創世記2章-4章 アダムとエバ/カインとアベル
文字数 3,114文字
創世記2章7節-8節
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
「土」から造られたから、「人」と呼ばれる。
אָדָם「人」(アダム)は、
אֲדָמָה「土」(アダマ)の語呂合わせ。
主なる神は、自分と似たものとして「人」をお造りになった。
「人」が「生き物の名」を付ける(創2:19-20)エピソードは、神の行いを疑似体験させてもらっているみたいだね。
עֵדֶן(エデン)は「楽しみ、よく潤された所」の意味だ。
創世記3章20節
アダムは女をエバと(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
חַוָּה(エバ)は、「生かす者」、子供に「命を与える者」を意味している。
神は「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創2:16-17)とアダムに言った。
しかし、蛇はエバに「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(創3:1)と問いかけた。
蛇はオーバーな言い方で、主なる神のご配慮をねじまげ、ひどく規制されているかのように誘導する。
神の愛を疑わせ、人と神との関係を断ち切らせることが、蛇の誘惑の目的なのか。
蛇の誘惑によって、
エバは実を取って食べ、アダムも食べた。
自分たちの判断で、アダムもエバも主なる神から離れてしまった。
創世記3章22節
主なる神は言われた。
人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。
この
「我々」には、二つの解釈がある。
①神の尊厳を表す複数形
②神と天使
天地創造では、
神自身の行動を物語っていた。
アダムとエバの物語では、創造された人間と神の関係を描いているね。
主なる神は、
応答性、
コミュニケーションをすごく大事にしている。
人間と主なる神との関係は、『旧約聖書』全体のテーマだと思う。
これはバロック期に活躍した画家、ルーベンスとヤン・ブリューゲル(父)が共作した「楽園のアダムとエバ」(1615年頃)だ。
美しい自然とたくさんの動物たちが描かれていますね!
蛇の誘惑を受けたエバが善悪の知識の木から実を取って、アダムに手渡しています。
こちらはイタリアの画家、ラファエロの「アダムとエバ」(1518年-1519年)。
バチカン宮殿内にあるフレスコ画だ。
このアダムは、エバではなく、蛇に目を合わせている。
ラファエロは、アダムを真に誘惑したのはエバではなく、蛇であることをはっきり描いているね。
『お静かに、父が昼寝しております ―ユダヤの民話』におさめられている、「光と闇」「命の息」「動物の王になりたかった蛇」「涙の起源」を読んでみよう。
知恵が増せば、痛みも増す。おまえたちは、自らの知恵で、苦しくてきびしい、だが、創造的で心おどる新たな世界を、エデンの園の外におまえたち自身で創りだすことをえらびとった。そして、それは祝福されるであろう。
おまえたちの道のりは険しく、苦悩に満ちていよう。おまえたちはつねに絶え間ない前進と闘いを強いられる。だが、それらすべてはおまえたちのものである。
(『お静かに、父が昼寝しております』より「涙の起源」225-226頁)
ユダヤ民話で、アダムは
「知恵を手に入れたこと」自体を悔やんではいない。
「神との約束を破ったこと、神を裏切ったこと」を悔やんでいる。
アダムとエバは、エデンから追われても、「愚かさや無知からではなく、わたしたちは自らの意志と知恵と愛をもって祈りをささげます」と神への愛と信仰を示している。
人は知恵を手に入れたことで、自立して生きる苦労を知った。
しかし、自らの知恵で自分たち自身の新しい世界を創りだすことができる。
それは主なる神から祝福されるんだ。
そう、ユダヤの伝統では、
人はエデンを出て、初めて自立した人間になれたと解釈する。
だからユダヤ教には、アダムとエバが神に背いて罪に堕ちたために、人間は生まれながらに「原罪」を背負うという発想はないのだ。
エデンからの追放の物語は、痛みと苦労を乗り越えて、人は何度でも再出発できることを教えてくれますね。
エデンを追放されてから、アダムとエバには長男
カイン、次男
アベルが生まれた。
成長した兄カインは「土を耕す者」、弟アベルは「羊を飼う者」となった。
二人がそれぞれ「献げ物」を神にささげた時に、神は「アベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」(創4:4-5)。
創世記4章15節
主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
カインは
「わたしの罪は重すぎて負いきれません」(創4:13)と言う。
神はカインにしるしを付け、誰も彼を殺すことのないようにして、生きることを命じた。
罪の代償は死ではなく、罪を背負ったままで生きることなんだ。
主なる神の愛の厳しさ!!
なぜ神はアベルのささげものだけを受け取り、カインのささげものには目を留めなかったんだろう?
ヘブライ人への手紙11章4節
信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神がその献げ物を認められたからです。
新約聖書ではこのように語られ、
神が献げ物を受け取ったのは、アベルの信仰によるものだと解釈されている。
同じようにユダヤ民話の「はじめての死」でも、カインとアベルには信仰による優劣があったと物語っている。
アベルの献げ物は
「肥えた初子」の羊(創4:4)と書いてあるため、アベルが
自分の出せる最上の物を献げたのはたしかですね。
でも、カインの献げ物は「土の実り」(創4:3)としか記されていません。
どんな「土の実り」であったか聖書に書いていないから、ユダヤ民話ではカインが神への献げ物を出し惜しんで、「腐った果実や割れたクルミ」をささげたとしている。
カインとアベルの
「献げ物」は、それぞれの
労働の成果として解釈することもできる。
神が「カインの献げものに心を留めなかった」という表現は、カインが勤勉に働いたにもかかわらず、期待通りの成果を得られなかったと読み解くことができるだろう。
自分よりも良い成果を得たアベルをねたんで、カインはアベルを殺してしまった。
もしカインとアベルに信仰による優劣が全くなかったとすれば、この世の「不条理」を表した物語ということになるかも…。
これはフランスの画家、ギュスターヴ・ドレの「アベルの死」(1866年)だ。
取り返しのつかないことをしてしまったと気づいて、恐ろしさや後悔におそわれるカインが描かれていますね。
こちらはロシア(現・ベラルーシ)生まれのユダヤ人画家、シャガールの「カインとアベル」(1960年)だ。
聖書をテーマにした美術作品って、ほぼすべてキリスト教徒によるものだよね。
たしかに、ユダヤ教徒の手によるものはほとんどないね。
そう、ユダヤ教徒たちは長い間、偶像禁止の戒律(出エジプト記 20:4-5)を厳密に守っていたのだ。
20世紀になって、聖書を題材とするユダヤ人画家であるシャガールが登場する。
引用
新共同訳『旧約聖書』『新約聖書』
参考
『創世記1 ヘブライ語聖書対訳シリーズ』ミルトス・ヘブライ文化研究所編、2007年
『お静かに、父が昼寝しております ―ユダヤの民話』母袋夏生編訳、岩波少年文庫、2015年
ジョン・ドレイン『総説・図説 旧約聖書大全』講談社、2003年
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