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文字数 2,108文字
9月の下旬、まだ日差しの強い日だった。夏休み明け間もなくに行われた学園祭から2週間が経ち、校内はようやく落ち着きを取り戻していた。
その日の午後、体育の授業中に怪我をした。バスケットボールをしていて、味方のパスを受け止めきれずに指を痛めてしまうという情けないものだ。
授業を抜け、すがる思いで保健室にたどり着くも、その扉には不在を伝える紙が貼ってあった。戻って事情を話すと、先生は「見せてみろ」と僕の左手を取り、乱暴に観察したあと、水で冷やしてくるよう指示した。
体育館横の外廊下に手洗い場があったことを思い出し、側面に設けられた出入り口から外にでた。向かいにはもう一棟体育館があって、この時間は女子たちが授業を受けている。ボールを弾く音と、高い声が外にも響いていた。
手洗い場は外廊下を体育館の半分くらい行ったところにあった。錆びた蛇口を捻って、流水に左手を当てる。しかし焼き付けるような日差しの下、出てくる水の温度は体温よりも高かった。校舎に戻ろうかとも考えたが、早く痛みを何とかしたかったので、水を冷やすことにした。
蛇口から流れる水に、氷水のイメージを重ねた。温度を下げすぎて氷にしてしまうわけにはいかないから、少しずつ力の強度を上げていく。水は次第に冷え始め、熱を帯びた患部を癒してくれた。
左手の感覚がなくなってきたころ、目の前の壁が大きな音を立てて揺れ、驚きのあまり飛び上がった。壁の向こうでボールがぶつかったのだと分かってほっと息をついたが、手元を見て血の気が引いた。驚いた拍子に力を出しすぎたのだ。水は僕の左手を飲み込む氷柱に変わり、蛇口も氷の膜に覆われていた。背筋まで凍る思いだった。この気温ならいずれ溶けるだろうが、どれほど時間がかかるか分からない。
ひとまず氷柱を折って左手を自由にしようとしたが、予想以上に硬かった。その上、無理に力を入れようとすると怪我した指が痛む。右手を伸ばして隣の蛇口を捻り、生ぬるい水を掬って左手にかけてみると、ただ溶けるのを待っているよりは効果がありそうだった。
「どうしたの?」
背後から声をかけられて、再び飛び上がった。
振り返ると、体操服姿の女子生徒が不思議そうな表情をして立っていた。僕ははっと息を飲んだ。
穂村 留依 。隣のクラスの生徒だが、彼女の存在は知っていた。
春、入学式が終わってすぐの教室で、数人の男子たちが輪を作って騒いでいた。隣のクラスに、ものすごい美人がいるのだと言う。その話題は更に人を呼び、最終的に10人近くが集まった。彼らは2、3人ずつ順番に見学に行き、全員が全員、顔を真っ赤にして帰ってきた。
初めて彼女の姿を目にしたのは、それから1週間ほど経った日のことだった。
朝、教室に着いて、廊下のロッカーに荷物を仕舞おうとしていた。ロッカーは数列に分かれて並んでいて、僕には一番端の箇所が割り当てられていた。
荷物を入れ終わって扉を閉めようとしたとき、向かいの階段を上ってくる女子生徒の姿が目に入った。すぐに話題の人物だと分かった。それほどまでに、彼女の容姿は群を抜いていた。
まず驚いたのは顔の小ささで、よく『こぶし大』なんて表現を耳にするが、まさにそのくらいに思えた。綺麗な卵型の輪郭に、くっきりとした大きな二重瞼と筋の通った小さな鼻、それに口角の上がった口が均整のとれた配置で並んでいる。ひとつにまとめられた栗色の髪は、窓から差し込む光を受けてきらめき、絹糸のようだった。すらりと背が高く、足も外国のモデルのように長い。こんな地方でさえなければ、すぐにその手の関係者に声をかけられるだろう。実際、同年代のアイドルや女優の中にいても見劣りするどころか、なお輝きを放てるように思う。
そんな有名な女子生徒が目の前にいて、僕に話しかけている。
しかし今はそれどころじゃ無かった。咄嗟に、凍った蛇口を隠そうと右手で覆う。しかし、そこから伸びた氷柱はどうしようもなかった。身体を捻って視線を遮ろうとしたものの、彼女はすっと近づいてきて、この異様な光景に息を呑んだ。
「これ、きみがやったの?」
「いや、えっと……」
動揺から微かに冷気が生じてしまう。それがさらに僕を焦らせた。一方、彼女は何かを察したように表情を柔げ、「ふうん」と呟いた。
「蛇口から手を離して」
「え?」
「いいから」
言われたとおりにすると、馴染みはあるが異質の感覚を覚えた。蛇口に目をやる。氷が解けはじめていた。僕の左手を覆っていた氷柱も段々と小さくなって氷水に変わり、やがて人肌ほどの流水になった。
「熱くなかった?」
髪を揺らして、僕の方に視線を向ける。その表情はどこか自慢げだった。
「う、うん」
「よかった。大変だったね」
彼女は僕の胸あたりを見て、眉をひそめた。
「1組だよね、なんて読むの? ”ひかみ”くん?」
体操服にほどこされた刺繍のことを言っているのだろう。僕はうなずいた。
