映画『天地創造』(1966年)を観よう

文字数 9,900文字

ジョン・ヒューストン監督の映画『天地創造』(1966年)を一緒に観よう!

この映画は天地創造からイサクの犠牲までのエピソードを取り上げている。

創世記1章から22章までのおさらいになるね!

冒頭は、ナレーションで創世記の天地万物の創造を語りながら、映像では地球の進化の歴史を描いているね。

荒れ地に強風が吹いて、砂の中から成人した姿でアダムが生まれる。

「土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた」(創2:7)を描こうとしたんだね。

エデンでは、肉食獣と草食獣が争わずに一緒に暮らしている。

1966年の映画だから、これはCGではなく本物の動物に演技をさせているんだよね!?

本来は捕食と被食の関係にあるはずの動物同士でさえ、お互いに殺し合わず共存できる場所、というのが監督の考える「エデンの園」なのだろう。
エデンでは、すべての動物はつがいで生きているのに、アダムは一人だ。

水面に自分の顔を映して、いつも寂しそうにしているアダムを見て、主なる神はエバを生み出した。

創世記2章では、神が「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創2:18)と言われて、女を造り上げる。

映画では、神にそう思われるように、孤独によるアダムの憂愁をことさら演出しているんだね。

創世記1章を思い出してみよう。

創世記1章27節で、神は男と女を最初から同時に創造されたとはっきり記されている。

創世記1章27節

神は御自分にかたどって人を創造された。

神にかたどって創造された。

男と女に創造された。

創世記2章に進むと、まず男が造られ、そのあとに女が造られたことになりますね。
ジョン・ヒューストン監督は、創世記1章の言葉を無視して、創世記2章だけに基づいた脚本を採用したわけですね。
この映画では、金髪で白人の役者がアダムとエバを演じている。

最近の映画だったら、最初の人類役はアフリカ系の役者が選ばれそうだよね。

映画では、蛇の誘いでエバが禁断の果実を食べ、アダムも一緒に食べた瞬間、日が陰って、強風が吹き始める。

二人が罪を犯したことを天候の変化で表現しているんだね。

アダムとエバはいちじくの葉で腰を覆った姿のままで、エデンを追放される。
だが創世記3章では、神が二人をエデンから追放する前に「アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(創3:21)と記されているのだ。
聖書を文字通り表現するのなら、二人は皮の衣服を着た姿で追い出されるべきですね。
これはイタリアの初期ルネサンスの画家マサッチオ『楽園追放』(1425年頃)だ。

アダムとエバは、裸体のままでエデンから追い出されている。

こちらはフランスの画家、カバネル『楽園追放』です。

カバネルも皮の衣を描かず、いちじくの葉で腰を覆った姿で描いてますね。

楽園追放を描いた名画は数多くあるけど、追放時にアダムとエバが皮の衣を着ていた事実を無視しているわけですね。

それじゃあ、エデンから旅立つ二人への神の愛情が視聴者に伝わらないよね…。

映画は楽園追放の後、カインとアベルの物語に進む。
汗を流して農作業するカインが、笛を吹いて羊の番をしているアベルを見て、憎々しく思っている場面が描かれている。
神に献げ物をささげる前から、カインはアベルに対して一方的に憎しみを持っていた、と表現しているね。
カインは献げ物として一度取り分けた農作物を惜しんで、一部を自分の取り分に戻す。

アベルは惜しまず、羊の初子をささげている。

創世記4章では、なぜ神がアベルの献げ物だけに目を留め、カインの献げ物には目を留められなかったか、その理由が記されていないのだ。
ジョン・ヒューストン監督は、カインの信仰がアベルよりも劣っていたと解釈したから、カインが献げ物を出し惜しみする場面を描いたんですね。
アベルを殺したカインが逃亡した後、異変を感じた父アダムが息子の遺体を発見し、埋葬する。

