
「ほんと?」
うなずくと、穂村さんは急に押し黙って僕をまじまじと見つめ始めた。
「どうしたの?」
「嘘ついてたら、冷気が出るかなと思って」
嘘をついていなくても、こんな状況では心が乱れてしまう。全身が熱い。冷ましたいが、力を使えば疑われてしまうのだろうか。
「けど出ないね」
穂村さんは残念そうな表情をした。
「中学のときは?」
「特にいなかったな」
「女の子に興味無いの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「そういうわけじゃないんだ」
穂村さんがニヤリと笑う。僕はカップを口元に運んだ。
「理想が高いとか?」
「そんなんじゃないよ。単に、好きになるほど女子と親しくなった経験が無いんだ」
「そうなの? だったらほら、一目惚れとか」
「それも無いかな」
感情に波風立てぬよう生きてきた。穂村さんを見たときでさえ、その容姿に圧倒されたものの、心に芽生えたのは美しいものに対する普遍的な感動であって、恋心とかそういう類のものではなかった。
「そっか。でも、これからだよね。高校生活は始まったばかりだし。私も少しずつ許して貰えるようになってきたから、高校では青春っぽいこと色々したいなぁ」
穂村さんはそう言ってカフェオレをすすった。
先にケーキを食べ終わってしまい、手持ち無沙汰になった僕は、知恵と勇気を振り絞って問いかけた。
「佐伯先輩とは、どうやって知り合ったの?」
穂村さんはフォークを持つ手を止める。
「えっとね、文化祭で、茶道部のブースに来てくれたの。そのとき初めて話して、連絡先も教えてもらって」
さすがは佐伯先輩だ。
ショートケーキの残りが四分の一ほどになったところで真っ赤なイチゴを口に放り込むと、とても幸せそうな表情になった。
「穂村さん、茶道部だったんだ」
「うん。とりあえず何かの部活には入りたくて。中学ではそれも許してもらえなかったから。
色々見て回ったんだけど、茶道部だったら高校から始める子がほとんどだし、毎日活動があるわけでもないから丁度いいかなって。それに、心も鍛えられそうじゃない?」
「心を鍛える?」
「どんなことがあっても動じない心を身につけられたら、力の心配なんかせずに、色んなことを楽しめるようになるでしょ?」
「ああ、なるほど……そっか、凄いな」
「え?」
穂村さんはきょとんとする。
「あ、いや、その考え方が凄いなと思って。僕はできるだけ力が暴走しないようにって、色んなことから逃げてばっかりだから。自分を鍛えて克服しようだなんて、思い付きもしなかった」
「凄い」と繰り返すと、穂村さんは照れ臭そうに笑った。
『今日はありがとう! これから少し時間ある?』
特に用事は無いことを伝えると、すぐに返信が来た。
『お礼に何かご馳走したいから、おやつでも食べようよ!』
つい胸が高鳴ったが、すぐにざわつきへと変わった。穂村さんは人目を引く。一緒にいるところを誰かに見られたらまずいのではないか。変な噂が立って、尾びれまでついた上で佐伯先輩の耳に入るかもしれない。それに何より、先ほどまでの穂村さん以上に僕が緊張する。
返信に迷っていると、また通知音が鳴った。位置情報が送られてきていて、すぐ近くを指していた。
『このお店の前に集合で!』
僕は結局、自転車を探すのをやめた。
携帯の地図アプリを頼りに向かうと、煉瓦造りの3階建ての建物の前に穂村さんの姿があった。今朝とはまるで違い、リラックスした表情で携帯を見ている。建物の1階が喫茶店になっているようだった。年季の入った外観をしていて、穂村さんの選択にしては少し意外に思った。
「お待たせしました」
「いえいえ、お疲れ様! 空いてるみたいだから、とりあえず入ろ」
穂村さんが重たそうな扉を引くと、カランコロンと音が鳴り、コーヒーの香りがした。ジャズのような音楽が聞こえる。正面にあるカウンターにひとり、年配の男性が座っているのが見えた。
店の奥から柔らかい笑みを浮かべた60代くらいの女性がやってきて、人数を尋ねた。穂村さんがピースサインと共に伝えると、好きな席に座るよう促された。店内には、カウンター席が5つと、テーブルが3つ。手前のふたつが4人がけで、奥のものが2人がけになっていた。僕らの他に客は、カウンターに座る男性ひとりだけのようだ。
穂村さんは振り返って僕を見た。大きな瞳は「どうする?」と聞いているようだった。「どこでも」と言うと、穂村さんは「じゃあ、あそこに」と2人がけのテーブルに向かった。
「なんでもどーぞ!」
穂村さんはテーブルに立ててあったメニューを僕に差し出す。見ると、コーヒーだけでもいくつか種類があった。豆の銘柄を示しているのだろうが、よく分からない。結局、穂村さんと同じケーキセットを注文した。セットにつけられるコーヒーはオリジナルブレンドなるものだけだったので、迷う必要が無かった。穂村さんは苺の乗ったショートケーキを、僕はチーズケーキを選んだ。
