矛盾する二つの創造物語/神にかたどられたのは男だけなの?
文字数 2,289文字
創世記1章27節
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
主なる神は男と女を最初から同時に創造されたんですね。
そう、初めから女性も男性も神によって造られたと1章ではっきり記されている。
しかし、なぜか見落とされがちだ。
アダムのあばら骨からエバが造られたというエピソードが有名すぎるからでは…?
創世記2章21節-22節
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。
2章に進むと、まず男が造られ、そのあとに女が造られたことになる。
1章と2章で、創造物語の内容が明らかに食い違っていますね。
この二つの創造物語は、もともとは独立した別の物語であったと考えられている。
イスラエルの民がヘブライ語を使うようになったのは紀元前1200年頃、ヨシュアに率いられた民がカナンに定住するようになってからだ。
最初は、「カナンの言葉」(イザヤ書19:18)とか「ユダの言葉」(列王記下18:26)と呼ばれていた。
この紀元前1200年から紀元前200年頃までの約1000年間に口伝えで伝承されたり、記録されたものがまとめられ、集大成されたものが、現在の旧約聖書なのだ。
じゃあ、紀元前1000年頃のダビデ王やソロモン王の時代に書かれた部分もあれば、紀元前500年頃のバビロン捕囚時代に書かれた部分もあるわけですね。
現代の読者には、二つの創造物語を矛盾した内容を含んだまま、並べて置くのは奇妙に感じますが…。
それでも、聖書の書き手が価値ありと判断したから、二つの創造物語が書き留められ、いまの聖書となっているのだ。
古代社会でも、男と女の両性が平等に創造されたと考える人々と、神にかたどられたのは男のみだと考える人々が同時に存在していたんですね。
歴史上で、神にかたどられ、「神の似姿」とされたのはもっぱら男性だった。
女性は男性に劣るものとされ、男性を誘惑し堕落させた「エバの似姿」として考えられてきた。
男性を理性的存在、女性を非理性的・感情的存在と見なすヘレニズム思想が、聖書の読み方にも投影されたのだ。
「神の似姿」として、より高い人間性を持つ男性に、より低い人間性しか持ちえない女性は従属しなければならない、と長い間考えられてきた。
だから初期のフェミニズム運動では、女性も人間である、という基本的な主張をしていたんですね。
テモテへの手紙Ⅰ 第2章11節-14節
婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。
新約聖書のパウロの女性観が後世のキリスト教会へ与えた影響は大きい。
中世ヨーロッパの教父や教会博士、神学者たちは、このパウロの言葉に基づいて説教している。
2章の中で「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」(創2:16)と神から直接命じられたのは、アダムだけです。
2章ではアダムのあとにエバが造られたので、「食べてはならない」と言われた時、まだエバは生まれていなかったんですよ。
なぜアダムは、エバが実を取って食べないよう「神さまから禁じられているよ」と注意しなかったのか。
せめて自分は食べなければよかったのに。
新約聖書では、イエス・キリストの言葉として創世記1章27節の言葉が記されている。
マタイによる福音書 19章4節
イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから男と女とにお造りになった」
マルコによる福音書 10章6節
しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
男性も女性も最初から神によって創造されたのだと、イエスは確かに言われた。
これがイエス・キリストの人間理解なのだ。
人は誰でも「神の似姿」に造られている。
人が「神の似姿」に造られているというのは、あらゆる人々が等しい価値を持ち、一人ひとりが大切な存在であることを意味している。
イエス・キリストの人間理解に立ち返れば、女性が男性よりも人間として劣るとする考えを拒否しなければならない。
そして同時に、ある特定の国や民族集団だけを「人間の規範」とするような考えも批判すべきだろう。
パウロは男性中心的な聖書の読み方をしていた。
創世記1章27節の記述を無視してるし。
女性は男性に従順に仕えるべきという考えをもともと持っていたんだろうね…。
ガラテヤの信徒への手紙 3章28節
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
そんなパウロが、イエス・キリストの人間理解と出会って、特定の集団だけを「人間」とする考え方を克服しようとしているね。
このパウロの言葉は、現代のフェミニスト神学の出発点ともなったのだ。
どんな性別でも人種でも民族でも、人はすべて平等で「神の似姿」に造られている。
引用
新共同訳『旧約聖書』『新約聖書』
参考
『ヘブライ語入門』日本ヘブライ文化協会、2004年
一色義子『エバからマリアまで 聖書の歴史を担った女性たち』キリスト新聞社、2010年
ジョン・ドレイン『総説・図説 旧約聖書大全』講談社、2003年
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