第10話 出産はスタートに過ぎない?

文字数 4,228文字

 多くの女性を苦しめる「産め!」のプレッシャー。
 昔むかし、日本には跡継ぎを産めない嫁が離縁されていた時代がありましたよね。それを思えば、今はまだまし……かと思いきや、やっぱり形を変えて生き残っているような気も。ニュースや新聞に合計特殊出生率や何かの話題が出るだけで、まるで自分が責められているような気分になること、ありませんか? (被害妄想です)

 私もさんざん振り回されましたので、妊娠が分かった時には正直ほっとしたんです。くっきり線が浮き出た検査薬を手に、
「これで苦しみは終わり!」
「もう責められずに済む」
 などとガッツポーズ。

 甘かった。
 何が終わりじゃ(笑)。本当の苦労は今、始まったところなんだぞ。

 どんなに医学が進歩したって、出産が命がけであることに変わりはありません。どの女性も自分の命を削って産むわけですよね。

 私は一人しか産めませんでしたが、複数人を産んだ人の話では、
「一人目の時、あんまり辛くてさ。もう二度とこんな目に遭うのは御免だと思ったのに、不思議とそれを忘れちゃうの。で、次を産むときに思い出すんだな~」
 だそうです。
 私も忘れてしまっていることがあるんでしょうね。ま、辛いことを忘れられるのは人間の美点です。

 ちょっと話は逸れますが、経験していなければ出産や子育てを小説で描けない、なんてことは全くないと思いますよ。男性作家が克明な出産シーンや、あるいは母乳が出ないなどといったデリケートな悩みを描いていたりもします(それも上手なんだな~)。経験しているかどうかより、そこに興味があるかどうかが問われるんでしょうね。興味さえあれば、徹底したリサーチで対応できるはず。

 ところが私ときたら、ですよ。
 子供がいないうちはもちろん、現実に妊娠してからも出産や子育てにはさほど関心がありませんでした。陣痛に耐えられるかといった不安はありましたが、せいぜいその程度。自分はうまくいくはずだという、一種の正常性バイアスにかかっていたのかもしれません。

 母親学級にはせっせと通いました。赤ちゃんの人形で沐浴の練習をし、母乳育児の大切さやら(母乳派の産院だった)、母親の体重管理のことやら(太り過ぎると難産が心配ですが、妊娠中の極端なダイエットは赤ちゃんの糖尿病を招くことも。バランスが大事)、助産師さんの話に耳を傾けます。
 ノートに箇条書きで要点をまとめ、自分で読み返して満足気にうなずきます。これで優等生ママに一歩近づいたつもりでした。

 帰宅後は雑誌やネットで、可愛くて評判の良いベビーグッズをチェックしていきます。
「うわ~、おしゃれなベビーカー!」
 ワクワクが止まりません。妊娠しただけで女の勝ち組に入ったかのような気分。妊娠期間ってそういうものだとも思っていました。妊娠で「産め」圧力から解放された私は、完全に調子に乗っていました。
 バカバカ! 私のバカ!
 そんなだから痛い目を見るんです。

 間もなく、噂の「つわり」が始まります。
 これは個人差が大きいそうですが、私は結構きつい方で、期間も長かったです。入院するほどではなかったんですが、多くの人に迷惑をかける事態に。

 ちょっと前まで多くの人がそうだったと思うんですが、私は他人様に迷惑をかけるのがこの世で一番悪いことだと思っていました。吐き気で欠勤せざるを得なくなると、何とかしなくちゃ、と焦ります。
 「悪阻」「対策」「軽減」などのワードで検索をかけると、ずらっといろんな情報が出てきます。何から読めばいいのか分からないほどで、かえって混乱してしまいます。

 しかし、何ということでしょう! 読めば読むほど、分かってきたのは一つの現実です。
 すなわち人類は地上に登場してから、いや、恐らくは現生人類がサルから分化するよりも昔から、つわりに苦しめられてきたというのに、いまだにはっきりとした原因も、根本的な解決法も見つかっていないということ。

 だからお医者さんに吐き気が止まらない、苦しいと訴えても無駄です。
「そうですよね。苦しいですよね。でも赤ちゃんのためですよ。頑張りましょう!」
 拳を握ってそう励まされるだけ(笑)。もちろんそう言ってくれる先生の優しさには感謝の念しかありませんが、当時の私はどうでもいいからこの吐き気を止めてくれ~!!という感じでした。

 四か月に入る頃には落ち着いてくる場合が多いそうですが、私は七か月ぐらいまで続きました。でも「お茶漬けなら食べられる」とか「意外とトマトソース系も大丈夫だ」とか、自分なりの対処法が見つかってくるのも事実。
 なのでこれから産もうと考えている方は、むやみに怖がらないで下さいね。

 当時の私は某百貨店のカルチャースクールで働いていましたが、通勤電車がまず難関でした。家を早めに出て、各駅停車に乗って、一駅ごとにホームに降りて深呼吸。もちろん万一用のエチケット袋はすぐに取り出せるようにしておいて。
 幸い、通勤途中で吐くことは一度もありませんでした。

