創世記19章 後ろを振り向いたロトの妻/ロトの娘たち

文字数 3,056文字

御使いたちがソドムの町からロトたちを連れ出したとき、主なる神は「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない」(創19:17)と命じた。
創世記19章23節-26節

太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。

必死で逃げて、無事にツォアルまで着いた、まさにその時に、なぜロトの妻は後ろを振り返ったの?
来訪者を歓待したり、冷遇したりする説話には、来訪者を歓待した者も禁忌を破ったため罰を受けるというパターンがよく見られる。
「見るなのタブー」は、世界各地の神話や民話で広く語られているモチーフだ。
エウリュディケーを冥界から連れ戻そうとしたオルフェウスや、イザナミを黄泉の国から連れ戻そうとしたイザナギの神話が有名ですね。
オルフェウスとイザナギは、「見たい」という自分の欲望を満たすために「見るなのタブー」を破った結果、「死んだ妻を生き返らせる」という本来の目的を失敗してしまった。
日本の女性神学者である一色義子は、ロトの妻が「神さまの戒めをおろそかにしたことは確かに否めない」が、ツォアルに着き、「わが身が安全だと気づいた瞬間、思わず愛する者の姿が心に浮かんだのでは」ないか、と読み解く。
一色は、東京が初めて空襲を受けた時の実体験と結びつけて、後ろを振り返ったロトの妻の心情を思いやる。
空襲の火の下を人々が逃げまどう時、嫁に行った娘や婿、孫を瓦礫の下に置いたままで逃げよと言われたら、自分に助ける力がないと分かっていても、「振り返らずにはいられない」のではないか、と語る。
ロトの妻は、あの硫黄と火が降るソドムに嫁いだ娘たち、頑迷に神さまの警告を無視した婿たちのゆえに、孫もろとも一家が壊滅するそのさまに耐えられなくて、思わず、痛ましい思いと愛の心で家族を思って振り返ったのではないでしょうか。

私たちは振り返りたくなるのです。

私たちは、振り返った「ロトの妻」が後ろ髪を引かれた罰で塩の柱になったのだと言って、絶対に振り返らないまでに心を鬼にすることができる人を礼賛することがないようにと思います。そうではなく、あの塩の柱こそ、女性の優しさと愛のモニュメントであり、塩の柱はむしろロトの妻の愛の象徴であると考えることはできないでしょうか。

(一色義子『エバからマリアまで 聖書の歴史を担った女性たち』48-49頁)

イエスは「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)と言った後に、ロトの妻の例を挙げている。
ルカによる福音書 17章31節-33節

人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。

ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。

ノアが箱舟に入る日まで「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」し、ロトがソドムから出て行ったその日まで「人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていた」(ルカ17:28)。
いざと言う時、本当に振り返らないで、神を信じて行動ができるかが問われているのかな…?
塩の柱は、ロトの妻の愛を示していると同時に、過去を振り返らず、信仰によって前に進むべきであることを読者に伝えている。
イエスは、神がすべて必要なものを備えてくださるから、「何を食べようか」「何を着ようか」と「思い悩むな」(マタイ6:25)と語っている。
マタイによる福音書6章32節-34節

あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20-21)と言っている。

どんな時でも、明日を導いてくださる主なる神の愛を信じることが大切なんだ。
ロトはツォアルに住むのを恐れて、二人の娘と山の中の洞穴に住んだ
創世記19章31節-32節

姉は言った。

「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」

娘たちはその夜、ロトにぶどう酒を飲ませ、姉がまず父親と寝た。
あくる日の夜もまた、娘たちはロトにぶどう酒を飲ませ、妹が父親と寝た。
創世記19章36節-37節

このようにして、ロトの二人の娘は父の子を身ごもり、やがて、姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。

妹もまた男の子を産み、ベン・アミ(わたしの肉親の子)と名付けた。彼は今日のアンモンの人々の先祖である。

ロトと二人の娘との間に産まれた息子がモアブ人とアンモン人の先祖であると記されており、民族の由来を説明する物語に分類される。
『創世記』第10章では、ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤフェトの子孫が、それぞれの地で諸民族の先祖となったことが書かれていましたね。
ハムの息子はエジプト人やカナン人の先祖と書いてあります。

ソドムやゴモラに住んでいたカナン人たちは、ノアの息子ハムの末裔だったんですね。

『旧約聖書』において、モアブ人とアンモン人はイスラエルの民と敵対し、何度も戦争を繰り返してきた相手として書かれている。
申命記23章4節-5節

アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。それは、かつてあなたたちがエジプトから出て来たとき、彼らがパンと水を用意して旅路で歓迎せず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたを呪わせようとしたからである。

『申命記』では、すべての外国人を差別しているわけではない。

モアブ人とアンモン人が「歓待の掟」を守らず、イスラエルの民を呪い、攻撃を仕掛けてきたから「敵」と認めている。

アンモン人とモアブ人と対照的に、「エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である。エジプト人をいとってはならない。あなたはその国に寄留していたからである」(申23:8)と書かれているね。
イスラエルの民にとってモアブ人とアンモン人は敵であったため、民族の起源の段階で「罪」を犯していた、という説明を入れたのではないか。

『旧約聖書』が最終的に編集されたのはバビロン捕囚後であることを考えると、アンモン人とモアブ人と戦争を繰り返してきた歴史観が、民族の由来の物語にも反映されている言える。

モアブとベン・アミを近親婚によって生まれた子供とすることで、モアブ人とアンモン人は生まれながらにして「罪」を背負っている、と説明しようとしたのだろうね。

引用

新共同訳『旧約聖書』『新約聖書』


参考

『創世記1 ヘブライ語聖書対訳シリーズ』ミルトス・ヘブライ文化研究所編、2007年

一色義子『エバからマリアまで 聖書の歴史を担った女性たち』キリスト新聞社、2010年

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