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文字数 2,234文字
いったいどこへ向かえばいい?
無我夢中で寂れた道を選んでいくと、校舎の裏手に出た。車が何台も停まっている。
引き返して渡り廊下を横切る。体育館に突き当たり、運動部が活動している音が聞こえてくる。また戻ろうとして、二棟の体育館の間を伸びる外廊下が目に入った。屋外プールへと続く道だ。
男女の掛け声にホイッスル、ボールが跳ねる音や靴が体育館の床と擦れる音の間を駆け抜けた。空気中の水分が氷の粒となって落ちていく。息が上がり、その息まで凍って痛かった。
やっとの思いでたどりつき、プールの扉に手をかけた。しかし鍵がかかっている。迷っている暇はない。柵に足をかけてよじ登る。急激に冷やされて収縮した金属が音を立てた。
なんとか乗り越えられたものの勢い余って前のめりになり、着地の際に地面で手のひらを擦りむいた。一瞬痛覚に奪われた意識を取り戻し、目の前へ矛先を向けると、プールの水はみしみしと音を鳴らしてせりあがり、やがて巨大な氷の塊へと姿を変えた。
冷気をプールに流し続けながら、周りから見えないよう更衣室の陰まで移り、壁を背にして座り込む。両耳をふさいだところで耳鳴りは止まない。膝を抱えて目を閉じ、深呼吸する。大丈夫、初めてのことじゃない。落ち着きさえすれば、事態は収まる。なんてことない、平静を取り戻せばいい。頭を、脳を冷やすイメージを心に描く。
そのとき、がしゃんと音がして顔を上げた。プールの扉のこちら側に、ふわりと着地する人影が見えて背筋が凍った。
人が来た。見られた。
まだ冷気は収まらない。
この状況をどう説明したらいい?
反対側の柵を乗り越えて逃げるべきか?
ぐるぐると回る頭とは対照的に、凍り付いたように動けないでいる視界の中で、紺色のカーディガンを羽織ったその人物はゆっくりと顔を上げた。そこに驚きの色は無く、普段は綺麗な三日月のような形をしている眉をハの字にして、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「大丈夫?」
嵐のような耳鳴りの中でも、その声ははっきりと聞き取れた。
「穂村さん……」
どうして、と尋ねると、微かに笑みを浮かべた。
「こんなすごい冷気、すぐに分かるよ」
ああ、そうか。
「すごいや、スケートできそう」
プールサイドぎりぎりのところに立ち、湖でも見渡すかのように言う。
「でも、見つかったらやばいね」
寒空の下、ゆらりと暖気が生じ、氷面を覆う。しかし温度が上がる気配はない。その熱さえ僕が奪ってしまうからだ。制御できないほどの冷気を相殺し、打ち勝つためには、相応の熱が必要になる。それには危険を伴う。
やはり先に自分を何とかするしかない。膝を抱え、瞼に力を込めて目を堅く閉じた。記憶の中にひだまりを探す。鮮明に形を残し、光とぬくもりを帯びたそれが浮かび上がってくる。
茜色の帰り道。
味のしないポップコーン。
昔ながらの喫茶店。
とりわけ明るいそれらを照らすのは、これまでになかった眩しすぎる存在で、とうてい僕の心に負えるものではなかった。僕の心はもう、焦がされて駄目になってしまった。ひりひりと身を焦がす思い出なんて消し去ってしまいたいのに、そうなったらきっと、今度は寂しくて凍えてしまう。
突然、腕に温かいものが触れて、思わず顔を上げた。
「冷たっ! 氷じゃん!」
そう言いつつも、穂村さんは僕の腕に置いた手を離さなかった。温もりが流れ込んできて、不思議と呼吸が楽になってくる。僕はもう一度膝を抱えこんだ。
