創世記14章 ソドムの王との会見/メルキゼデクの祝福
文字数 2,437文字
創世記14章17節-18節
アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを打ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。
ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」(創14:21)と言った。
創世記14章22節
アブラムはソドムの王に言った。
「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。わたしは何も要りません。ただ、若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々、すなわちアネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください。」
ソドム王からの申し出に対して、アブラムは自分のしもべたちを養えるものさえあれば十分で、それ以上の戦利品を受け取ることはできない、と答えた。
アブラムは一緒に戦った三人の友人たちに戦利品の分け前を与えるよう、願い出た。
アブラムはエジプトの王からの贈り物は受け取っていたのに、なぜ略奪品の受け取りを拒否したのだろう…?
アブラムの振る舞いは、信仰に基づいた
自分なりの倫理的基準(正義)に則っているのだ。
エジプトの王からの贈り物は、サライを宮廷に売ったことに対する正当な代価である、と考えていたのではないか。
一方で、略奪による蓄財は神の前に不法だ、とアブラムは考えていたのかも…。
サレムの王メルキゼデクもシャベの谷でアブラムをを出迎えた。
パンとぶどう酒でもてなし、アブラムを祝福した。
創世記14章19節-20節
彼はアブラムを祝福して言った。
「天地の造り主、いと高き神に
アブラムは祝福されますように。
敵をあなたの手に渡された
いと高き神がたたえられますように。」
アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。
サレムの王メルキゼデクは参戦していなかったのに、なぜアブラムとソドムの王との会見に同席していたのだろう…?
そもそもアブラムはヘブロンに住んでいるのだから、サレムの王に十分の一税を払うのはおかしいよね。
מַלְכִּי-צֶדֶק (メルキゼデク)は「正義の王」を意味する名前だ。
メルキゼデクの祝福は、アブラムの誓いと同じく「天地の造り主、いと高き神」という言葉を用いています。
アブラムの時代、カナン地方の宗教は
多神教だった。
この時代のサレムの王ならば当然、多神教徒であったはずだが…。
ヘブライ語では
「いと高き神」は単数形で、
「天と地を造る」という分詞も単数形を用いているのだ。
この分詞は、創造の業の継続を示している。
この台詞からすると、メルキゼデクが祝福と感謝をささげているのは、カナンの神々に対してではないですよね。
メルキゼデクとアブラムは同じ唯一神信仰によって結ばれているように読み取れますね。
『ヨシュア記』に登場する
エルサレムの王アドニ・ツェデク(ヨシュ10:1)は、カナンの神々に仕えていた。
アドニ・ツェデクを含む5人の王たちは、ヨシュアの率いるイスラエル軍と戦って敗れ、残酷な仕打ちで殺された。
したがって、メルキゼデクは現実のエルサレムの歴史的な王の一人ではなく、象徴的人物なのではないか。
詩編110章2節-4節
主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。
敵のただ中で支配せよ。
あなたの民は進んであなたを迎える
聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ
曙の胎から若さの露があなたに降るとき。
主は誓い、思い返されることはない。
「わたしの言葉に従って
あなたはとこしえの祭司
メルキゼデク(わたしの正しい王)。」
『旧約聖書』では『創世記』14章のほかに、わずか1回だけ、『詩編』110章のみにメルキゼデクという名前が記されている。
この詩は
「シオンの王」の即位をうたっているが、歴史的な王の誰かを指しているわけではない。
なぜなら『詩編』は、もはや王がいなかった捕囚後の時代に編纂されたのだ。
紀元前104年にアリストブロス1世が即位し、王政復活したときにはすでに『詩編』は完成していた。
「正義をもたらす王」であると同時に「永遠の祭司」でもあるメルキゼデクは、捕囚を生き延びた人々が待ち望む理想的な王の姿だったのかも。
ヘブライ人への手紙7章1節-3節
このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。
『新約聖書』ではこのように語られ、メルキゼデクは「父もなく、母もなく、系図もなく、また生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司」であると解釈されている。
ここで言う「神の子」とは、もちろんイエス・キリストを指している。
たしかにメルキゼデクは、アブラムを祝福するために立ち現れた神の御使いのような存在ですね!
メルキゼデクは正義と平和の理想的な王、永遠の祭司の象徴としてアブラムの前に現れたのだろう。
『ヘブライ人への手紙』では、メルキゼデクと同じような永遠の大祭司としてイエス・キリストを位置づけているのだ。
王たちの戦いからロトの救出まで、ドラマティックな歴史物語を通して、奥深い神学的メッセージを伝えていたんですね。
引用
新共同訳『旧約聖書』『新約聖書』
参考
『創世記1 ヘブライ語聖書対訳シリーズ』ミルトス・ヘブライ文化研究所編、2007年
ハインツ・クルーゼ「メルキゼデクは誰か」カトリック研究、上智大学神学会、1992年
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