「こんな本格的な喫茶店に入るの初めてだ。純喫茶って言うんだっけ」
「そそ、雰囲気あるでしょ。電車を逃しちゃったときとかに寄るんだ。みんな、さっきのところのフードコートとかに行くから、結構穴場なんだよ」
改めて店内を見渡す。深いブラウンを基調としたレトロな雰囲気で、少し暗い暖色系の照明が落ち着きをもたらしている。夫婦で経営しているのだろうか、奥のキッチンでは、年配の男性がひとり、テキパキと準備をしていた。
視線を正面に戻すと、テーブルの向かいに穂村さんが座っている。現実感が無い。異性との交流という観点では間違いなく人生のピークを迎えている。この日、散々取り乱す姿を見て多少親近感を覚えたものの、やはり高嶺どころか雲の上、大気圏外の花だ。
「休みの日は、眼鏡をかけるの?」
その存在を自分でも忘れていて、返事がワンテンポ遅れた。
「あ、いや、今日だけ。ちょっとした変装になるかなと思って」
穂村さんはポカンとした後、「あはは」と口を開けて笑った。
「変かな?」
「ううん、似合ってるよ。面白いこと考えるなと思って。今日のために用意したの?」
「うん、一昨日たまたま見かけて。ちょうど、さっきのショッピングセンターで」
「一昨日?」
「え? うん、一昨日」
不思議そうな表情をされて、何か変なことを言っただろうかと心配になる。たまらず水の入ったコップに手を伸ばすと、穂村さんが「あっ」と言った。
「もしかしてあの夜、すぐにチケット買いに行ってくれたの?」
「ああ、うん。なんかネットだと、クレジットカードが無いとできなかったみたいで」
「そうだったんだ……わざわざごめんね、カードが必要だなんて知らなくて」
穂村さんは両手を合わせ、申し訳なさそうに言う。
「いいよ、金曜日だったし。僕も良い席で観たかったから」
「ありがとう。それにしても、本当に助かったよ。樋上くんがいなかったら事故が起こってたかも」
「大袈裟だよ。そんなに危ない温度じゃなかった」
「もうちょっと頑張れるつもりだったんだけど……お手数をおかけしました」
そう言って、丁寧に頭を下げる。
「気にしないで。どうにもならないときがあるのは、僕も身を持って知ってるから」
穂村さんは、ばっと顔を上げると、表情をほころばせた。
「この悩みを共有できる友達ができるなんて、夢みたい」
きらきらと輝く瞳がまぶしくて、再びコップに手を伸ばす。
「そのうえ助けてもらえるんだもん。感激だよ。このまま、ろくにデートのひとつもできないまま青春を終えちゃうかと思った」
「デートしたことなかったの?」
つい口にしてしまったあと、デリカシーに欠けた質問だったと後悔したが、穂村さんは気にしていない様子だった。
「うん。けど一応、名誉のために言っておくと、これまでにも何度か誘われたことはあるよ。でも、親が許してくれなくて。過保護なんだよ、うち。まあ、無理もないとは思うけど。実際、今日もあんなだったし……あ、そうだ、見てよこれ」
穂村さんはかばんから何やらスプレー缶のようなものを取り出して、テーブルの上に置いた。最初は体育の授業のあとなどに女子たちがよく使っている制汗剤の類かと思ったが、ラベルには炎の絵とともに、"火消しスプレー"と書いてあった。
「こんなのまで持たせられるんだよ。佐伯さんに見られでもしたら、一貫の終わりだよ」
そう言って、いそいそとかばんに戻した。
「それでも、昔に比べたらだいぶコントロールできるようになったから、ようやく許可が降りたの。だから、男子と遊ぶのは小学校以来かな」
「そうなんだ」
「携帯だって、高校に入ってようやく買ってもらえたんだよ。仲のいい友達はみんな中学から持ってたのに!」
もしも学校で規則を破って没収されたりでもしたら、すぐに取り上げられてしまうらしい。通りで慎重な訳だ。SNSの類もメッセージアプリ以外は禁止されている、と口を尖らせた。
「中学のときはわたしだけ、パソコンでやりとりしてたんだよ。しかも家族で共用のやつだから、使える時間は限られるし、内容も丸わかりで全然プライバシーないの! 塾だってみんなと一緒に通いたかったのにダメって言われて、代わりにお父さんの知り合いだかなんだかの家庭教師でさ!」
熱弁する姿に、コップの水が沸騰してしまわないかと心配になる。彼女も危ないと思ったのか、深く座り直して咳払いした。
「樋上くんのおうちは、そんなことない?」
「うちは……わりと普通かな。もちろん、力を隠すようには言われてるけど、それ以外は特別、制限とかはない気がする」
「そっか、良いなぁ」
穂村さんもコップを手にとる。からんと氷の音が鳴った。
「樋上くんは、緊張してもああはならない?」
「うーん、緊張でもたまになるけど、僕はどちらかというと沈んだときの方が危ないかな。そうなるとやっぱり、今日の穂村さんみたいになっちゃうし、もっとひどいこともあったよ」
