第20話 夜風の魔法

文字数 3,037文字

 小学二年生あたりから、我が家は新たな問題に直面しました。
 これまた無視できない、母親にとっては特に重たい問題。ジゾウの家庭内暴力です。

 計算プリントがうまく解けない。鉛筆がうまく削れない。
 そんな理由で、ジゾウは泣きながら私を叩いたり、蹴ったりしてくるのです。もちろん帰宅時のK君が標的になることもありますが、基本的に子供にとって父親は「怖い」存在。どこの家でも、癇癪をぶつけるのは母親と相場が決まっているようです。

 私は叩かれるたび、この子の暗い将来を見たような気がして、ぞっとしました。今はまだ力が弱いからいい。だけど大きくなっても母親に暴力をふるうような子だったら?

 金属バットで親を殴り殺した子の事件を思い出します。恋人や妻を殴る男性も、この世にはたくさんいます。
 ジゾウがそうならないとは言い切れません。何とかしなくちゃ!

 私もK君も何とかジゾウを言葉でなだめたり、落ち着かせるために深呼吸をうながしたりしましたが、こうした当たり前のことではなかなか効果が出ません。
 あるときジゾウが泣くために口を大きく開けたので、私はとっさにチョコレートの粒を放り込みました。
 チョコの甘さにびっくりして泣き止んだジゾウ。目を白黒させ、見事に暴力は止まりました。この瞬間、すごくほっとしたのを覚えています。

 だけどこんなやり方、その時はたまたまうまくいっても、有効な手段とまでは言えません。だいたいチョコが喉に詰まったら危ないですよね。
 二度目からは、ジゾウもその手には乗るまいとばかりにチョコをぺっと吐き出しました。
 ほら、この手はもう使えない。

 ジゾウの暴力は、ますますエスカレートしていきました。
 小学校二年生から三年生へ。力が強くなっていくとともに、私も抗えないほどになっていきます。押されて耐えきれず、後ろに倒れてしまうこともしばしば。K君も見かねて、強い調子でジゾウを叱りつけてくれますが、事態を余計に悪化させるだけ。

 どうしよう……。
 私たちは途方に暮れました。この癇癪の激しさを、何とかコントロールしなくてはなりません。

 小学校の先生は、ジゾウの大人しい姿しか見ていなかったようです。面談の時などに家庭の様子を正直に話すと、どの先生も驚きました。
「あのジゾウ君が。信じられません……」

 前回も触れた支援教室のN先生は、ジゾウに対していろいろアプローチして下さいました。
「どんな時にイライラしちゃうかな?」
「どうしたらリラックスできるかな?」

 SST(ソーシャルスキルトレーニング)の一部です。これが有効かどうかはまた議論の余地があるそうですが(手なずけようとする大人の意図を感じ取り、反発する子もいる)、ジゾウの場合は、意外に素直なところもあります。先生に聞かれたことにはちゃんと答えなくちゃと思ったらしく、この時も必死に考えた模様。

「『いい子ね』って、頭を撫でてもらうと落ち着くんだよね」
「お寿司とか、アイスクリームをもらうと落ち着くんだよね」

 コラー! 調子に乗ってあれもこれも要求するな!
 しかし先生はさすが、うまく転換してくれます。
「じゃあ、お母さんに『いい子ね』って言ってもらうには、どうしたらいいかな?」
「ご褒美にお寿司やアイスクリームをもらうには、どうしたらいいかな?」

 こうやって本人に考えさせるのは、ジゾウの場合は有効だったと思います。徐々に、ではありますが、立ち止まって考えるということが増えましたから。
 成長期にこそ、冷静になる訓練は有効なのかもしれません。

 だけどこれでもなお、問題は解決しませんでした。
 ジゾウはその後も、私に暴力をふるい続けました。一度スイッチが入ってしまうと手がつけられなくなる。そこは変わりなかったのです。

 どころか、お寿司やアイスクリームなど好きな食べ物で「釣る」作戦も、通用しなくなってきました。
「あ、ほら、宿題が終わったら、おいしいアイスを食べようよ!」
 すでにパニック状態に陥ったジゾウに言っても遅いのです。当然ながら、彼が泣き止むことはありません。
「やだよー! いらないよー!」
 泣きながら、やっぱり私を叩いてきます。チョコレートと同じく、それは一度しか使えない手でした。

 私、いつかジゾウに刺し殺されるのかな……。
 
 次第に私も絶望したくなりました。もうこれ以上頑張っても駄目かもしれない。頑張った挙句、最後は死ぬしかないのかもしれない。

 気が狂いそうな思いで、私は自分を叩いてくるジゾウの手首をつかみました。
「もういい! 宿題なんか、やらなくていい!」
 パニックの原因となった計算プリントをかなぐり捨て、私はジゾウの手を引っ張りました。
「散歩に行くぞ!」

 ひらめいたというよりは、必要に迫られて思い出したという感じです。
 夜泣きに悩んだ赤ちゃんの頃。寝室ではぐずって、いつまでも寝てくれなかったジゾウですが、なぜかベランダに出て夜風に当たると、すやすや眠ったものです。あれは夜風の魔法とでもいうべきものでした。

 ちなみに夜泣きについては、車に乗ってドライブするのが効果的な子もいれば、公園のブランコで揺れるのが効果的な子もいます。夜中に公園をうろついていると、おまわりさんに怒られますけどね(笑)。
 自宅でずっと大泣きさせていると、これまた通報されて児童相談所の方が来てしまいます(これは私ではなく、友人の体験談。悲しい虐待事件が相次いでいることを思えば、親が少し疑われるぐらいは仕方ないですね)。ジゾウはベランダで済んで良かったというべきものでしょう。

 だからその日も、私は小学校三年生のジゾウを夜風に当てました。
 夜九時。うちのパパはまだ帰ってきていませんが、大勢の人が一日の仕事を終えて自宅へ戻るところです。街道沿いには疲れた表情の大人が行き交い、車が列をなし、チェーン店のネオンが輝いています。

「いっぱい、人がいるねえ~」
 ジゾウは目を輝かせ、夜の町を見ていました。
 あんたねえ、今の今まで暴力をふるってたの、覚えてる? と言いたくなりますが、わざわざ怒りの感情を思い出させることもありません。手をつないで歩きながら、私はジゾウに合わせます。
「そうだねえ~。九時でもこんなに賑やかなんだねえ~」

 コロナ禍の今は、夜の町はもう少し静かですよね。この時は繁華街の喧噪の中を、場違いな親子が(私はエプロンをつけたまま)歩いている感じでした。

 神様どうか。
 私は願いました。
 どうか私が死んだ後も、ジゾウが一人で歩いて行けますように。

 神様が聞き届けてくれたかどうかは知りません。だけどとりあえずの魔法は効いたようです。
 夜の散歩を終え、ジゾウは上機嫌で帰宅しました。しかもぐしゃぐしゃになった計算プリントを自分で伸ばし、寝る前にちゃんと宿題を終えました。

 ……できるのか!
 だったら、最初からそうしてくれ(笑)。

 不思議なことに、この「夜風」作戦は一度きりではなく、何度やっても有効なものでした。本やネットから得た知識ではあまり効果がなかったのに、どういうわけでしょうか。
 もしかしたら、自分で見出した解決法であることが重要なのかもしれません。ジゾウならではの方法を見つけることが必要だったのです。
 我が家にとって、一種の限界突破だったように思います。

 たぶん私たち親子には、この先も大変なことがあるでしょう。でも壁にぶち当たった時こそ「夜風の魔法」を思い出し、再びの限界突破を試みたいものです。

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