 マタニティーマークは一時期「女の勲章」などと呼ばれました。今もつけるかどうかに議論があるようですが、私はバッチリ見えるように「付ける派」でしたよ。だって何かあった時に(外で失神する可能性も考えました)、誰が見ても分かるようにしておきたいですから。遠慮している余裕もなかった、と言った方が正しいかもしれません。

 実際、マークのお陰で助かりました。派手な服装の若者が、さっと席を立って譲ってくれた時には、はっとさせられたものです。
 金髪にサングラス、全身にジャラジャラとチェーンをぶら下げているような男の子でしたが、自然な所作で「どうぞ」と示してくれるその態度は実に紳士的でした。反省しました。いかに普段の自分が、人を見た目で判断していたか。

 譲ってくれる人の中には、高校生も多かったです。それも男女問わず。
 何のてらいも迷いもなくできるというのは、学校でそのように教わったのでしょうか。
 心からお礼を言って座り、でもすぐにうつむいてしまいました。今の若い子は偉いなあと。自分が高校生の頃は知らない人に話しかける勇気がなくて、こんな風にできなかったなあと。

 職場に着いても、私は周囲の人の温かさに救われました。同僚の先輩たちの中には子供のいない人もいたというのに、皆が常に私の体をかばい、気遣ってくれて、負担の大きすぎる仕事を免除してもらうことも。
 私には、何もお返しできるものがありません。どの人も承知の上で、そうしてくれたんですよね。

 今は妊婦をかばい過ぎると本人の(キャリアの)ためにならない、といった議論もあるようですね。これは本人の体調によるし、仕事の内容にもよるんじゃないでしょうか。妊娠中も無理をして働くのが当たり前になってしまうのは怖いこと。お母さんの体はもちろんですが、赤ちゃんの命を危険にさらしてはなりません。

 妊娠後期の私は、とりあえず激しい吐き気からは解放されました。
 しかし新たな問題が。小柄な私は通行人に笑われるほどお腹のせり出し方が激しくて、歩くのも一苦労。腰痛にも悩まされました。

 しかも速足で歩くとすぐにお腹が張ってしまいます。早産を防ぐため、いちいち足を止めて休まなければなりません。
 睡眠時にも脚がつる(貧血が引き金になるらしい)などのトラブル続きで落ち着きません。もう面倒臭くなって「いい加減、早く出しちまいたい」などと思ったものです(笑)。

 だから分娩室で「オギャー」の産声を遠くに聞いた時、私が最初に思ったのはやっと終わったということ。
「おめでとうございます。男の子ですよ」
 ああ、そうですか。
 これでようやく、きつい妊娠期間が終わったんですね。私、解放されたんですね。
 
 もちろん陣痛や分娩時の痛みもまた大変なわけで、終わったなどと思えたのは私が比較的安産だったからかもしれません。難産を経験した人の感想はまた違うと思います。

 余談ですが、陣痛の波がどんどん、どんどん大きくなってくるあの時。
「ふーっ」と細~く長~く息を吐くのは本当に効きます(具体的なやり方は、助産師さんが母親学級の中で教えてくれます)。ヨガなどの呼吸法と同じようですね。全身の力を抜いて息を吐くと、不思議と激しい痛みは「耐えられる」範囲に落ち着くのです。痛みを受け入れてしまった方が楽なのです。

 逆に、痛みを抑え込もうとして、全身に力が入ってしまうと大変です。そんな時こそ痛みは容赦なく、壮絶な形で襲ってきます。
「分かってるけど、力を抜こうと思ってもできないんだよ~」
 という人も多いそうなので、本番前にリラックスする練習をしておくのをお勧めします。
 またこれは出産の痛みに限らないと思うので、男性も知っておいて損はないと思います。

 へその緒が切られ、まだ胎脂のついたままの赤黒い物体(そう見えた)が、私の顔の横に寝かされた時。
 うちの近所に古い街道がありますが、顔はそこのお地蔵さんにそっくりでした。これが私のお腹の中に収まっていたとは到底信じられません。
 というわけで、以下この息子をジゾウと呼びます。

 こんな私にもようやく「産んだ」という実感がわいてきました。
 これまでお世話になった人たちの顔が浮かびました。電車内で席をゆずってくれた、あの金髪の若者も。

 初めて涙が出てきました。
 一人で産んだわけじゃないんです。みんなのお陰で産めたのです。
 たぶん一人の赤ちゃんがこの世に生まれてくるためには、一人の女性が頑張ればいいという話じゃない。多くの人が力を合わせて行かなくちゃいけないと、あの嫌なニュースはそう言っていたんじゃないでしょうか。
 だから多くの助けを得たことを、私はずっとずっと忘れないでいようと思いました。私も次に産む人を応援してあげられるようでありたいと。

 だけどねえ。ほっとしている場合じゃありませんよ。まだまだ他人の応援に回れる身でもありませんよ。
 よく言われることですが、出産ってゴールじゃなくてスタートです。

 そう、大変なのはここから先! 出産はよく富士登山にも例えられて、人によっては登頂時にかなりの身体的ダメージを食らうのですが、体が回復しないうちに今度はフルマラソンが始まります。私も麻酔が切れたら会陰切開の傷の痛みがすさまじくて(生々しくてすみません)、トラウマになるほど苦しみました。

 次回以降、そのフルマラソンの話になっていきます。
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