父アダムと母エバの心のうちを思うと、悲しい場面だ。

映画はカインの子孫、トバル・カインが「青銅や鉄でさまざまの道具を作る者」(創4:22)となったことを語る。
映画では、カインの子孫たちがお互いに争って殺し合い、罪を犯し、「堕落の道」(創6:12)を歩んでいた。
カインの子孫を悪、セトの子孫を善として描くのは、前に観たダーレン・アロノフスキー監督の映画『ノア』(2014年)と同じだね。
今回の映画と2014年の映画は、どちらも同じ物語を題材としているが、ノアの人物造型が全く違うのだ。
今回の映画では、神の言葉を信じたノアが、巨大な箱舟の建造を始める。
妻や三人の息子とその嫁たちは、ノアに従って箱舟の建造を手伝うが、周りの人々から笑い者にされて、本当に洪水が起きるのか疑いを持っている。
老いたノアだけが本当に洪水が起きると信じて、若い息子たちが疲れて寝入っている時でさえも、率先して箱舟の建造作業をすすめる。
洪水が始まり、箱舟の中で息子たちは不安になるが、ノアは四十日後に雨が降り止むという神の言葉を信じて、動物たちの世話を命じる。
昼も夜も分からないと不安がる息子たちに対して、ノアの妻と三人の嫁たちは鶏の鳴き声を聞き、家畜の乳しぼりの仕事をすれば、日数が正しく数えられると言う。
女性たちは生活の知恵で四十日間を耐え抜こうとしていて、たくましいよね。
映画では、箱舟に肉食動物も草食動物も一緒に入っているが、お互いに殺し合わず共存している。

監督は、箱舟を小さな「エデンの園」として描いているのだ。

ライオンやトラやチーター、シロクマ、ペンギン、ゾウ、キリン、サイなど、みんなCGじゃなくて本物の動物が出演してるよ!!
ワシントン条約の前に制作された映画だからね。
箱舟の中で動物に子供が産まれる場面は、洪水後の未来に希望があることを象徴しているね。
ついに雨が止み、40日ぶりの太陽に喜んで、動物たちがいっせいに騒ぎ出し、ノアを囲んで家族みんなが踊る場面が感動的だった。
今回の映画のノアは、神の言葉を真っ直ぐ信じる、楽天的な人物として描かれている。

一方、2014年の映画のノアは、人類の未来に絶望し、深く苦悩する人物だ。

2014年の映画では、ノアは悩んだ末に箱舟の中で生まれた赤ん坊(長男の子供)を殺そうとする。

このノアは神の啓示の意味を、人類は滅ぶべきだ、と解釈していたから。

創世記の同じ物語を題材としているのに、二つの映画がこれほど違うのは、面白いね!!
ノアをどういう性格の人物として描くかだけでも、監督の聖書解釈が表れているね。
映画はノアの後、バベルの塔の物語に進む。
映画では、ニムロド王が天まで届く高い塔の建設を命じる。
建設中の塔に登ったニムロド王が天に向かって矢を放った直後、雷が鳴り響き、地震が起きる。

混乱が収まった後、人々はお互い言葉が通じなくなっていた。

天に弓を射る場面は、神と同じ位置に立とうと考えたニムロド王の傲慢さを表現しているね。
このニムロドという名前は創世記10章に登場するのだ。

創世記10章8-10節

クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった。彼は、主の御前に勇敢な狩人であり、「主の御前に勇敢な狩人ニムロドのようだ」という言い方がある。彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった。
ヘブライ語で「シンアル」という地名はバビロニア全域を指し、シュメールと同じ意味である。
ニムロドの王国は、バビロニア王国と重なるんですね。
創世記11章では、バベルの塔を建設した人々について、「東の方から移動してきた人々は、シンアル地方の平野を見つけ、そこに住み着いた」(創11:2)と記されていますね。

