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文字数 2,575文字

 夜中に映画のチケットを買いに行くためについた、長距離走の記録会があるなんていう嘘は、罰として僕にジョギングの習慣を課した。両親は自分の息子が、たった一度走っただけで記録が伸びると期待するような楽天家だとは思っていないだろう。あの夜、家に着いたのは21時過ぎで、母からは「こんな時間まで何をしていたの」と問いただされた。その時は咄嗟に「瀬戸と偶然あって公園で話をしていた」と言ってやり過ごしたが、これ以上疑いをかけられないようにするためには、週に何回かは走りに出かける必要があった。

 この日もいつものように、20時ごろに家を出た。毎回スタート地点にしている、町のはずれにある自動販売機まで歩いて、見よう見まねのストレッチをしたあと、早歩きと変わらないペースで走り出す。

 この町は大きな湖を埋め立てて造った住宅地で、外周が大体2km程になっている。2kmといえば、小学校のマラソン大会の距離がそのくらいだったが、今でも走り終わるころには息絶え絶えになる。

 実際のところ記録会なんてないのだから、こんな苦しい思いなどしなくとも、近所の公園やコンビニなどで時間をつぶしていてもよかった。しかし2週間近く続けていると、わずかながらでも走力の成長を感じられ、今ではそれがモチベーションとなっていた。

 そしてこの2週間で変わったのは、それだけではない。

 学校で、穂村さんと交流する機会が増えた。



 デートについていった翌日、授業の合間に手洗いから戻ると、僕の席に女子が座っていて、隣の子と話をしていた。仕方がないので廊下に戻り、ロッカーの整理をしていると、背後から声をかけられた。

「意外と散らかってるんだね」

 整理とは形ばかりで、ただぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた僕は、いつかのように飛び上がった。穂村さんははじけるように笑った。

「なにか面白いものないの?」

 ぐいと顔を寄せ、ロッカーの中を覗き込む。

「な、無いよ。そんなの」

「その反応は怪しいな。なに? 漫画? ゲーム?」

 場所を明け渡すと、穂村さんはロッカーの中に顔と手を突っ込んで、本格的に捜索を始めた。

 「うーん、特に変わったものは見当たらないなー」

 そうしているうちに、左手にある男子トイレから瀬戸が出てくるのが見えた。目が合って、奇妙なものでも見るような目つきをされた。何か言ってくれれば状況を説明できたものの、彼は黙ったまま、昔から愛用している青いハンカチをポケットに仕舞ってその場を後にした。

「本がいっぱいあるんだね」

 穂村さんがロッカーから顔を出す。

「1日の途中で読み終わっちゃうことがあるから、あからじめ何冊か持ってきてるんだ」

「本、好きなんだ。面白いのがあったら、また教えてよ。わたし、いっつも途中で飽きちゃってさ──ってやばい! そろそろ戻らなくちゃ、またね!」

 穂村さんは流れ星のように、明るさを残して去っていった。

 別の日の昼休みに食堂でひとりカレーライスを食べていると、コップの水が人肌ほどの白湯になっていて驚いた。周囲に目を配ると、斜め向かいのテーブルに座る女子グループの中に穂村さんがいて、ほくそ笑んでいた。冷たい水に戻そうとするが、温度が下がらない。どうやら阻止されているようだった。このままつば競り合いを続けると、そのうち氷か蒸気になってしまう恐れがあったので、諦めて白湯を飲んだ。穂村さんは勝利の笑みを浮かべていた。彼女はしばしば、そんないたずらを仕掛けてきた。

「樋上くんって、わたしよりもシュネーに興味津々だよね」

 ある朝、玄関で偶然会った穂村さんが言った。

 シュネーとは、4年前から穂村さんの家族の一員になったという雄のサモエドで、ドイツ語で雪を意味するそうだ。特殊な能力を除けば、唯一の共通点が犬を飼っているということだった。そのため、何を話したらいいか迷ったときには、つい彼に頼ってしまっていた。

「サモエドって珍しいから」

 場を持たせるためだけではなく、シュネーには本当に興味があった。以前ドッグランで一度サモエドを見かけてからというもの、その白く美しい毛並みと、周囲を幸せにする愛らしい笑顔の虜になっていた。しかし、一般の家庭でサモエドを飼うのは敷居が高いと聞く。運動量が豊富なうえ、毛並みを保つためには毎日のブラッシングが必須で、しかも北国にルーツを持つため日本の暑さには適応していないからだ。だからつい前の日の夜も、散歩の距離やシャンプーの頻度など、事細かに質問してしまっていた。

「それにしても、ここまで興味を持ってくれる人は初めてだよ」

 しつこかっただろうか。ごめんと謝ると、「責めてるわけじゃないから」と微笑んだ。

 横並びで階段を登る。朝のホームルームまでは15分を切っていて、上履きのスリッパと床が擦れる音が四方八方から聞こえてきた。

「けど、なんかちょっと負けた気がする。シュネーの好きな食べ物は知ってるけど、わたしのは知らないでしょ?」

「知ってたら怖くない?」

「そうかもだけどそういうことじゃなくて! まあいいや、せっかくだから当ててみてよ」

 何が『せっかく』なのだろう。

「ええと……ショートケーキ?」

「それも好きだけど、1番では無いんだな」

「ビーフシチュー?」

「残念」

「じゃあクレープとか」

「ぶぶー、ほらほら、教室着いちゃうよ」

 穂村さんは愉快そうに言う。ヒントを求めると、「甘いもの」だと教えてくれた。

「あと、ちょうどこれから美味しい時期になるかな」

 それを聞いて、ある果物が頭の中に浮かび上がってきた。

「ああ、梨だ!」

 しかし穂村さんは吹き出して首を横に振る。

「違うよそれ、シュネーの好物じゃん」

 そう言われて、つい先日送られてきた、音を立てて梨を食べるシュネーの動画を思い出した。

「『ああ』じゃないよ、珍しく大きな声出したと思ったら」

 そう言うと、手すりに顔を伏せてしまった。いくらなんでも笑いすぎじゃないか抗議すると、ようやく顔を上げて涙を拭った。

「だって、いかにも閃いた!って感じで言うんだもん。よっぽどシュネーの動画が印象に残ってた?」

 僕も熱くなった顔を隠したくなった。

「あー笑わせてもらった。じゃあ、今日中にね」

 結局、学校にいる間に当てることはできず、その夜、何度かメッセージを送って、ようやく正解のスイートポテトにありついた。
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