「わたし、2組の穂村 。よろしくね。このことは、お互い内緒にしておこう」
穂村さんは人差し指を唇に当て、踵を返すと、向かいの体育館へと戻っていった。
僕は先生に呼ばれるまで、その場に立ちすくんでいた。
その日の午後、体育の授業中に怪我をした。バスケットボールをしていて、味方のパスを受け止めきれずに指を痛めてしまうという情けないものだ。
授業を抜け、すがる思いで保健室にたどり着くも、その扉には不在を伝える紙が貼ってあった。戻って事情を話すと、先生は「見せてみろ」と僕の左手を取り、乱暴に観察したあと、水で冷やしてくるよう指示した。
体育館横の外廊下に手洗い場があったことを思い出し、側面に設けられた出入り口から外にでた。向かいにはもう一棟体育館があって、この時間は女子たちが授業を受けている。ボールを弾く音と、高い声が外にも響いていた。
手洗い場は外廊下を体育館の半分くらい行ったところにあった。錆びた蛇口を捻って、流水に左手を当てる。しかし焼き付けるような日差しの下、出てくる水の温度は体温よりも高かった。校舎に戻ろうかとも考えたが、早く痛みを何とかしたかったので、水を冷やすことにした。
蛇口から流れる水に、氷水のイメージを重ねた。温度を下げすぎて氷にしてしまうわけにはいかないから、少しずつ力の強度を上げていく。水は次第に冷え始め、熱を帯びた患部を癒してくれた。
左手の感覚がなくなってきたころ、目の前の壁が大きな音を立てて揺れ、驚きのあまり飛び上がった。壁の向こうでボールがぶつかったのだと分かってほっと息をついたが、手元を見て血の気が引いた。驚いた拍子に力を出しすぎたのだ。水は僕の左手を飲み込む氷柱に変わり、蛇口も氷の膜に覆われていた。背筋まで凍る思いだった。この気温ならいずれ溶けるだろうが、どれほど時間がかかるか分からない。
ひとまず氷柱を折って左手を自由にしようとしたが、予想以上に硬かった。その上、無理に力を入れようとすると怪我した指が痛む。右手を伸ばして隣の蛇口を捻り、生ぬるい水を掬って左手にかけてみると、ただ溶けるのを待っているよりは効果がありそうだった。
「どうしたの?」
背後から声をかけられて、再び飛び上がった。
振り返ると、体操服姿の女子生徒が不思議そうな表情をして立っていた。僕ははっと息を飲んだ。
春、入学式が終わってすぐの教室で、数人の男子たちが輪を作って騒いでいた。隣のクラスに、ものすごい美人がいるのだと言う。その話題は更に人を呼び、最終的に10人近くが集まった。彼らは2、3人ずつ順番に見学に行き、全員が全員、顔を真っ赤にして帰ってきた。
初めて彼女の姿を目にしたのは、それから1週間ほど経った日のことだった。
朝、教室に着いて、廊下のロッカーに荷物を仕舞おうとしていた。ロッカーは数列に分かれて並んでいて、僕には一番端の箇所が割り当てられていた。
荷物を入れ終わって扉を閉めようとしたとき、向かいの階段を上ってくる女子生徒の姿が目に入った。すぐに話題の人物だと分かった。それほどまでに、彼女の容姿は群を抜いていた。
まず驚いたのは顔の小ささで、よく『こぶし大』なんて表現を耳にするが、まさにそのくらいに思えた。綺麗な卵型の輪郭に、くっきりとした大きな二重瞼と筋の通った小さな鼻、それに口角の上がった口が均整のとれた配置で並んでいる。ひとつにまとめられた栗色の髪は、窓から差し込む光を受けてきらめき、絹糸のようだった。すらりと背が高く、足も外国のモデルのように長い。こんな地方でさえなければ、すぐにその手の関係者に声をかけられるだろう。実際、同年代のアイドルや女優の中にいても見劣りするどころか、なお輝きを放てるように思う。
そんな有名な女子生徒が目の前にいて、僕に話しかけている。
しかし今はそれどころじゃ無かった。咄嗟に、凍った蛇口を隠そうと右手で覆う。しかし、そこから伸びた氷柱はどうしようもなかった。身体を捻って視線を遮ろうとしたものの、彼女はすっと近づいてきて、この異様な光景に息を呑んだ。
「これ、きみがやったの?」
「いや、えっと……」
動揺から微かに冷気が生じてしまう。それがさらに僕を焦らせた。一方、彼女は何かを察したように表情を柔げ、「ふうん」と呟いた。
「蛇口から手を離して」
「え?」
「いいから」
言われたとおりにすると、馴染みはあるが異質の感覚を覚えた。蛇口に目をやる。氷が解けはじめていた。僕の左手を覆っていた氷柱も段々と小さくなって氷水に変わり、やがて人肌ほどの流水になった。
「熱くなかった?」
髪を揺らして、僕の方に視線を向ける。その表情はどこか自慢げだった。
「う、うん」
「よかった。大変だったね」
彼女は僕の胸あたりを見て、眉をひそめた。
「1組だよね、なんて読むの? ”ひかみ”くん?」
体操服にほどこされた刺繍のことを言っているのだろう。僕はうなずいた。
「わたし、2組の
穂村さんは人差し指を唇に当て、踵を返すと、向かいの体育館へと戻っていった。
僕は先生に呼ばれるまで、その場に立ちすくんでいた。