だが創世記11章には、ニムロド王が天まで届く塔の建設を命じた、とは書いていないのだ。

とは言え、高い塔のある町が建てられたのはシンアル地方だから、ニムロドの王国とバベルの塔を結びつけて解釈されるわけですね。
ユダヤ人の歴史家、フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』(西暦94~95年)には、次のような記述がある。
神にたいしこのような思い上がった侮辱的な行為に出るよう彼らを煽動したのは、ノアの子ハムの孫で、強壮な体力を誇る鉄面皮人のニムロデだった。彼は人びとを説得して、彼らの繁栄が神のおかげではなく、彼ら自身の剛勇によることを納得させた。そして神への畏れから人間を解き放す唯一の方法は、たえず彼らを彼自身の力に頼らせることであると考え、しだいに事態を専制的な方向へもっていった。彼はまた、もし神が再び 地を洪水で覆うつもりなら、そのときには神に復讐してやると言った。水が達しないような高い塔を建てて、父祖たちの滅亡の復讐をするというので ある。人びとは、神にしたがうことは奴隷になることだと考えて、ニムロデの勧告を熱心に実行し、疲れも忘れて塔の建設に懸命に取り組んだ。そして、人海戦術のおかげで、予想よりもはるかに早く塔はそびえたつことになった。
フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌1』(ちくま学芸文庫) より
ユダヤの伝承では、ニムロド王がバベルの塔の建設を命じた、と伝えているんですね。
これはフランドルの画家、ブリューゲル(父)『バベルの塔』(1563年)だ。

画面左下に建設現場を訪れたニムロド王とその部下たちが描かれている。

今回の映画も同じように、ニムロド王がバベルの塔を建てたという伝統的解釈に従っているわけですね。
映画はバベルの塔の後、アブラムの旅立ちに進む。
アブラムたちがカナン地方に入ったとき、神から「あなたの子孫にこの土地を与える」(創12:7)と言われる。
映画では、アブラムから神の言葉を教えられたロトが「平和に引き継げると? カナン人がいます」と言って、疑いを持っている。
ロトの台詞は映画独自のものだが、のちのイスラエルの民とカナン人の対立を示唆している。
たしかに、出エジプト後にヨシュアに率いられたイスラエルの民がカナンの土地に侵攻したことが、ヨシュア記に書かれていますね。
映画では、神の約束を疑うロトに対して、アブラムが「神の知恵は我らの理解を超える。何が起こり、どう事が成るか、とても計れない。だが必ず我らは繁栄できる。そう信じ、天幕を張った」と答えている。
映画では、アブラムがエジプトのファラオの宮廷に妻サライを差し出すエピソードが省略されている。
映画でアブラムがサライの美しさを絶賛する場面があったから、次のファラオの宮廷の伏線かと思ったけど、尺が足りなかったのかな…?
映画はロトとの別れの場面に進む。
映画では、ロトがヨルダン川流域の豊かな町を自分で選び、「王たちが支配を争っている時、町は格好の砦」と言う。

ロトの台詞に対して、アブラムは「神がわが砦だ」と答えた。

豊かな土地は争いが絶えないことを分かっていて、ロトはソドムの町を選んだ。

映画のロトは、神の守りよりも町の城砦の守りを信頼している。

映画では、神がアブラムに息子イサクを与えることを約束し、契約のしるしに家畜を犠牲にささげる祭儀が描かれる。
映画では、雌牛と雌山羊と雄羊をささげる犠牲祭儀を現実の出来事ではなく、夢で見た幻として表現しているね。
創世記15章を読んだとき、アブラムが実際に家畜を持って来て、本当に切り裂いたと解釈していたから、映画の演出にはびっくりした。
「主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」(創15:1)と記されているため、監督は神の言葉だけでなく、アブラムの犠牲祭儀も含めてすべてを幻視として解釈したのだろう。
創世記15章で、主なる神はあなたから生まれる者が跡を継ぐ」(創15:4)と約束する。

創世記17章で、主なる神はサラが息子イサクを産むことを予告する。

映画の神の言葉は、創世記15章と17章をミックスして、映画オリジナルの台詞になっているね。
映画では、誰が産むかを言わずにイサクの誕生を予告しているのだ。
アブラムが神の啓示を受けた後、不妊に悩んだサライは召使のハガルをアブラムの天幕に送り出す。
映画のアブラムは、神に約束された息子イサクを誰が産んでくれるのか分からなかったため、ハガルを受け入れたのだ。
若いハガルはアブラムの子供をみごもってから傲慢になり、女主人であるサライを侮辱する。
創世記16章では、怒ったサライがハガルを虐げ、ハガルは妊婦でありながら逃亡を図る。