どれくらい時間が経っただろう。気がつくと耳鳴りは消えていて、プールの水面も元の高さに戻っていた。気配を感じて横を見ると、同じように体育座りの格好をした穂村さんが目を閉じて小さく揺れていた。思わず一度、身体が大きく震える。穂村さんが目を開け、周囲を見渡したあと、穏やかな口調で言った。
「もう大丈夫みたいだね」
「ありがとう……迷惑かけて、ごめん」
「お互い様だよ」
穂村さんは微笑み、もう一度まっすぐプールの方を見た。僕も正面を向き直すと、水面がさざなみを立てていた。
「何かあったの?」
「え?」
「前に言ってたでしょ? 力を制御できなくなるのは、気分が沈んだときだって」
「……よく覚えてるね」
「そりゃあ、ちゃんと覚えとかなきゃ。わたしだって、助けになりたいもん」
太陽のような笑顔に、溶かされてしまいそうになる。
「……大したことじゃないよ。面談前で、ちょっと神経質になってたみたい。期末考査、あんまり出来が良くなかったから」
少し間があってから、穂村さんは「そっか」とつぶやいて視線を落とした。しかしすぐにまた表情を和らげる。
「樋上くんの成績なら大丈夫だって。わたしなんて、数学と化学が赤点で、補修受けたよ」
「それは……なんかごめん」
「なんかってなにさ」
穂村さんはそう言って笑うと、足を伸ばして、ため息をついた。
「あーあ、最近はほんとうに、わたしも散々だよ」
冗談っぽい明るい口調ではあったが、その目は遠くを見ていた。
「今週の日曜日じゃなかったっけ。先輩と遊びに行くの」
「え? あ、うん、そうそう」
「とっておきの楽しみが待ってる」
「……うん、そうだね! まさに勝負の日だからね、頑張らなきゃ!」
穂村さんは元気よく力こぶをつくる真似をしてみせたが、すぐにやめ、「ちょっとダサかったな」と照れた。その様子が可笑しくて、僕は久しぶりに息が苦しくなるくらい笑った。穂村さんは最初は「笑いすぎ!」と怒っていたが、やがて噴き出すと、一緒になって笑った。
無我夢中で寂れた道を選んでいくと、校舎の裏手に出た。車が何台も停まっている。
引き返して渡り廊下を横切る。体育館に突き当たり、運動部が活動している音が聞こえてくる。また戻ろうとして、二棟の体育館の間を伸びる外廊下が目に入った。屋外プールへと続く道だ。
男女の掛け声にホイッスル、ボールが跳ねる音や靴が体育館の床と擦れる音の間を駆け抜けた。空気中の水分が氷の粒となって落ちていく。息が上がり、その息まで凍って痛かった。
やっとの思いでたどりつき、プールの扉に手をかけた。しかし鍵がかかっている。迷っている暇はない。柵に足をかけてよじ登る。急激に冷やされて収縮した金属が音を立てた。
なんとか乗り越えられたものの勢い余って前のめりになり、着地の際に地面で手のひらを擦りむいた。一瞬痛覚に奪われた意識を取り戻し、目の前へ矛先を向けると、プールの水はみしみしと音を鳴らしてせりあがり、やがて巨大な氷の塊へと姿を変えた。
冷気をプールに流し続けながら、周りから見えないよう更衣室の陰まで移り、壁を背にして座り込む。両耳をふさいだところで耳鳴りは止まない。膝を抱えて目を閉じ、深呼吸する。大丈夫、初めてのことじゃない。落ち着きさえすれば、事態は収まる。なんてことない、平静を取り戻せばいい。頭を、脳を冷やすイメージを心に描く。
そのとき、がしゃんと音がして顔を上げた。プールの扉のこちら側に、ふわりと着地する人影が見えて背筋が凍った。
人が来た。見られた。
まだ冷気は収まらない。
この状況をどう説明したらいい?
反対側の柵を乗り越えて逃げるべきか?