「へぇ~同じようで、微妙に違うんだね。そういえばさ、映画観てるとき、最後の方でつい盛り上がりすぎて、ちょっと熱を出しちゃったでしょ? すぐに冷ましてくれたけど、あれくらいでもすぐに分かるの?」
「ああ、うん、あれくらいなら」
「そっかぁ、すごいね」
穂村さんは大きな目を更に丸くする。
「どれくらいの温度まで分かるの?」
「どれくらいって言われると難しいな……距離とか、周囲や自分のコンディションにもよるけど、平静時で室温のこの距離だったら、特に意識しなくても38度くらいの熱が出てたら気づくかな」
「38度!?」
鳴り響いた美少女の大声に、店内中の視線が集まる。穂村さんはバツが悪そうに周りに小さく頭を下げたあと、今度は必要以上にボリュームを落とした。
「わたしはあらかじめ対象物を知ってる場合とか、集中してたら分かるけど、普通にぼーっとしてたら、よっぽど大きな変化がないと気づけないなぁ」
小声になった分、顔を近づけられてどきりとする。僕は少しのけぞって、やや大きな声を出した。
「別に訓練したわけじゃないから、元からだと思う。ただ、ナーバスなときほど敏感になる気がするから、性格が関係してるとか。それか低温側の方が、絶対零度の下限がある分、感覚の目盛が細かかったりするのかな」
「ぜったいれいど?」
穂村さんが首を傾げたタイミングで、注文したものが運ばれてきた。コーヒーの入ったカップがテーブルに置かれると、ほろ苦い香りが広がった。カップを手に取り、おそるおそる口元に運ぶ。せっかくだからと選んだものの、実はコーヒーというものをほとんど飲んだことがない。舐める程度の量を口に含むと、苦みと共にほのかな甘みを感じた。
「何も入れてないのに、甘みがするんだね」
思ったとおりのことをそのまま言葉にすると、穂村さんは「ふふん」となぜか自慢げに微笑んだ。
「お店のコーヒーはね、缶コーヒーとかとは全然違うんだよ」
そう言って、自分のカフェオレに角砂糖をふたつ入れる。
「でも本当、学校の先輩とデートするのって、中学のときからずっと憧れてたシチュエーションだったから、それが叶ってすごく嬉しい」
太陽のような満面の笑みは、僕の体温を上げるには十分すぎて、思わず目をそらした。
「樋上くんは、彼女いるの?」
突然の話題に、咳き込みそうになる。呼吸を整えてから、首を横に振った。
「じゃあ、好きな人は?」
「特に」
「ほんと?」
うなずくと、穂村さんは急に押し黙って僕をまじまじと見つめ始めた。
「どうしたの?」
「嘘ついてたら、冷気が出るかなと思って」
嘘をついていなくても、こんな状況では心が乱れてしまう。全身が熱い。冷ましたいが、力を使えば疑われてしまうのだろうか。
「けど出ないね」
穂村さんは残念そうな表情をした。
「中学のときは?」
「特にいなかったな」
「女の子に興味無いの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「そういうわけじゃないんだ」
穂村さんがニヤリと笑う。僕はカップを口元に運んだ。
「理想が高いとか?」
「そんなんじゃないよ。単に、好きになるほど女子と親しくなった経験が無いんだ」
「そうなの? だったらほら、一目惚れとか」
「それも無いかな」
感情に波風立てぬよう生きてきた。穂村さんを見たときでさえ、その容姿に圧倒されたものの、心に芽生えたのは美しいものに対する普遍的な感動であって、恋心とかそういう類のものではなかった。
「そっか。でも、これからだよね。高校生活は始まったばかりだし。私も少しずつ許して貰えるようになってきたから、高校では青春っぽいこと色々したいなぁ」
穂村さんはそう言ってカフェオレをすすった。
先にケーキを食べ終わってしまい、手持ち無沙汰になった僕は、知恵と勇気を振り絞って問いかけた。
「佐伯先輩とは、どうやって知り合ったの?」
穂村さんはフォークを持つ手を止める。
「えっとね、文化祭で、茶道部のブースに来てくれたの。そのとき初めて話して、連絡先も教えてもらって」
さすがは佐伯先輩だ。
ショートケーキの残りが四分の一ほどになったところで真っ赤なイチゴを口に放り込むと、とても幸せそうな表情になった。
「穂村さん、茶道部だったんだ」
「うん。とりあえず何かの部活には入りたくて。中学ではそれも許してもらえなかったから。
色々見て回ったんだけど、茶道部だったら高校から始める子がほとんどだし、毎日活動があるわけでもないから丁度いいかなって。それに、心も鍛えられそうじゃない?」
「心を鍛える?」
「どんなことがあっても動じない心を身につけられたら、力の心配なんかせずに、色んなことを楽しめるようになるでしょ?」
「ああ、なるほど……そっか、凄いな」
「え?」
穂村さんはきょとんとする。
「あ、いや、その考え方が凄いなと思って。僕はできるだけ力が暴走しないようにって、色んなことから逃げてばっかりだから。自分を鍛えて克服しようだなんて、思い付きもしなかった」
「凄い」と繰り返すと、穂村さんは照れ臭そうに笑った。