映画では、ハガルの逃亡のエピソードは省略されている。

映画のサライは、ハガルから侮辱されても、言い返したり暴力をふるったりせず、ただ黙って耐えている。
サライは、ハガルに夫の子供を生ませようと考えた、自分の浅はかさを後悔しているね。
映画はソドムとゴモラを含む五つの町が侵攻され、ロトが捕虜となるエピソードに進む。
ロトとその家族を救出したアブラムは、犠牲の羊をささげ、「私の勝利は神のお力。あなたは私の盾」と言って、神に感謝した。
アブラムが言うように、神を「砦」「盾」に喩える表現は旧約聖書によく出てくるよね。
詩編には、こんな歌がある。
詩編18章2節-3節(新改訳2017)

主はわが巌 わが砦 わが救い主

身を避けるわが岩 わが神。

わが盾 わが救いの角 わがやぐら。

ほめたたえられる方。この主を呼び求めると

私は敵から救われる。

宗教改革で有名なルターが作詞作曲した賛美歌「神はわがやぐら」(1527年-1529年)は、現代でもよく歌われていますね。
創世記14章では、ロトを救出して戻ってきたアブラムをサレムの王メルキゼデクが祝福するが、映画では省略されている。
映画では、メルキゼデクから祝福を受ける代わりに、アブラム自身が主なる神に感謝をささげる場面が挿入されていて、良い演出だと思った。
ここで、主なる神はサラに息子が生まれることを予告し、アブラムはアブラハム、サライはサラと改名するよう命じた。
映画は、ハガルの出産と息子イシュマエルの割礼のエピソードに進む。
イシュマエルは生みの母ハガルではなく、女主人サラの手からアブラハムに渡される。

サラはイシュマエルを "my child" と言って手渡す。

イシュマエルを妊娠・分娩した母はハガルだけど、法的な母はサラであることを示しているね。
創世記17章では、イシュマエルが13歳のときに割礼を受けた、と記されている。

映画では、生後数日以内にアブラハムの手で割礼を施されている。

現代のユダヤ教徒は、生まれて8日目に割礼を受けるから、その伝統に従ったのでは?
映画はイシュマエルが7歳に成長し、ハガルは息子に長子の祝福を与えるようアブラハムに求める。

アブラハムは「神は言われた、サラに息子を与えると」と答えて、祝福を与えようとしない。
この場面は、映画オリジナルのものだ。
映画のアブラハムは、神の約束を信じて、サラに子供が生まれるのを待っている
一方ハガルは「不可能を信じるのですか?」と言って、神の言葉を疑っている。
イシュマエルは間違いなく自分の息子なのに、映画のアブラハムは無責任だよね!
創世記17章では、アブラハムは神に「もしイシュマエルがあなたの前で生きるなら、それで十分です」(創17:18)と願っている。
神はアブラハムの願いを聞き入れ、「必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繫栄させる」(創17:20)と約束した。
映画では、この創世記17章の対話を省略しているから、アブラハムがイシュマエルをないがしろにしている印象が強くなっているね。
創世記17章で、サラがイサクを産むと神が告げたとき、イシュマエルは13歳だった。
映画では、イシュマエルが生まれる直前に、神が「サラに息子を与える」と予告したから、イシュマエルの立場がこんなに弱いんだ。
映画は、三人の旅人がアブラハムの元を訪れるエピソードに進む。
アブラハムは一目見て、三人がただ者ではないと気づき、五体投地のように全身を地面に投げ伏して出迎えた。
創世記18章ではアブラハムのもてなしを受けて、三人の御使いが飲食を共にする。

映画では飲食する場面は省略されている。

御使いはサラに子供が生まれることを予告し、アブラハムに自分たちが訪問した理由を告げる。
御使いは、ソドムの町の罪がわたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめる」と言う。
アブラハムは、もしソドムの町に正しい者がいれば、町を滅ぼさないように、御使いに願った。