ぐるぐると回る頭とは対照的に、凍り付いたように動けないでいる視界の中で、紺色のカーディガンを羽織ったその人物はゆっくりと顔を上げた。そこに驚きの色は無く、普段は綺麗な三日月のような形をしている眉をハの字にして、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「大丈夫?」
嵐のような耳鳴りの中でも、その声ははっきりと聞き取れた。
「穂村さん……」
どうして、と尋ねると、微かに笑みを浮かべた。
「こんなすごい冷気、すぐに分かるよ」
ああ、そうか。
「すごいや、スケートできそう」
プールサイドぎりぎりのところに立ち、湖でも見渡すかのように言う。
「でも、見つかったらやばいね」
寒空の下、ゆらりと暖気が生じ、氷面を覆う。しかし温度が上がる気配はない。その熱さえ僕が奪ってしまうからだ。制御できないほどの冷気を相殺し、打ち勝つためには、相応の熱が必要になる。それには危険を伴う。
やはり先に自分を何とかするしかない。膝を抱え、瞼に力を込めて目を堅く閉じた。記憶の中にひだまりを探す。鮮明に形を残し、光とぬくもりを帯びたそれが浮かび上がってくる。
茜色の帰り道。
味のしないポップコーン。
昔ながらの喫茶店。
とりわけ明るいそれらを照らすのは、これまでになかった眩しすぎる存在で、とうてい僕の心に負えるものではなかった。僕の心はもう、焦がされて駄目になってしまった。ひりひりと身を焦がす思い出なんて消し去ってしまいたいのに、そうなったらきっと、今度は寂しくて凍えてしまう。
突然、腕に温かいものが触れて、思わず顔を上げた。
「冷たっ! 氷じゃん!」
そう言いつつも、穂村さんは僕の腕に置いた手を離さなかった。温もりが流れ込んできて、不思議と呼吸が楽になってくる。僕はもう一度膝を抱えこんだ。
どれくらい時間が経っただろう。気がつくと耳鳴りは消えていて、プールの水面も元の高さに戻っていた。気配を感じて横を見ると、同じように体育座りの格好をした穂村さんが目を閉じて小さく揺れていた。思わず一度、身体が大きく震える。穂村さんが目を開け、周囲を見渡したあと、穏やかな口調で言った。
「もう大丈夫みたいだね」
「ありがとう……迷惑かけて、ごめん」
「お互い様だよ」
穂村さんは微笑み、もう一度まっすぐプールの方を見た。僕も正面を向き直すと、水面がさざなみを立てていた。
「何かあったの?」
「え?」
「前に言ってたでしょ? 力を制御できなくなるのは、気分が沈んだときだって」
「……よく覚えてるね」
「そりゃあ、ちゃんと覚えとかなきゃ。わたしだって、助けになりたいもん」
太陽のような笑顔に、溶かされてしまいそうになる。
「……大したことじゃないよ。面談前で、ちょっと神経質になってたみたい。期末考査、あんまり出来が良くなかったから」
少し間があってから、穂村さんは「そっか」とつぶやいて視線を落とした。しかしすぐにまた表情を和らげる。
「樋上くんの成績なら大丈夫だって。わたしなんて、数学と化学が赤点で、補修受けたよ」
「それは……なんかごめん」
「なんかってなにさ」
穂村さんはそう言って笑うと、足を伸ばして、ため息をついた。
「あーあ、最近はほんとうに、わたしも散々だよ」
冗談っぽい明るい口調ではあったが、その目は遠くを見ていた。
「今週の日曜日じゃなかったっけ。先輩と遊びに行くの」
「え? あ、うん、そうそう」
「とっておきの楽しみが待ってる」
「……うん、そうだね! まさに勝負の日だからね、頑張らなきゃ!」
穂村さんは元気よく力こぶをつくる真似をしてみせたが、すぐにやめ、「ちょっとダサかったな」と照れた。その様子が可笑しくて、僕は久しぶりに息が苦しくなるくらい笑った。穂村さんは最初は「笑いすぎ!」と怒っていたが、やがて噴き出すと、一緒になって笑った。