創世記22章 息子を殺そうとしたアブラハム

文字数 4,218文字

創世記22章1節-2節

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。

神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

神は、アブラハムに愛する息子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じた。
ついに有名なイサクの犠牲の場面が来た!
神が呼びかけたとき、アブラハムはヘブライ語で「今、私はここにいます」(創22:1)と答えている。

アブラハムの謙遜心の準備を表す言葉だ。

ヘブライ語で「燔祭」(創22:2)とは「すべてを焼き尽くしてささげる犠牲」のことである。
「モリヤの地」はのちに「神殿の山」(歴下3:1)と呼ばれています。

現在は、エルサレムにある岩のドームが、アブラハムがイサクをささげようとした場所だと伝えられていますね。

ヘブライ語で「モリヤ」とは「主が示す」を意味する地名なのだ。
創世記22章3節-4節

次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。

三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。

「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

アブラハムは妻サラにも、イサクにも、神の命令を説明しないで、次の朝早くに旅立ってしまった。

アブラハムは自分でろばや薪の準備をしているから、信頼する家僕エリエゼルにも事情を説明していなかったことが分かるね。

アブラハムと一緒に行った「二人の若者」のうち一人は、エリエゼルだったのかも。

創世記22章6節-8節

アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。

イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる、わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。

「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにあるのですか。」

アブラハムは答えた。

「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

イサクは自分の運命について、アブラハムから何も知らされてなかった
ヘブライ語で「そして言った」と2回あるのは、イサクがなかなか口に出せず、何度も言いかけた様子を表れている。
父親の行動がおかしいことに、イサクは気づいてしまったんだ…。
「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(創22:8)とあるが、ヘブライ語を直訳すると燔祭のための小羊は彼のために神は見る」となる。

「見る、探す、見出す、選ぶ」を意味する動詞が用いられており、「備える」は意訳なのだ。

創世記22章8節は、次の三つの訳が考えられる。

①「神が自分のために燔祭の小羊を見出す」

②「燔祭の小羊はわが子であると神は見た」

③「神よ、わが子が自分に代わる燔祭の小羊を見つけるように」

創世記22章9節-13節

神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」と答えると、御使いは言った。

「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

創世記22章1節では「アブラハムよ」と1回だけ呼びかけたのに対して、11節では「アブラハムよ、アブラハムよ」と2回も呼びかけている。
急いで呼びかけている様子が表現されているね。
この章では、アブラハムの「今、私はここにいる」という言葉は、1節と8節と11節の3回出てくる
「彼の息子」という表現は、1節から13節までに7回も繰り返される

アブラハムが自分の息子をささげようとしたことを強調しているのだ。

創世記22章14節

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり」と言っている。

22章2節では、モリヤの地のどの山か限定していなかったですよね。
アブラハムはその場所を、ヘブライ語で「アドナイ・イルエ」(主は見る)と名付けた。

「主の山で見られる」という地名は、主語は「主」と「人」の二通り考えられる。

創世記22章15節-19節

主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。

「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

アブラハムの子孫によって、すべての諸国民は互いに祝福し合うようになる!

主なる神が一番最初に呼びかけたとき、アブラハムを祝福して、「祝福の源となるように」(創12:2)と言われた。

12章3節で、神は「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と言っていた。
地上のすべての人々は、12章3節では一方的に祝福されるだけだったが、22章8節では互いに祝福し合うことを約束されたのだ。
アブラハムは「若者たちのところへ戻った」(創22:19)と書いてあるけど、イサクは父親と一緒に下山したんですよね?
この「帰った」という動詞は単数形で、主語はアブラハム一人

イサクがどうなったか、実は記されていないのだ。

19世紀デンマークの哲学者キェルケゴールは、沈黙のヨハンネスという筆名で出版した『おそれとおののき』(1843年)の中で、イサクの犠牲について論じている。
ヨハンネスは、ギリシア神話の英雄アガメムノンが自分の娘を女神アルテミスへの犠牲にささげた物語と比較していますね。
アガメムノンは、トロヤ戦争においてギリシア軍の総大将として出陣したが、女神アルテミスの怒りで風が止み、ギリシアの艦隊は出航できなかった。娘を犠牲にささげよという神託を受けたアガメムノンは、ギリシアのために娘イフィゲネイアを犠牲にささげた。

娘を犠牲にしてまで、ギリシアのために尽くしたアガメムノンは偉大な王として、悲劇の英雄として評価される。

アガメムノンと同じことが、アブラハムにおいても言えるのだろうか、とヨハンネスは問いかけたのだ。

アブラハムは、息子イサクをささげよという神の命令を、誰にも説明していませんね。
アガメムノンが悲劇の主人公として評価されたのは、周囲の人々が神託について知っていたからですよね。

誰も事情を知らなければ、アガメムノンは娘殺しの大悪人と非難されるはずです。

当時のギリシア社会の一員であれば、アガメムノンと同様に、国家のために家族を犠牲にすることが要求されただろう。

周囲の人々がアブラハムの事情について知っていたなら、アブラハムの振る舞いは偉大であると評価されたかもしれない。

だが、アブラハムは自分の事情を隠し、誰にも語らなかったのだ。

アブラハムは、アガメムノンと違って、国家や大義名分のために息子をささげたわけじゃない。
しかし、アブラハムについては、彼を理解できる人はいませんでした。それでも、彼が成し遂げたことを考えてみてください! 彼は自分の愛に忠実であり続けました。しかし、神を愛する者は、涙を必要とせず、賞賛も必要としないのです。

(Sören Kierkegaard, Fear and Trembling, Chapter 5)

ヨハンネスの言う通り、アブラハムが従っていたのは共同体の義務ではなく、主なる神への信仰です。
そう、アブラハムはイサクをささげよという神の命令に従いつつ、同時に神がイサクを返すことを信じていた、とヨハンネスは読み解く。

ヨハンネスによれば、アブラハムの「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」という言葉は、彼がイサクの命を諦めていなかった証拠である。

アブラハム自身、何が起こるか分からなかったんだろうな…。

アブラハムは、大地の砂粒のように、満天の星空のように子孫を増やすという神の契約を信じていたから、大切な息子の命を神の御手にゆだねることができた。
神の愛を信じていたから、アブラハムは神がイサクを返してくれることを信じて疑わなかったんですね。
レンブラントやカラヴァッジオ、ティツィアーノなど「イサクの犠牲」を描いた名画は数多くある。
これはオランダの画家、レンブラントの「イサクの犠牲」(1635年)だ。
息子の顔を覆うアブラハムの手は、命が絶たれる瞬間を見せまいとする父親の気持ちが表れているね。
御使いがアブラハムの手をつかみ、刃物が落ちていく。緊張に満ちた一瞬を見事に描いているね。
これはイタリアの画家、カラヴァッジオの「イサクの犠牲」(1603年)だ。
こっちの絵は、恐怖に顔を歪めたイサクの表情が胸に迫るね!
レンブラントの絵では雄羊を描いていなかったけど、カラヴァッジオの絵では御使いが茂みの中の雄羊を指さしているね。

引用

新共同訳『旧約聖書』


参考

『創世記1 ヘブライ語聖書対訳シリーズ』ミルトス・ヘブライ文化研究所編、2007年

Sören Kierkegaard, Fear and Trembling, Translated by Walter Lowrie, Princeton University Press, 1941.

田中一馬「信仰の情熱とその逆説:キェルケゴール『おそれとおののき』におけるアブラハム解釈をめぐって」近世哲学研究、京都大学、1995年

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