創世記18章では、アブラハムは神に直接、ソドムのための執り成しをする。

映画では、アブラハムは御使いを通して執り成しを願っている。

アブラハムが御使いに何度も食い下がって交渉する場面は、見ていて緊張した。
映画では、御使いがソドムの町を訪れたとき、町の門に座っていたロトが気づいて、アブラハムと同じように地面に全身を投げ伏して出迎える。
御使いがソドムの町を歩くと、鞭打たれる女性の悲鳴が聞こえ、みだらな行いにふける人々や、薬物か飲酒かで狂乱する女性の姿が見える。

角を黄金に塗った牡山羊に着飾った女性がまたがり、牡山羊をかたどった巨大な偶像を人々は拝んでいる。

映画の牡山羊の巨像は、ウルの遺跡の王家の墓から発掘された牡山羊の神像(紀元前2600年-2400年)をイメージしているのだろう。
町の人々は男も女もロトの家へ押しかけ、ロトが招待した客人を襲おうとする。
御使いはソドムの町が滅びることを告げ、ロトとその家族に町から逃げるよう命じる。
この映画では、ソドムの町の人々の罪は、①性的不道徳、②偶像崇拝、③異人歓待の掟を破ったことであると表現されているのだ。
御使いがロトに「振り向いてはならぬ」と言った時、顔が影になって御使いの表情が見えなかった。
「振り向いてはならぬ」の掟を破れば、どんな恐ろしいことが起きるかを示しているね。
ロトたちが山までたどりついたとき、大爆発の音が聞こえた。
ロトは振り向きたい気持ちをぐっとこらえたけど、ロトの妻は振り返って爆煙に包まれる町を見てしまい、塩の柱に変わった。
創世記19章では、二人の御使いがロトとその家族の手をとって、避難を助けている。

映画では、御使いのつきそいが省略され、ロトと家族だけが逃げている。

創世記20章で、アブラハムはアビメレクの宮廷にサラを差し出すけど、映画では省略されている。
創世記21章のアブラハムとアビメレクとの契約も、映画では省略されているね。
映画ではサラがイサクを産み、イサクの乳離れの祝宴のエピソードに進む。
祝宴で、イシュマエルが赤ん坊をかたどった土人形をわざと壊したのを見て、ハガルとイシュマエルを追放するよう、サラはアブラハムに言う。
追放されたハガルがぐったりしたイシュマエルを抱えて、砂漠を放浪する場面は、見ていて辛かった。
ハガルの前に御使いが現れ、「恐れるな、神はそこにいる。わらべの声を聞かれた」と言った瞬間、砂漠から水が湧き出した。
創世記21章では、神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた」(創21:19)と記されている。

映画では、何もないところから水が湧き出し、神の御業を感じさせる演出で、すごく良かった。

映画では12歳ぐらいまでイサクが成長し、アブラハムから教育を受けていた。
系図を刻んだ杖を見せながら、ノアからアブラハムまで連なる先祖代々の名前をイサクに覚えさせる。
創世記10章に記された系図を、映画では親から子へ、子から孫へ代々伝えていったものとして表現しているのだ。
神はアブラハムに息子イサクを「焼き尽くす献げ物」としてささげるように命じた。
ここで sacrifice(犠牲)ではなく、burnt offering(焼いたいけにえ)という表現が使われている。
創世記22章では、イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創22:2)と神が命じたとき、アブラハムは何も口答えしなかった。
映画のアブラハムは「初子を偶像に捧げるカナン人のごとくなせと? 真に私の神ですか?」と問い、神の命令に疑いを持っている。
アブラハムは「神とは言え過ぎた求め」と叫び、イサクをささげることを拒絶する。
カナンの宗教では、子供をいけにえとしてささげる祭儀が行われていた。

レビ記では、神はイスラエルの民に人身供犠をしてはならない、と強い文言で禁じている。

レビ記20章2節

イスラエルの人々であれ、イスラエルに寄留する者であれ、そのうちのだれであっても、自分の子をモレク神にささげる者は、必ず死刑に処せられる。

アブラハムの台詞は映画オリジナルだけど、たしかに「息子をいけにえとしてささげよ」と命じられたら、異教の神々や悪魔の誘惑だと疑ってもおかしくないよね。
映画では、アブラハムはイサクを連れて、主なる神の命じたモリヤへ旅立った。
ここから映画オリジナルの場面が展開する。
アブラハムとイサクは廃墟となったソドムの町を歩き回る。
イサクは地面に転がる小さな頭蓋骨を見つけ、「子供も罪人?」と尋ねるが、アブラハムは何も答えない。
アブラハムは「全地を裁く者は義を行うべきでは?」と叫び、ソドムの町を滅ぼした神の正義を疑う。
アブラハムは「すべての王子は無に等しい。宮殿のいばらは代々そこに空しくありつづけ、神の手が混沌の糸を張りめぐらす。初めに分かっていた。神は地のさじきに座り、天空を幕として下げ、人の住居を囲み、王子らを封じると。神の吹くひと息で彼らは衰える。彼らをもみ殻のように飛び散らす」と叫んだ。
神への不信を叫んだアブラハムは、「子孫を増やす」という神の約束をもう一度思い出して、イサクを抱きしめる。
映画のアブラハムは、廃墟となったソドムで神の裁きの恐ろしさを目の当たりにし、神の正義を疑うが、神の約束を信じて、イサクをささげることを受け入れるのだ。
でも創世記22章には、アブラハムの嘆きがまったく書かれていないですよね。
そう、我々は創世記22章を文字通りに読んで、アブラハムは神の愛を信じていたから、神がイサクを返してくれることを信じて疑わなかった、と解釈した。
はい、なぜアブラハムが絶望して嘆いたり怒ったりせず、イサクをささげよという神の命令にまっすぐ従ったのか、キルケゴールの『おそれとおののき』を参考にして考えました。
一方、ジョン・ヒューストン監督は、創世記22章には書かれていないアブラハムの嘆きを行間から読みとったわけですね!
映画のアブラハムの不信と嘆きは、ヨブの嘆きと重なるものがある。
ヨブ記9章22節-24節

神は無垢な者も逆らう者も

 同じように滅ぼし尽くされる、と。

罪もないのに、突然、鞭打たれ

 殺される人の絶望を神は嘲笑う。

この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。

神がその裁判官の顔を覆われたのだ。

ちがうというなら、誰がそうしたのか。

今回の映画のノアは、神の言葉にまっすぐ従う、突き抜けて楽天的な人物として描かれていた。
楽天的なノアとは対照的に、アブラハムは深く苦悩する人物として描かれているね。
映画では、アブラハムとイサクがモリヤの山にたどり着く。
「捧げる雄羊は?」とイサクが尋ねるけど、アブラハムは何も答えない。

アブラハムはイサクを縛り上げ、薪の上に置く。

イサクは泣き叫んだりせず、「主のお言葉は絶対なの?」と問いかける。

アブラハムは「絶対だ」と答え、薪に火をつけて、ナイフを持つ。
ナイフを振り下ろされる前に、神はアブラハムを止めた。

アブラハムは木の茂みに雄羊がいるのに気づく。

神はアブラハムに「汝はかまどの鉄のように我の試しに耐えた。汝の子孫を天の星のようし、浜辺の砂のように大いに増やそう」と約束し、映画は終わる。
長い映画だったね。175分もあった。
こんなに長い映画でも、創世記1章から22章までで、省略されている場面も多かった。
創世記はあらためて長い物語だと思った。

登場人物たちの内面をどう表現するかで、監督や脚本家が聖書をどのように解釈しているかが分かるだろう。

この映画の原題は"The Bible: In the Beginning..."(聖書:初めに…)だけど、Genesis(創世記)というタイトルの方が合っていると思う。
映画の冒頭で天地創造の場面が終わっちゃうから、邦題も「天地創造」よりは「創世記」の方が内容に合っていると思うな。

引用

新共同訳『旧約聖書』


参考

『創世記1 ヘブライ語聖書対訳シリーズ』ミルトス・ヘブライ文化研究所編、2007年

ジョン・ドレイン『総説・図説 旧約聖書大全』講談社、2003年

フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌1』筑摩書房、1999年

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